Secret Garden 6 まるで逃げ水だ。 すぐそこに見えているのに、近づけば消えてしまう。謎めいてこちらを惹きつけるくせに、その正体は掴ませない。 直接追い回したところで、鈍色に妖しく光りさざめく水そのものに触れることは出来ない。 どうしても様子が気になり会いに行ってみて、何か知られたくない秘密を隠していることは分かったが、 秀自身のことだ。所詮自分には関係ない。 そのまま放っておけばいいと一度ならず考えたものの、数日経つうちにやはり勇次は思い直した。 酒場で斜向かいに座った秀はろくに顔をこちらに向けようともしなかったが、 時たま視線がぶつかると、一瞬戸惑った表情を浮かべてフッと伏し目になり、密集した睫毛がこちらの視線を遮断してしまう。 瞬きを繰り返す落ち着かない態度が、鼓動の震えをこちらにまで伝えてくる。 隠し事をしているだけであれば、元よりそれを気取らせる男ではない。 秀の見せる動揺は経験上、勇次もよく知っているものだ。 意識している相手に対する無自覚の仕草は、女でも男でもたいした違いはないのだから。 『あいつはおめぇに惚れてるぜ』 喰えない八丁堀の一言は、迷惑といえばこれ以上にない余計な入れ知恵だったが、 秀と直に会った勇次はいやが上にも、あの男の鋭い観察眼を裏打ちする、いくつかの理由を思い当たらずにはいられなかった。 水茶屋で秀が見せた、らしくないほどの激情と、そのあと眠れないと呟いた背中の呟きの切ない響きを。 そしてあの晩以来、心のどこかに居座ってしまったままの簪屋のことを、意識の外に追いやれない自分自身を認めた。 さらにもう一つ。気になるのはあの、手首のぐるりをめぐる擦り傷。勇次には不自然な縄の痕にしか見えなかった。 しかもそれは、返答がないままに勝手に開けた長屋の土間で、一瞬暗がりに白く浮かび上がった秀の裸の背に付いていたものと 同じに見えた。監禁されていたときについた傷なら、とっくに消えていていいはずだ。 勇次の手からサッと自分の手を取り返し、そこからまなざしも表情も凍り付かせてしまった秀の、蒼褪めた貌を思い出す。 秀の隠しているもの。逃げるように立ち去ってでも隠し通さねばならない事。 そこに秀の心の真実のすべても隠されているのだろう。 逃げ水はただの幻影にすぎない。逃げ水を造り出しているのは本人。正攻法では逃げられるのならば、 遠回しに近づく別の手立てを講じるほかはない。もちろん、秀には気づかれぬようにだ。 「あの客は目隠しされて嬲られるのを望むから、遊ぶのに面が割れる気遣いはないね」 やっと行き着いた男は勇次にそう前置きした後で、にやにやと値踏みするような視線を当てる。 「あんたをこの辺で見かけだしたのは最近だが、あれに目を付けるとはねぇ」 母から何気なく聞き出した、例の秀を見かけたという界隈を勇次は暇を見つけてはひとりうろついてみた。 何度か通ってみても何事もなく日は過ぎて行ったが、そのうち勇次は狭い路地のどこからか、 自分を見ている何者かの視線を感じるようになった。蛇の道は蛇という。秀がここで何をしているのかは知らなくとも、 こうしていればそのうち必ず、誰かが声をかけてくるはずだ。 今日もわざと何かを探すようなそぶりをしつつ、人待ち顔にぶらついていたところを、 ついに物陰からにゅっと出てきた手が、勇次の着流しの袖を捉えたのだった。 キツネと呼んでくれ、と言ったその年齢不詳の男は、一見すると秀と背丈や痩身なところが似ているように見えた。 が、秀が骨の造りから細身であるのと違い、この男は薄い着流しの下に鞭のような筋肉質の体を隠している。 腕は長く、神経質そうな筋張った長い手指は爪の先まで手入れが行き届いている。 姿に見合った細面はやや顎がしゃくれていて、細眉の下の一重のまぶたを親切そうに細めているものの、 その奥の眼光はまるで喰えない老獪さを潜ませていた。 「この辺りにたどり着くのは、ふつうの睦み合いじゃ飽き足らねぇという御仁ばかりだ。 あぶな絵のキワモノを自分でも試してみてぇとかいうのも来るには来るが、たいてい何度かで気が済んで来なくなる。 だが中にはコッチにハマり込んで抜けられなくなるやつもいる。もともとそういう性癖を持ってる連中さ」 誰が付けたのかは知らないがこの男にはそれ以上に相応しい異名はないなと、勇次は話を始めてすぐに納得した。 一度見かけた若い男を探しているのだと、勇次がうろ覚えのふりを交えながら秀の特徴をいくつか挙げると、 キツネは薄い笑いを刻んだ頬以外に表情も変えず、その男を見つけてあんた何がしたいんだと逆に尋ねてきた。 