秀、医者を呼ぶ







 錺職人の秀がいつものように長屋で細工仕事に精を出していると、 粗末な戸口の向こうでザッと草履を踏み込む音がした。
 秀が目だけをあげるのと、いるかぁ、の間延びした声と共に八丁堀が戸を引き開けて入ってきたのはほぼ同時だった。
「声かける意味あんのかよ、いつだって訊いたときには入り込んでるじゃねぇか」
「あ゛〜くそ、宿酔いの翌日の見廻りはこたえらぁ」
 秀の皮肉をカエルに水鉄砲の体で受け流し、八丁堀は甕の水を柄杓に汲んでは立て続けに四、五杯も流し込んだ。
「おい!飲んだ分だけ井戸から足しておけよ」
「うるせぇなあ。おめぇら貧乏長屋の井戸もな、町方が管理してるんだぞ」
「だったらどうした」
「ってことはだ、井戸から汲んできたおめぇんちの水もオレが管理してるってことじゃねぇか」
「わけわかんねぇこと言ってんじゃねぇ!仕事の邪魔になるから帰ぇれ!」
 薄汚い手ぬぐいで長い顔の汗をぬぐっている二本差しにずけずけと怒鳴りつける。 この昼行灯ときたら、同心の仕事はほとんど手を抜くわ賂はすかさず受けとるわ、 まったくろくな役人ではない。秀や加代の住む裏長屋にも、 用もないのにぶらりと立ち寄っては、勝手に水を飲んだり休憩所に使ったりして、表の仕事の邪魔をしてくるのだ。
「ま、ま。そうかりかりぴりぴりするもんじゃねぇや。月のさわりかと思うぜ」
 持っていた細工用の鑿でどたまをかち割ってやろうかと腰を浮かせかけたが、 一瞬素早く砂埃まみれの裾を蹴さばいて板間に尻を乗せてきた八丁堀が、 秀に身を寄せるとたったいまとはうって変わったドスの利いた声でささやいた。
「仕事だぜ」



