Secret Garden 5 (1) 湯島の芸妓に稽古をつけに行った帰り、おりくはちょっと気になるものを見た。 近道のつもりで日ごろ通らない細路地を横切ろうとしたとき、奥のほうから甲高い男の嗤った声が一瞬聞こえた。 声がしたのは普段からいかがわしい気配の漂う雑多な界隈で、昼間でもめったにひとの通りはないが、 むしろ締め切った板戸の奥になにやら生々しいひとの淫気が蠢いているような場所だった。 目の端になにか知っているような黒っぽい影を捉えた気がして、おりくはふとそちらのほうを振り返ってみた。 結わない髪と痩せた長身の後姿が半分、建物の陰からのぞく。やはり秀だと思った。 闇の会から請け負った仕事のために社中に密偵として潜り込む前、談合の場で会って以来、姿を見るのは久しぶりだ。 こちらに背を向けているが連れがいるようだ。嗤ったのは、その連れのほうらしい。 反射的におりくは二人から見えない角度に身を引くが、立ち去るのをやや踏みとどまった。 秀とほぼ変わらない背丈のいかにもこの界隈には生息していそうな、幅広の縞の着物姿の男が、秀の肩に手をかけたのが目にとまったからだ。 仕事人という裏の顔を持つことを覗けば、まったくの堅気の職人にしか見えない秀を、昼なお暗いこんな猥雑な横道で目にする こと自体が違和感であるのに。金という言葉が連れの男の口から出たところを、耳の良いおりくははっきりと聞き取っていた。 「…それだけありゃ、嫌ってほど愉しませてやるよ」 男に首の根元を猫のように抑え込まれたまま、とある板戸の奥に秀が消えるのを見届け、おりくはそっとその場を後にした。 「ふぅん」 親子揃って囲んだ夕餉の膳を前に、今日見聞きしたことを話したが、勇次は無感動にそう言っただけだった。 「元気そうでなによりだ」 「…秀さんとはあれ以来会ってないのかい、勇さん」 勇次が晩酌の盃片手に、ふっと笑って首を横に振った。 「もちろん、会っていねぇさ。特に会う用もないしな」 あのおつとめの夜、下男二人を仕留めたおりくは本殿には向かわず、手引きの加代と共に一足先に社中から抜け出ていた。 勇次と八丁堀が、先に潜入している秀と結託してあとの始末はつけるとの手筈だったからだ。 勇次はその夜、おりくが待っていてもうちに帰らなかった。 八丁堀もいるのだから、まさか悪いことにはなっていないと信じていたものの、次の日の朝、 井戸のある中庭から勇次が寝不足気味の顔で戻ってきたのを迎えたときには、内心でホッとしたおりくだった。 秀からの連絡が一時的に途絶えたこともあり、秀の身になにか遭ったのではないかと、 加代がしきりに気を揉んでいたのが移ったらしい。 どうせ勇次は女でも買ったのだろうとおりくは思い、自分の老婆心を嗤ったのだった。 結果として秀の手引きのおかげで、ほぼ当初の計画どおりに完遂出来た。 報酬もなかなかのもので、加代などはこれでしばらくは遊んで暮らせると楽隠居を決め込んでいる。 今回上乗せ分もせしめた秀が、その金をどんなふうに使おうと自由で、おりくの知ったことではない。 それでも見かけた場所柄と連れの男とのやり取りが、秀にあまりにそぐわない印象で、妙に心に引っかかったのだ。 勇次はこのとおり、秀の話には意外なほどに無関心である。 「ときどき連れ立って飲みに行く程度にはつき合いがあると思っていたよ」 「……。最近はつき合いが悪いんだよ、秀が」 勇次はそこではじめて、もの思わし気な目を遠くに向けて呟いた。 「そうかい。なにか悪いことに巻き込まれてないといいけどね」 「はは。おっかさんも随分と心配性だな。あいつも男だぜ。いろいろしてみたいこともあるんだろ」 「それもそうさね…」 おっかさんもどうだいと銚子を向けられ、この会話はそこでおしまいになった。 その夜。自室の布団の上に転がったものの、勇次は目が冴えて寝付けずにいた。 夕餉のときの母との会話が実はずっと気になっている。 秀のことについてはあれ以来頭から離れないのだが、それを周囲に気取られるのが厭で、何食わぬ顔を貫いてきた。 (八丁堀…も、妙なことを言ってたな) 勇次を今夜の懊悩へと駆り立てている根拠は、他にもある。 ほんの数日前だ。永代橋の西詰に出来た、人が並んで買うほど人気の団子屋に母への土産を買うつもりで並んでいたとき、 やはり妻と義母の代理で並ばされていた八丁堀とばったり一緒になった。 お武家様お先にどうぞ、と勇次が先に声をかけ、退屈しきっていた八丁堀はオウと片手をあげるなりズィと割り込んできた。 