Secret Garden 8







 秀が報われぬ想いと体を持て余している頃。勇次もまた、自ら足を踏み入れた迷宮で袋小路に陥っていた。


「あんた方、よほど体の相性がいいとみえる。そろそろ叔父貴がなんとか言って来てねぇのかい、勇次さん?」
 出迎えたキツネがからかった。最初に会ったときとは見違えるほどに機嫌がいい。それはそうだろう。 秀の行状を突き止めて出来れば叔父貴の前に連行するところまで頼まれていながら、一向にその気を見せない勇次のことを、 木乃伊(みいら)取りが木乃伊になったとほくそ笑んでいるのだ。勇次はどこか憔悴した様子で笑いもせずに答えた。
「…。叔父貴のところには相変わらず姿は見せねぇが、勤めには真面目に出てるようだと教えてひとまず安心させてやったのさ」
「安心ねぇ。堅気で得た稼ぎをどこにつぎ込んでるか…。あんたもグルだと叔父貴が知ったら卒中を起こして死んじまうかもね」
「ふふん。そうすりゃ秀は借りた金を返さずに済む…」
 面白くもなさそうに勇次が出された酒を煽りつつ言うと、キツネが甲高い声で嗤った。
「秀のほうも、何とかまだ金が続いてるみたいだしな」
 身なりからして勇次のことを、どこか身代の大きいお店(たな)勤めの者だと決めつけているキツネは、 秀の懐具合のみを気にしている。決して安くはない上げ代を、どちらもキツネに吸い上げられているのは忌々しいが、 秀と会うためにはそうし続けるしかない。
(続けるといって……。それでどうなる?)
 この密会をはじめて以来ずっと、勇次の日常を悩ませ続けてきた問いが再び胸裏に浮かんだ。金の問題だけではなかった。 これまで三度、秀と会った。キツネのお膳立てだと思っていたが、秀は相方を訊かれてキツネでなく勇次を望んだという。 もしこのあいだの客がまた来たのなら教えて欲しいと、染まった顔を俯かせて。 にやにやと眺めている意地悪なキツネの視線に晒されながら、重い口を開いた秀の姿が目に浮かぶようだ。 相手が自分のよく知る三味線屋であることも知らずに…。
 キツネにそれを聞かされ冷やかされた時点で、おそらく身を引くべきだったのだ。ただ一度きりであれば秀もいずれ忘れる。 それを内心の迷いを胸の隅に無理やり追いやって、ふたたび秀とまみえたのは、 卑猥でよこしまで淫靡すぎたあの夜の記憶が、結局のところ勇次を捉えて離さなかったせいだ。 木乃伊取りが木乃伊と思われてもこれでは仕方がない。
 勇次は二度目も口吸いをして秀の緊張を解すと、 緊縛された淫猥な肢体を弄び、道具などを使って被虐の快楽へと追い落してやった。 一方で己の欲望もまたはち切れそうになっていたが、すんでで何とか堪え、まだ可能なうちにそそくさと部屋を抜け出た。 ひとり布団のうえに取り残された秀の、切なく震える呼吸が勇次を引き留めようとしていた。
(これ以上は…。てめぇを抑えきれる自信が無ぇ)
 キツネは体の相性と言ったが、勇次は秀を抱いてはいない。それなのに秀は、自分を途中で投げ出して帰る男をまたしても所望した。 三度目に会ったとき、秀が口吸いを待ち望むかのように自分から顎をあげて、目隠し越しに見上げる仕草にぎくりとした。 見えていないのは分かっていたが、目隠し越しに秀と視線が絡んだように感じたのだ。 頬を撫で、いつも通り唇に親指を滑らせると、秀は口を薄く開いて勇次の指先を咥えた。 軽く白い歯を立てて、声に出さずなにかをねだる素振りを見せた。
 刹那、目の前から脳裏まで真紅に染まったと見えたほど、勇次の欲望がすんでで牙を剥きかけた。体を嬲るよりも繋げたい。 わざと不自由な形を取らせている黒い縄にその汗を吸わせるのでなく、縄を解いて互いの熱で濡れるまで肌を合わせたい。 一方的に押し入るのではなく、秀のほうから求めさせたい…。
 しかしついに、そのときも勇次は一線をぎりぎり踏みとどまった。一度でも抱けば、きっと歯止めが効かなくなる。 二人してこの因業地獄から抜け出せなくなるのを恐れ、秀を置き去りにしたままその日も出てきてしまった。
 ここを出た後、そのまま湯島の花街に直行し女を求める。 しかしそういうときに目を閉じれば、自分の下で感極まって喘ぐ女ではなく、秀の乱れ悶える姿が重なってくる。
(もう会わないほうがいい)
 何度もそう思ったが、秀をあのままあの世界に放り出して自分だけ日の当たる場所に戻ることは、出来ない相談だった。 勇次が消えてしまっても、秀は危険な遊びを止めるとは思えない。むしろ、かえって自らを痛めつける方向に進んでしまいそうだ。
(オレが消えれば……また別の男があいつにあてがわれる)
 秀を他の男たちが嬲ることを想像しただけで、自分のほうが耐え難い焦燥に駆られる。 秀の身の安全を危惧すると同時に、あんな痴態を他の誰にも見せたくないという思いも強まっていた。 正直、最初の縛りから後の始末まで秀の面倒をみているキツネにすら、見当違いの苛立ちを感じる。 自らそれを望んでいるのだと分かっていても、他の男の手が施された秀をただ中途半端に弄りまわすだけの自分自身が歯がゆい。
(……。やはりいつかは)
 いま勇次が葛藤しているのは、いつかは自分の正体を明かすべきではないかということだった。 こうしていても終わりもなければ救済もない。 一枚の目隠し越しに、ただ口吸いのときにだけ互いの意思を探り合っているばかりでは。ではどうすれば良いのか。
(オレは……どうしたいんだろう)
 自分が一番望むことは何かと、勇次は今夜ここに向かう道すがら考えていた。 秀がどっぷりと闇に浸かりきる前にここから引き離すことだろうか。それを秀に頼まれたわけでもないのに。 それでは何のために自分は、秀の姿を求めてこの界隈を探し回ったのだろう。
 はじめは秀の本心が知りたかった。まずは知りたくて秀の足取りを追った。 キツネに遭い、秀の降りた闇の階を自分も降りてみることにした。 そのうえでいま胸を疼かせる次なる望み…肉体的な欲望も含めて…にたどり着いた。
(あいつがほんとにオレを望んでるんだったら、素性を隠さずに抱いてやりてぇ。……オレも…)
 秀が欲しい。そう自分のなかで意識したとき。勇次はようやく逃げることを止め、向き合う覚悟を決めた。