 八丁堀の持ってきた話は、八丁堀がまだ同心になりたての頃、使っていた岡っ引きとその娘からの依頼だった。
 とうに十手は返し、貧しいながら一粒だねの娘とふたり、ささやかな仕合わせを紡いでいた元岡っ引きが、 八丁堀のもとを訪ねてきたのは10日ほど前。治助というその老人は、 通い奉公に出ている娘のおみつがある夜から帰らないことをいぶかった。
 通いとはいえ忙しいお店のこと、夜なべ仕事でもあるのかと一日二日は待っていたが、三日経ってもおみつはうちに戻ってこない。 何のしらせを寄越すわけでもない。 四日目の朝、治助はさすがに心配になり、おみつの通い先の廻船問屋「あらしだ」へと出向いていった。
 しかしあらしだの方では、おみつのことは知らないという。 それどころか、四日前から無断で勤めに出てこなくなったおみつが勝手に辞めたのだと怒っており、 治助に対してもうちは関係ない、迷惑をかけられたのはこっちの方だとけんもほろろの対応だった。 思いあまった治助は、旧知の八丁堀をすがり、町方としてあらしだの内情を探って欲しいと泣きついた。
 ところがそうしたさなか、行方が分からなくなっていたおみつが、 堀川の立ち腐れた杭にひっかかるようにして浮いて見つかったのだ。
 おみつは治助もみた覚えのない派手な襦袢姿一枚の、無惨な姿で死んでいた。 首には締められたあとがどす黒く残り、剥き出しの白いあしは、どこからか逃げだそうとしたときについたのか、 無数の細かな切り傷擦り傷があった。
 おみつの水死体を検分しているとき、おみつの襦袢の袂の奥に小さく丸められた一片の懐紙に八丁堀は気づいた。 濡れているのを苦労してやっとこさ開いてみると、そこには銀と小粒がわずかばかり包まれており、 その紙には『おとっつぁんたすけて』と乱れた文字が小さく書かれていたのだった。
「あらしだが何か隠してんじゃねぇのか?」
 話を聞いた秀が言うと、
「それがいろいろつついてみたんだが、どうも後ろ暗ぇネタが出てこねぇ」
「・・・・・」
「あるとすれば・・・」
「すれば?」
「副番頭の喜之助って男が、悪所通いにはまってるって筋くれぇなもんかな」
秀の目の底が鈍く光る。
「場所はどこだ?」
「神楽坂の外れの竹林んなかに建つ古い隠居所よ。お武家の隠居がわび住まいしてたっけか、 もう10年以上まえから誰もいねぇ荒れ放題の屋敷になってる。幽霊が出るって話でな、近くに住む連中も誰も近づかねぇ」
「そういう噂を流せば、まず賭場を張ってもばれる気遣いはいらねぇしな」
「おう。喜之助は独りもんだが、日をおかず賭場に出入りしてるらしい。最近はどうやら負けがこんできたらしく、 手代やら他の仕事仲間にまでこそこそ無心してるって噂は聞いた」
「じゃ、ひょっとして喜之助が女を・・・」
 八丁堀は秀を見据え、にやりと嗤った。
「ま、一度話を聞いてみたが、のらくらかわしてひと筋縄じゃいかねえ。 副番頭で満足してそうなタマじゃあねえよ。ありゃ、てめぇの動きが目立たねぇためにわざと2番手3番手にひっこんでるんだ。 なんたって相当な身代の廻船問屋だからな、あらしだは・・・。番頭が何人も手分けしていろんな仕事を差配してる。 てことは、喜之助の運ぶ荷は米や酒だけでなくったっていいってわけだ」
「生きた若い女もな」
「ここ二年ばかり、ときどき若ぇ女が神隠しにあってる。山奥の村じゃあるめぇし、 お江戸のど真ん中で娘が立て続けに消えたのよ。それもたいがいが女中奉公してる通いの町娘だ」
「・・・・・」
「喜之助は急に羽振りがよくなるときと、そうでないときの波があるらしいぜ。 金を都合してくれと野郎に頼まれたって手代が言うにはな、そのころお店の若ぇ衆に人気のあったおみつにも、 しきりに声をかけてたらしい。おみつは洟も引っかけなかったてぇ話だが。 もし野郎が売りとばす算段でおみつを神隠しに遭わせたとすれば、娘一匹とは言え優男の喜之助ひとりでやれる仕業じゃねぇやな」
「裏をとる。喜之助の動きを張って内に仲間がいるかを洗う」
「それはもう加代のやつが、あらしだに女中奉公で潜り込んでやってる。おめぇは賭場に潜って、 喜之助が来たら野郎の売り物の買い手を洗ってくれ」
「わかった」
「表立って取引話を出来るはずがねぇ。だとしたら賭場のなかで喜之助は商売してるとしか思えねえ。 大阪とかそのあたりの商人や人買いが来てるかもしれねぇ」
「―――」
「ひょっとするとかどわかした娘も、屋敷のどこかに押し込めてるのかもしれねぇな」
「そいつもつきとめる。賭場には用心棒がうろついてりゃ、そこが一番の隠し場所だ」
 八丁堀は長い顔をくるりと手で撫で回して、思案顔に頷いた。
「喜之助の息のかかった船頭も出入りしてるはずだ。話がまとまれば野郎、 そいつらと組んで北回りや上方行きの船に娘たちを乗せてるんだろう。こっちじゃ売り飛ばしたところでアシがついちまうからな」
「・・・おみつって娘はその途中で・・・」
 非情な八丁堀の目に一瞬、悼むような色が滲み、ゆっくりと首を横に振った。
「なんせあの韋駄天の治助の娘だからな・・・。ガキの時分からはしっこくて気の強ぇ子だったよ」
 おそらくおみつは、その行動力でなんとか船に乗せられるまえに幽閉されていた場所から逃げおおせたが、 結局捕まり、首を絞められ捨てられた・・・。 愛娘の惨い姿に声もなくうなだれ、泣くことさえ忘れ憔悴しきった老岡っ引きの姿が、八丁堀の瞼の裏によみがえる。
「・・・オレはおみつを殺った野郎をぜったいに許さねぇ」
 押し殺した声にいっそうの凄みが増した。今さらながら秀は、八丁堀の発するぎらりとした殺気に間近で触れ、 大太刀の抜き身がすぐ脇にあるような恐怖に震えた。 こいつが本気になった時、そばに居て気を抜くと、恐ろしさのあまり舌を噛みそうになる。 膝のうえに置いた両手を、無意識に指が白くなるほど握りこんでいることに気づく。
 バカな野郎共だ。こんな男を本気で怒らせ、敵に回すとは。 秀はまんざら冗談でもなく喜之助とその一味に同情したが、その気持ちは一瞬にして灰になった。
「俺もやるぜ」
 怖気を振り切るように顔を上げて八丁堀を睨みつけると、
「あ、そーだ」
いきなりものすごく間の抜けた声で、男が言った。
「な、なんだよ」
「あいつらにもおめぇが繋ぎとっておいてくれな」
「あいつら?」
 嫌な予感がした。
「あいつらって―――まさか三味・・」
「わかってんじゃねぇか。じゃ、頼んだぜ」
「ちょっ!待てよ八丁堀!!なんであんたが行かねぇんだよ!?」
「オレはオレでまだ調べることがある。それにな、今日は口うるせぇオカマ上司と午後からずっと見回りなんだ」
 顔をしかめる八丁堀に、秀も必死に追いすがる。
「そんなこと俺が知るか!!どうしてもってんなら加代をやったらいいだろーが!」
「加代?バカ言え、あいつはいまあらしだに潜ってるって言ったろうが」
「・・・うっ」
「秀よ、おめぇがあの色男を気に食わねぇのは勝手だ」
 さっさと戸口に立った八丁堀はそこで秀を一瞥し、先刻感じた抜き身の冷ややかさを思わせる声で一言命じたのだった。
「だが今度の仕事は殺る数が多い・・・。かならず伝えな」



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