爪のような月がかかっていた。仕事にはうってつけの、暗い夜だ。 仕事人たちはすでに隠居所を包囲して、先に忍び込んだ秀が動き出すのを、それぞれの場所から息を潜めて待っていた。 前もって賭場に探りを入れた秀は、そこで八丁堀の推察どおりの裏取引の日取りの相談を目撃した。 さらに庭の一番奥に面した座敷に、掠ってきた娘を他にもふたり押し込めていることも突き止めた。決行は取引の行われる今夜。 娘たちのいる座敷の唯一の出入り口となる縁側に面した障子の前に、いつも用心棒が交代で見張りについている。 屋敷の外にも見張りは数人常駐しているせいか、ここの見張りは他よりも甘い。 秀はいま屋根のうえから、見張りの男が縁側で伸びをしながら大あくびをする様を見つめている。 男から目を離さず胸元から取り出した簪をそっと唇に咥えた。先についた板飾りが鈍い光を集める。 一陣の風が竹林を吹き抜け、さらさらと竹の鳴る音が空気を揺らしたそのとき。 黒装束の秀は音もなく男の背後に舞い降り、自分よりがたいの良い男の猪首に片腕を巻き付けた。 ぎょっとした男が声を上げる直前に、刃物と変わらぬ簪の切っ先が盆の窪を正確に刺し貫いていた。 さらに深々と根本まで突き刺す。 飛びださんばかりにカッと目を見開いて硬直した男が、秀が簪を抜き取り腕の力を抜くと同時に、土の上に膝から崩れ落ちる。 それを見届けると、秀は庭の端にある小さな木戸のかんぬきを外し内側から開いた。加代が小腰をかがめて侵入する。 囚われた娘ふたりを救出するのが加代の役目だ。加代と秀は目顔で頷くとすぐ、それぞれの動きを開始した。 勇次は山寺風な正門近くの木立の陰に身を潜ませていた。 隠居所であるから、門そのものは大きくはない。 だがその門前には見るからに身を持ち崩した風体の浪人者と気の荒そうな若いやくざ者とが、 雑で穢らしい殺気を吐き散らしながら周囲に目を配っていた。 喜之助はすでに来ている。喜之助に前後して、お店者風な太った男、どうみても女衒としか思えない残忍そうな旅装の男、 ほっかむりをした胸板の分厚い男(これは喜之助の一味の船頭だろうと勇次は見当をつけた)など、 ぽつりぽつりと現れては、見張りに簡単な尋問を受けて中に吸い込まれていった。 ザッと数えただけでも、喜之助をはじめとして少なくとも中に六人、外に二人いる。 勇次は袖口に隠した三の糸の感触を指先で確かめる。 弦の中では最も細いが、特別な細工を施した強靱なそれは、男の太い首に巻き付けて引き摺っても切れることはない。 半眼の瞼をやや上げて闇に目をこらせば、自分の立つ場所から反対側の塀の陰に、 八丁堀が巨大な沈黙そのものと化して佇んでいるのが分かった。 秀が内側から動きを起こす。幾たびか目にしたあのしなやかな風のような動きを、勇次は瞼に思い描いて待った。 今夜来る予定の客はこれで雁首そろったのだろう。 見張りの若いやくざが退屈しのぎにぶらぶらと屋敷のまわりを巡りにいったが、 血相変えて戻ってきたのはそれから直ぐのことだった。 「おいっ、庭の木戸が開いてるぜ!!」 「なに!?」 「庭で仁吉が死んでる!!座敷ももぬけの空だ!!!」 怒鳴りながら裏木戸のほうに引き返してゆく。 「舐めやがって!オレぁ娘を追う!!中に伝えろ!!」 八丁堀の影がさっきの場所からすでに消えていた。若いやくざはほどなく息の根を止められるだろう。 勇次は白足袋の足を一歩前に踏み込んだ。 突然のことに一瞬呆気にとられた浪人が慌てて踵を返した背中にむけて、魔弦が飛ぶ。 「ぐ・・・っっ!?」 素早く剣を抜いたが、すでに遅い。浪人は自分の身に何が起こったのか分からぬまま刀の柄を取り落とし、 喉元を掻きむしりながら背後に引き摺られていった。 今まで立っていた古木の太い枝を滑車にして、浪人をきりきりとつるし上げる。 もはや浪人は宙に浮き、白目を剥いてぴくぴくと苦悶に足の指を蠢かすのみ。 肩越しにピンと張り詰めた糸に、勇次がツッと指を走らせゆっくりと一音つまびくと、 「・・・!!」 浪人の断末魔の息はそこで途切れ、切った糸と共にどさりと地に落ちた。 勇次の殺気が皐月のゆるい夜気を凍てつかせる。さばいた裾を一動作で戻して立ち上がった白皙の貌が、 蝋人形とも見紛う凄みのある美を増していた。 すでに中に入った八丁堀の後に続いて無人の門を通り抜け、勇次は次なる標的に音もなく近づいてゆく――― 色男がいると噂の三味線屋の店先には、珍しく女の姿が見えなかった。 町方の役人が見回りに来ているとあれば、さすがに遠慮するというものだろう。 「おりくさん、調子はどうだ?」 聞こえよがしに、これは八丁堀の旦那、おつとめご苦労さまです、と勇次が挨拶すると、 これまたオウとぞんざいに答えた八丁堀が、土埃と共にヌッと入ってきた。 