 他の客を見送ったキツネが、もう支度は出来てるぜと狭い待ち合い部屋に顔を出した。
「なぁ、今夜はこれを使ってみるといい」
 いつになくぐずぐずと盃を弄んでいる勇次のことを何と思ったのか、ひとを喰った目の奥に好色な興味が混ざっている。
「なんだい?」
「いま帰ってった色情魔のなまぐさ坊主が、海の向こうから取り寄せた媚薬だとさ」
 いかにも胡散臭い唐様のごく小さな壺に、小筆も添えてキツネが差し出した。
「どんな身持ちの固い武家女でも初見えのおぼこい陰間でも、こいつをあそこにひと塗りすりゃあ、 ジンジン熱くなって切なくって我慢できずにてめぇで足ィ開くってほどの強力なやつだ」
 外道でも道は道。情痴を極めたところにはこんな代物までも集まってくるのかと、半分呆れながら手に取って蓋を開けると、 トロリとした蜜のような液体が壺の底に残っているだけだった。
「あいつ…、オレが戯(ざ)れかかるだけで嫌がるんだぜ。あんたがいいとさ。そいつでたんまり可愛がってやるといい…」
 柱に寄りかかるキツネを無言で見上げると、妖しい縄の調教師はにやりと嗤って片目だけを器用に瞑ってみせた。
「安心しな、坊主の使い残しだ。最後のひと塗りを誰かに喜捨して、それでてめぇは免罪のつもりさ。せいぜい役に立ててくんな」



 これが最後になるかもしれない。
 正体を明かせば、秀は自分の前から、あるいは八丁堀ら仲間全員の前からも消えてしまうかもしれない。 それでも、このままたがいに報われない欲望と迷える心を抱えて匿名で会い続けるわけにはいかないのだ。
 肉体の調教を通して被虐者の心をも苛む者と、嬲り苛まれるうちにいつしかそれを望むようになる者。 秀とはそんないびつな情欲で繋がれただけの関係ではいたくない。 互いに認め合う裏の仕事仲間としても、たまに酒を酌みかわす間柄としても。
 勇次の大切にしたいのは、ひとりの仕事人、ひとりの男としての秀だった。 奸計にはめられ自らが壊されるほどの凌辱を受け追い詰められても、 仲間を売ることも逃げ出すこともせずひたすら任務の完遂まで耐え抜いた。 そのうえで勝手に暴かれた体と呼び覚まされた欲望にむしばまれ、仲間の目を避けて危険な世界に自らを投じるしかなかった秀を、 誰がさげすめるだろう。
 この手に抱けるのはたとえ一度きりでも、囚われたままの牢獄から解き放ってやりたい。 部屋の襖を開ける前に言い聞かせる。それが出来るのはおそらく、自分しかいないと。




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