秀、医者を呼ぶ 2







 その日の午後。
 秀はいつもにも増して不機嫌なツラで、五月晴れの空の下(もと)、三味線屋目指して歩いていた。
 三味線屋の母子に会うのは久しぶりだ。おりくという貫禄十分の母親のほうはまあいいとして、 秀は倅である勇次のことはあまりよく思っていない。というか、どこか苦手意識があるのだ。
 別段、勇次が秀に対してなにか悪いことをしたわけではない。 そもそもどこかで食い詰めて江戸に舞い戻ってきた加代が、ことの発端であり元凶だ。 裏稼業の再開に気乗りのしない八丁堀や秀のかわりに、 仕事人ではないかと睨んだ三味線屋親子に探りを入れた挙げ句、逆につきまとっていたことを暴かれ、 危うく小指を糸で切り落とされかけた。
 あのとき加代の無鉄砲さに危険なものを感じ、 また軽率な行動に出られてこっちに火の粉がかかっちゃかなわないと足取りを追った秀が、すんでで間に合わなかったら、 いまごろ秀と勇次は成り行き上、殺し合いすら演じていたかもしれないのだ。
 橋のしたで勇次と距離を保ったまま相対したとき、秀はなにか不思議な感覚をこの静かな男に対して抱いた。 殺気に禍々しいものが充ちてこない。
 たとえば八丁堀の放つ殺気などは、町方同心と裏の顔とを長年巧みに使い分けて生き抜いてきただけに、 何が潜んでいるのか底の知れない闇にじんわりと囚われるような不気味さが、本能的な恐怖を掻き立てる。
 勇次は縞の着流しがよく似合う白皙の色男で、切れ長の目元はどこまでも涼しく、 それでいて射抜く視線には、なにかこちら側の内面までも見透かされそうな凄みがあった。 勇次から放たれる殺気は冴え冴えと輝く冬の月の凍てつく冷たさを思わせ、 それはなぜか、秀が幾度となく感じたことのある、限りなく絶望に近い孤独の気配に似ていなくもなかった。
 ぴくりとも動かないふたりのあいだで、殺気はむしろ未知なる互いを探り合うかのように絡み合い、 いつかそこには真空の静寂に近い、ふたりだけの無の世界が出来上がっていた。
 結界を破ったのは、近くで遊んでいた子供のひとりだった。 ふたりはハッとして我にかえり、そこが通行人も人の目もある昼日中の橋の下だったということを、 いまさらながら思い出して、同様に途惑った。
 一瞬にして殺気を消し去った勇次は、戯れてきた少女に穏やかな目を向け苦笑すると、 軽く背をおして子供たちの輪の中に送り出してやっている。 そして動けずにいる秀にだけ判るような、凄艶としか言いようのない視線をちらと投げ掛けた。 仕込んだ糸を何食わぬ顔で袂の内に隠すと、着流しの裾を粋にさばいて踵をかえした。
 遠ざかる後ろ姿を見送りながら、いまになって全身にどっと冷や汗が吹き出した。 しかし秀は、果たし合いにならずに済んだことに安堵している己を意識していた。
 殺せないわけではない。ただ、思わずたじろいだほどに澄み切った水鏡を思わせる瞳のこの男とは、 出来ることなら殺り合いたくないと、たしかに心のどこかが呟いたのだ。
 これまでにない妙な感情を抱かせた相手。だから秀は、こうして裏で手を組んで仕事する一蓮托生の間柄となったいま、 勇次に対してどんな態度をとれば良いか判らずにいるのだった。


 三味線屋の吊るし看板が柔らかい風に揺れる店先で、 ふたりの町娘がきゃっきゃっと笑い声も喧しく中を覗き見している。
 またかと秀はげんなりした。ごくたまに三味線屋のある通りを私用で通るときがある。 もちろん三味線屋に用事などないから、知らん顔して素通りするだけだ。 それでも店先を、若い娘や年増のお店(たな)もののおかみらしい女、 芸者などじつにさまざまな女たちが彩っていなかったためしというのが殆どなかった。
 たしかに勇次は役者になっても不思議ではないと思われるほどの、水際立って様子の好い男である。 そんな色男が、けっして広くはない店のなかに端然として座し、 物静かに三味の手入れをしたり糸を張り替えたり稽古をつけたりするさまは、 女であれば誰しもがうっとりと眺めてみたい一服の画(え)なのであった。
 むろん秀は三味線にも、そして勇次の色男ぶりにもなんの興味もなかったから、 店先を騒がす女たちの黄色い声や脂粉の匂いは、邪魔でこそあれ、ありがたいものでもなんでもない。 ことに今日みたいに、大事な仕事の話で訪ねなければならないときなどは。
 しかし勇次は、通りに向けて少し開け放った窓のすきまから、すでに秀の姿をみつけていたようだった。 秀が辻向かいの小間物屋の角に立ち、娘たちがのぞき見をやめて去るのを待っていようと柱によりかかったとき、 中から勇次が出てきて、娘たちになにか声をかけた。 娘たちは顔を見合わせ、すかさずきゃあ!とけたたましい声をあげて、赤い顔でなんどか勇次を振り向きながら、 くすくす笑い合って駆け去ってゆく。それを涼しい笑顔で見送る勇次。
 あっという間の出来事にぽかんとしている秀に向けてちらと視線を送ると、 看板の一部をうらがえして中に戻っていった。店じまい、の合図である。
「・・・あの気障やろう・・・っ」
 むかつきながら、秀は雑踏に紛れてさりげなく三味線屋に近づくと、 するりと猫のようにわずかに開いたままの戸口からなかに滑り込んだ。



「なんて言って追い返したんだ?」
 張り替えの道具を仕舞う着流しの背中に投げ掛けると、
「え?」
 こっちを振り向いた勇次は、シュッと裾を鳴らして秀に向き直る。
「なんのこったい?」
「いまの娘たちにだよ。えらく聞き分けがいいじゃねえか」
 不審そうな秀の口調に、勇次は目を笑わせて答えた。
「恋しいおかたがお見えになるので今日はこれにて店じまい、とね」
「けっ!なんだそりゃ」
 秀はさも気色悪そうに眉間に皺を刻んだ。
「聞きたがったのはそっちだろう。ああでも言わなきゃなかなか帰らなくてね」
「そりゃおめぇが優しく構い過ぎるからだ、三味線屋」
 客が来ないと知ってちょっと安心したのか珍しく秀が軽口を叩き、勇次が思わず返答に窮したとき、 奥のほうからおりくの声がした。
「勇さん、だれか来てるのかい?」
「簪屋の秀さんだよ、おっかさん」
 裏の仕事にかかわる名を聞いたせいか、やや沈黙があって、やがておりくが端然とした身のこなしで姿をあらわした。
「おや、秀さん、お久しぶり」
「・・・」
 冷ややかではない微笑で会釈され、秀も黙って目礼を返す。 いつも堂々と沈着で、それでいてあだな色気が匂い立つ佇まい。 この母子には深い子細があり、血の繋がりはないと漏れ聞いているが、ふたりの持つ雰囲気は実の親子のように似通っている。 おりくのような母のもとに育つと、 この男みたいに若いうちから妙に落ち着き払ったいけ好かない余裕が身につくものだろうか。
 おりくの貫禄に、うっかり余計な想像に走ってしまった秀だったが、
「お茶でも淹れようか」
おりくの言葉でここに来た目的を思い出し、首を横に振った。
「茶飲み話に来たんじゃねぇ。八丁堀からの繋ぎだ」




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