それからわずか四半刻(30分)あまりで、秀に薬箱を持たせて駆けつけてきた漢方医が、 床をのべ寝かされたおりくの枕元に座し、勇次に所見を述べていた。 秀はわずかに開けたふすまの向こう側、無表情に両腕を組んで柱に凭れて、漏れ聞こえてくる医者の声に耳を傾けた。 「まあ、いい年だからの。心の蔵が弱ってくるのは仕方ない」 人のことを言えた義理でもなさそうな老漢方医は、仙人のように飄々と紅い口を開いて笑うと、 おりくの白皙の顔に目を遣った。おりくは薬が効いているのか、 肌の色に血の気が戻りつつあり、いまは幽かだが寝息をたてて眠っている。 「しかし強いお人だ。倒れてそのまますぐ息がとまり、意識が戻らぬ者も少なくないと言うのに」 なんとおりくは、懸命に呼びかける勇次の腕のなかで一瞬意識を取り戻したという。 しかも幽かな息のした、倅に向かって「勇さん、騒ぐんじゃないよ」と叱責したというのだ。 これには決まり悪さなど忘れて母の様子を告げる勇次のみならず、医者も秀も驚いた。 「倅の呼びかけにどうにかして応えてやろうと踏ん張ったのが、良かったのかのぅ」 長屋のばあさんに泣きつかれ二、三度おつかいをしてやった漢方医宅が、 三味線屋から近いことを秀がとっさに思い出したのは、僥倖だったものの。 「―――まあ。あと少し遅かったら、さすがにこの気丈なおひとも危なかったかもしれんが」 ずっと無言で母親の顔を見守っていた勇次がはじめて顔をあげ、深く頭を下げた。 「峠は越えた。もう大丈夫じゃよ」 ひとりで戻れるから良いと同行を断って帰っていった漢方医を戸口で見送ると、 勇次は少し離れた場所でひっそりと見送りをしていた秀を振り返った。 すでに日は傾いて、灯りの灯っていない店内は、互いの表情を見分けるのさえおぼつかない。 「今日はほんとにすまねぇ」 掠れた声で勇次がぽつりと語りかける。 「・・・ざまぁねぇとこ、見せちまった」 「・・・」 「おめぇがいなかったら、どうなってたか知れねぇ」 「・・・」 「・・・・・秀」 一歩踏み出して近づこうとする長身の影に、 「それ以上言うんじゃねぇ」 ぶっきらぼうに言うと、秀は戸口をふさぐ勇次を押しのけるように、外に出ようとした。 とっさに勇次がその腕をとらえる。 「なんだよ?」 「いゃ、」 取り乱した様をしっかり見せてしまった勇次に、いつもの余裕はなかった。 半纏ごしに肘を掴んだ長い指に、ただ力を籠める。 「―――・・・」 秀は珍しく何も言わない。黙って顔を背けたまま、勇次の手が離れてゆくまで待っていてくれた。 「しゃ・・・、・・・勇次」 ようやく勇次が秀の腕を解放したあと、秀が低い声で呼びかけた。 「うん?」 「おめぇ、今度の仕事、外れろ」 「!?」 「邪魔なんだよ。いまのおめぇに出来るはずがねぇ」 「関係ねぇ。それとこれとは別だ」 睨み合う二人の目の底が、わずかな光源を集めて鈍く光った。 「オレは。秀よ。おめぇと仕事がしてぇんだ」 ザリッと小さく勇次が踏み込み、距離が近くなる。互いに息が触れるほど近づいて、 どちらも自分の意志を譲らず目を逸らすこともしない。 「―――。・・・しろよ」 「・・・え?」 コクッと小さく、秀の喉が鳴る音がした。 「おりくさんを大事にしろよ」 勇次が思わず秀の顔を覗き込もうとしたときには、秀はするりと脇をすり抜け、戸外へと逃げ去っていた。 長身だが細身の後ろ姿は、薄闇のなかにアッという間に溶け込んでしまう。 それでも勇次は、秀の消えた方角を長いこと見つめていた。 勇次が奥に戻ると、おりくが天井に向けて静かに目を開けていた。急いで枕元ににじり寄る。 「おっかさん」 覗きこむが、おりくは天井を見つめたままだった。 「寝てなくていいのかい?」 「・・・・・勇さんもまだまだだねぇ」 勇次は言い返す言葉もなく、握った拳で口元をおさえ薄く染まった瞼を伏せてしまった。 その様子に目をやり、おりくが低く笑い声をたてる。 「・・・冗談だよ。よくぞ助けておくれだね」 「なに言ってんだ。当たり前じゃねぇか!」 まだ声に力はないが、いつもの調子の母に勇次はホッとして目を開いた。 「―――勇さん」 「なんだい?」 「仕事は・・・どうするつもりだい?」 「・・・・・」 「今回はあたしは降りる・・・。こんなんじゃどうにもならないしねぇ」 「あぁ・・・」 「さっき、やるかと訊かれてすぐに答えられなかったのはね、近頃なんとなく息切れはするし、 胸が苦しいような気がしていたからだったのさ」 「そうだったのかい・・・」 勇次はしばらく黙って膝のうえに置いた両手を見つめていたが、 「おふくろ」 憂いがかった瞳に違う色を湛えて、おりくの目を覗き込んだ。 「オレはやるよ」 「・・・」 「秀は外れろと言った。だがオレはやりてぇ」 「勇さん・・・」 「秀と組んで、きっちりつとめを果たしてくるよ」 おりくは黙って頷く。そしてなにかに思いを馳せるよう虚空に視線を彷徨わせ、吐息のような細いため息をついた。 「あのひとは・・・。仕事人には優しすぎるお人だねぇ」 勇次は何とも答えられなかった。おりくもただ、独り言のように呟いただけで、また静かに瞼を閉じる。 布団を掛け直し灯りをおとして、勇次はそっと部屋を出た。 暗がりのなか、おりくの言葉を反芻する。そして、最後の秀の言葉を。 「秀・・・」 続
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