「わざわざすみませんね、旦那」 如才なく挨拶を返したのはおりくで、これから付けに行く稽古のための三味線を準備しているところだった。 「出られるてぇところをみると、もうずいぶんいいのかい?」 上がりかまちにどっかりと腰を据えて尋ねる八丁堀に、 「ええ、おかげさんでもうすっかり」 と落ち着いた笑顔である。 「そうかい。そんならよかった。秀のやつから聞いたときにゃ驚いたぜ」 その名を聞いて、勇次のコマを締める手元が思わず止まりかけた。あの仕事の夜以来、秀とは一度も会っていない。 暗闇ですれ違い様、わずかに目が合ったのが最後だった。 「そう。秀さんがあのとき居てくれなかったら、いまごろはあたしも三途の川を渡ってる頃かもしれませんね」 「縁起でもねぇこと言うんじゃねぇや。あんたにゃまだ三途の川の渡し婆も銭をせびれそうに見えねぇよ」 勇次をよそに、二人は軽口を叩き合っている。 「おかげさんで。あたしら皆、地獄の閻魔さまには嫌われておりますからねぇ」 「ちげぇねぇ。が、当分ムリしねぇほうがいいぜ」 『あっちの仕事は』という言葉を言下に含ませ、茶をグッと飲み干した八丁堀が、 茶碗ごしに口調とは裏腹の鋭い視線を投げ掛けた。 「・・・えぇ。そうします」 「あいつにもそう言われてんだ」 「―――あいつ?」 ハッとして勇次が口を挟んだ。おりくは黙って勇次に目をやり、八丁堀は勇次の反応を面白そうに見やった。 「そうよ。秀は親の顔なんざ知らねぇからな。つーか、親に育てられたこともねぇしな。 おめぇたちの仲睦まじさァみて、思うところがあったんじゃねぇのかい」 「止してくださいよ、旦那。大騒ぎしてこっちが恥ずかしい―――」 おりくが心底決まり悪そうに顔のまえで手を振って否定するが、八丁堀は詳しいことは何も聞いていないとみえ、 無造作に首をかしげて呟いた。 「いや、いいんじゃねぇか?秀がてめぇのほうからそんな話をしてくるのは珍しいからなぁ」 長い顔をくるりと手で撫でさすると、にやりと笑って勇次を見た。 「ま、せいぜい仲良くやってくれ。争われるよりそのほうがずっと助からぁ」 仕事人のまとめ役として、うまく付き合ってくれるほうがたしかに好都合に違いない。 しかし最後に一言、付け加えるのを忘れなかったのはさすがというべきか。 「おりくさんはいいとしてだ。勇次よ」 勇次は無言で、立ち上がった八丁堀を見上げる。 「おめぇは秀に引き摺られるんじゃねぇぞ」 「・・・どういうことだ?」 「あいつはああしてるが、根っこのとこじゃ情が深ぇ」 それは知ってる、と勇次は思った。 「・・・・・」 「仕事に余計な情を挾まねぇように、おめぇもつき合い方には十分気をつけてな」 「・・・オレは仕事のときは何一つ考えねぇ。余計な心配だよ、八丁堀」 ふたりの視線が一瞬絡み、冷ややかな殺気が立ちのぼった。 「そいつを聞いて安心したぜ」 八丁堀は背を向けると、ふぁぁと大あくびをして昼行灯の顔に戻り、後もみずに店を出て行った。 「それじゃ勇さん、行ってくるよ」 「ああ。気をつけて、おっかさん」 おりくを見送ると、勇次はかすかにため息をついて無意識に天を仰いだ。 何となく、秀に会いたい、と思った。 加代と秀の住む長屋の場所は知っている。しかし今さら、なんといって訪ねてゆけばいいのか。 世話をかけたことを詫びる勇次を秀は、もう何も言うなと遮った。 それでいて八丁堀には、おりくがムリをしないように口添えする。 これでは秀に哀れまれている気がする。もちろん秀にはそんなつもりはないのだろうが。 (オレはおめぇともっと話がしてみてぇ・・・秀) 憎まれ口以外の会話が成り立たないのは、秀にとりつく島がないせいか、それとも、自分に対して警戒しているせいなのか。 (八丁堀にはあんがい気を許してるみてぇだがな・・・) なんとなく八丁堀に反感を持ったのは、そのせいもあるかもしれない。 勇次は最近妙に心の襞を揺り動かされている気がして、そんな自分を嘲笑する。 (わからねぇ。あいつがなんだっていうんだ―――) しかしうちでこうして座っていても、所在ない気持ちに変わりはないのだ。 母の全快報告を口実に、とにかく会いに行ってみよう。 何しに来た、帰れと顔を見るなりぶつけられるかもしれない。 まあ、それでもいい。自分はいま、なぜかあの簪屋の憎まれ口を直に聞きたくなっているのだから。 皐月のゆるい風に鬢のひと筋を嬲らせながら、勇次は静かな胸の高鳴りを愉しむように、 ゆっくりと歩いてゆくのだった。 了
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