「何…、と言われるとちょっとばかり憚られるな……」 キツネの目を凝視したまま、勇次が低くうそぶく。腹のなかでは緊張していた。 秀がここに何の目的で訪れどんなことをしているのか、勇次にははっきりとしたことまでは分からない。 ただし分からないなりに懸命に想像を働かせ、見てしまった擦り傷のことを引き合いに出してみた。 「あの男の手首に見えてたのは、ここで縛られた痕なんだろう…?」 「ほう。それを見てピンと来たってのか。…あんた、縛りの経験はあるのかい?」 キツネがジッと勇次を見つめて訊く。勇次は無言で首を横に振った。 しばらく疑うように目の奥を探られたあと、意外にもキツネはフッと嗤ってうなづき、囁いた。 「あんたの奇麗な指を見てまさかご同業かと思ったが。…縛りはしねぇが、あの男で遊びたいってんだね、お客さん…」 「それにしても酔狂なお方だ。こんなところまで辿りつかずとも、普通の陰間なら表通りの見世(みせ)にいくらでもいるってのに。 陰間の方でもあんたみたいないい男になら、悦んで抱かれたがるだろうよ」 「……オレはあの男がいいんだ。相手が誰でもかまわねぇと本人が言うんなら、オレでもいいだろう」 「そうさね。望むのは男どもにいたぶられることだけだからな。因果な性を持ったもんだ。オレは仕事でやってるだけだがね。 あんなおとなしげで堅気な顔して…。どこでこんなアブねぇ遊びを覚えて来たんだか」 ふだんから笑顔を見せることの少ない秀の生真面目な表情を思い出したのか、男が甲高い声でくくくと嗤った。 「……あの男、いつ頃から通うようになった?」 つい鋭い声になってしまった勇次に、キツネが目を留め、ふと警戒する目つきになった。 「風紀取り締まりの密偵じゃねぇだろうな、あんた」 しまった。この男に幕を引かれては、秀につながる線は閉ざされてしまう。 自分と秀の裏のつながりを明かすわけにはもちろんいかないが、 ここでキツネの疑いを解くためにこちらも肚のうちを一部見せておく必要が出てきた。 勇次は敵意の滲む視線を柔らかく受けとめると、口の端を薄く引き上げた。 「その心配は無用だ。が、疑われちゃこっちの事情も白状するしかねぇ。実はあの男…秀はオレも知ってるやつだ」 「……」 やはりそうかという意思が男から伝わった。沈黙が話を先に進ませろという意味だと受け取り、勇次は続ける。 「ここだけの話にしておいてくれよ。秀の叔父貴…というか身寄りのねぇあいつの世話を焼いてる男がいてな。 秀からたびたび金を無心されるようになったが、今までがそんな奴じゃねぇから、急な金遣いの荒さを気にしてるんだ」 「……」 「オレは…その叔父貴にちょいとした旧恩があってね。秀にも何度か会わされたことがある。 最近秀の様子がへんだとオレに持ち掛けてきたのは叔父貴だ。あいつが何をしてるかそれとなく探ってみてくれと頼み込まれたのさ」 「その男は、なんで直接秀を問い詰めないんだ?」 キツネがようやく口を開いた。おおむね筋は呑み込んでくれた。勇次は肩をすくめて首を横に振った。 「オレも何度もそう言ってみたさ。だがどうやら秀のほうが逃げ回ってるらしいんだ。 掴まったら最後、説教は当然として金を返せと催促されると思っていやがるんだろう」 出まかせとはいえ、秀の親戚筋の男というのが咄嗟に勇次の脳裏に浮かんだのは、八丁堀のおかげかもしれない。 秀にもっとかまってやれよと言った二本差しの口調に、まるで叔父貴が甥っこでも気遣うような響きを、勇次は感じた。 そんな八丁堀でも、まさか秀がこんな界隈に出入りしているなどとは思いもよらないだろうが。 「…それであんたは」 「勇次だ」 目の前で腕組みした男は、どう見ても職人風情にしか見えない秀の金の出どころが知れたせいか、目元の険しさが緩んでいる。 しかしまだ警戒は解いていない。勇次は訊かれる前に自分の名を名乗った。 「…勇次さん、それであんたは秀の行先を突き止めてここにたどり着いたってか。ま、そういうこともあるだろう…。 どのみち金が尽きたらそれまでだ。せいぜい叔父貴とやらを安心させてやるんだな」 フンと鼻で息を吐き、興味を失ったように背を向けかける男を、勇次は引き留めた。 「待てよ。まだ話は終わってねぇ」 胡乱な目でキツネが勇次を見やる。 得意客の情報をまんまとすっぱ抜かれた上、客にならない者など相手にする気はないと細い目が語っている。 「…オレは叔父貴にすぐにこの話を聞かせる気はねぇのさ」 「?どういうことだ」 「探ってるうちに気が変わった。秀がどんなことをしてるのかオレが自分で確かめてからでも…、あいつのお愉しみに水を差すのは遅くはねぇ」 引き込まれた昼間でも日の射さないかび臭い板戸の内側で、キツネがもう一度勇次の目を探るように見返す。 「……ほんとに客になるということか?」 黙って勇次が頷くと、フッと男が皮肉な嗤いを漏らした。 「野郎の尻のあとを追い回してるうちに、犯してみたくなった?そりゃ、ちと筋が通らねぇんじゃないのかい、色男?」 「こいつは参った。本音を云やオレも、前々からこういう遊びにはちょいと興味があったのさ。…陰間じゃいまいち食い足りねぇ」 勇次は観念したようにニヤリと笑って肩をすくめてみせた。 「あいつらはれっきとした売り専だからね。そこをいくと秀みたいな男は…新鮮かもしれねぇな」 「だろう?見た目からは想像もつかねぇようなことしてるのを、ぜひともこの目で見たいんだよ」 キツネの秀に対する印象をそのままねじ込んでやったら、男はようやく得心の言った面つきで、勇次に向き直った。 「そりゃあいい。てっきりあんたは、秀を見つけて無理やり引きずってでも連れ帰って来いと頼まれたのかと思ったぜ」 「叔父貴にしてみりゃ、そうして欲しいだろうよ。金も取り返したいだろうしな。 でも、ま。探りはしてやったんだ。しばらく楽しんでからでも罰は当たらねぇだろう」 「ハハッ。恩のある男の甥っ子を犯す算段して罰は当たらねぇってか。なかなかの悪趣味じゃねぇか…、 気に入ったぜ。勇次さんとやら」 「なに、こういう機会はめったにあるもんじゃねぇからな。秀にももちろん秘密さ。金はきっちり払う。 あんたは秀とオレから二重取りだ…それで文句ねぇだろ?」 面白れぇ、とキツネの声は嗤うと通常よりも高くなった。 「オレとしても客同士でハマってくれりゃぁ、犯る手間がはぶけてラク出来るってもんだ。 …ま、あんたが初めてなら縛りのほうは前もって支度しておいてやるから、あとは煮るなり焼くなり好きにしてくれ。 ただし……。傷をつけてもいいが、命にかかわるようなんは無しだぜ。ただでさえお上の目をかいくぐってんだ、こっちは」 「…。それもわかってる。 これでも叔父貴の手前、そういう手荒すぎる輩からあいつを守るために、オレが相手になったほうがいいてぇのもあるんだぜ」 巧い屁理屈だとにやつくキツネを尻目に、それじゃ頼んだぜと背を向ける。これ以上の長居はボロが出そうだった。 狭い路地に出て外の空気を吸ったとき、来た時とはまるで違う空を見上げている気がした。 傷はつけても殺すほどのところまではいくなと暗に釘をさしたキツネの言葉に、内心ゾッとした勇次だった。 遊里で見せられたことのあるあぶな絵でも、性交なのか暴力なのか半分分からないようなおぞましいものも中にはあった。 刀の試し斬りに快楽を覚えて夜な夜な辻に立つ旗本がいるような物騒な世の中だ。 ひとの欲望はひとの数だけ多様な種類があるのだろう。だからこそ、キツネのような男がその水先案内人をつとめる世界もあるのだ。 痛めつけいたぶることに執着する人間もいれば、その逆を望む人間もいる。 秀は任務のさなかに罠にはめられ、望みもせずして異常な欲望の贄にされてしまった。 そんな秀が自分からその世界を求めて、昼なお暗い淫気の澱む界隈に吸い寄せられている。 勇次にはまだ本当のこととは思えなかった。 キツネに会い、秀に関して確かな情報も得られ、次回の機会を知らせると確約を得たにもかかわらず…。 だからこそ、この目で見て、実際にその場に身を置いてみる。 自ら足を踏み込まずして、逃げ水の正体は掴めない。 秀は自分が身を沈めようとしている沼の、底知れぬ闇と恐ろしさを知っているのだろうか。 それとも自分の身などもうどうなってもかまわないと、自暴自棄になっているのだろうか。 聞いたところでは、キツネが相手を出来ないときには誰にでも身を任せているというが、そんな綱渡りのような危険な遊びを続けて、 いつか本当に命の危険に晒される日が来るかもしれない。 欲望にタガが外れ理性を失した人間ほど恐ろしいものはないと、裏の仕事を通じて骨の髄まで身に染みているはずなのに…。 あの仕事の夜に目撃した残酷ななかにも淫靡な光景が、キツネと別れてすでに平和な雑踏のなかに紛れた勇次の、 白い瞼の裏に閃光のように点滅する。男たちの動きに合わせてうねる裸身と肌についた縄目の痕…。 初めて目にした妖美さが、いまも勇次の記憶の底から消えることがなかった。 続
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