押しのけられた周囲の迷惑顔など知らぬふりである。 団子屋のきびきびした掛け声と賑わう人の列の雑音に紛れて、 「秀と最近会ったか?」 八丁堀が低く尋ねた。勇次は団子に群がる人混みを透かし見るふりをしながら、やはり小声で応じた。 「いや。実入りがあったからしばらく仕事はなしだろ」 ぬかせ、と八丁堀が呟く。 「あの野郎、なかなか掴まらねぇから、そっちの話も持ち込めねぇよ」 「まあ。もうしばらくそっとしておいてやっちゃどうだい?今回一番わりを食ったのは、あいつだからな」 お次のお客さんお待たせしましたぁ、と声がかかり、八丁堀が振り向いて順番を確認する。 あの光景を見たのはたしかに自分たちふたりだけだった。 八丁堀ももっともだと思ったらしく顎をさすりながら頷いたが、ちらと勇次を見やり妙な笑い方をした。 「そう思うんなら、おめぇはもっとかまってやれよ」 「……なんでオレが?」 「へーぇ。色男が気づかねぇとは……」 お待たせしましたぁ、といつの間にか順番が回ってきて、八丁堀が話の途中で慌てて団子に向き直る。 胡麻と醤油とみたらしを三串…いや、四だったとあたふたやっている後ろで、勇次は八丁堀の言葉に違和感を覚えていた。 秀の身に起こった忌まわしい出来事。 女でなくとも、秀が体だけでなく心にも大きな傷を受けていることは、あの夜の秀の様子から痛いほど伝わってきた。 秀がいま仲間の誰にも会いたくない気持ちでいるのは当然だと思う。 しょっちゅう反発していながらも、どこかで最も信頼しているであろうこの二本差しを避けるほどに、 秀はいま身の置き所のない苦しさと闘っているのだろう。 そう想像すると、秀が自分とこれ以上顔を合わすことを避けたいと思う気持ちのほうが、よほど納得がいくのだった。 実際秀は、二人が一晩泊まった水茶屋を先に出るとき、色々とすまねぇな、とほとんど目も合わさず言い捨てて背中を向けた。 ややいからせたその痩せた肩には、二度と勇次を寄せ付けまいとする気配が漂っていた。 だからこそ勇次は、傷ついた秀を抱えて一晩添い寝したことを、他に漏らさぬだけでなく、自分自身でも忘れようと努めている。 時おり、女とは違う固く張りつめた背中の感触や疲れ切った儚い息遣いを、なぜかふいに思い出すことはあっても。 団子の包みを手に踵を返した八丁堀と、視線がぶつかる。複雑な疑問府を浮かべたままの勇次の白い貌にニヤリと応えた。 肩をぶつけるようにしてすれ違う瞬間、言い残した言葉に、勇次が軽く目を見開いた。次お待たせしましたぁという掛け声が遠くなる。 「あいつはおめぇに惚れてるぜ」 長屋に勇次がふらりと訪ねてきたのは、ちょうど秀が土間に置いた盥(たらい)で湯浴みをした直後のことだった。 「いるかい?」 別のことに気を取られていて訪ないを入れる声に気づかなかった秀は、背後で障子戸が開く音に弾かれたように振り向いた。 「おっと、悪かったな」 勇次が裸の秀からスイと目を逸らすと、外に出ようとする。 「勇次?か、構わねぇから入って待っててくれ」 秀はことさら平気なふうを装い呼び止めたが、自分の声が緊張で上ずっている気がした。 奥でそそくさと着替えを済ます。勇次は上がりかまちに腰かけこちらに背を向けている。 その背を盗み見ながら、心臓がいまにも口から飛び出そうになっている秀だった。 ほんの一瞬だったから、室内もこのとおり薄暗いから、きっと何も見なかったはずだ。 「おめぇが訪ねてくるとは珍しいじゃねぇか」 沈黙が居たたまれなくて、着替えながら秀がその背に声を投げると、 「…たまたま用で近くに来たから、ちょいと顔でも見てみるかと思っただけさ」 「野郎のツラ見に来たって、愉しいもんでもねぇだろ」 勇次が軽く笑って広い肩を揺らす。 「まあそういうなよ。どうだ、一杯付き合わねぇか」 「あ…。その、い、行ってもいいが、俺は後から約束があって…」 「仕事の用か?こんな夜から」 勇次は何げなく言うが、そのすべてが秀を追い込む尋問のように聞こえた。 「客の都合だから仕方ねぇさ…」 だから今日は無理だと、秀は次の言葉を用意していたのだ。しかし勇次はいつになく食い下がる。 「せっかく来たんだ。そこら辺で軽くならかまわねぇだろ?秀…」 衣擦れの音が止んだのを機に、勇次がちらと秀を振り返る。その青みがかった切れ長の目に捉えられると、秀はもう何も言えなくなった。 こんなふうに押し切られてしまう自分ではなかったはずだ。 歯噛みする思いの一方では、久しぶりに見る男の顔を直視できないほどの息苦しさが胸に迫ってくる。 ふいと目を逸らしことさらぶっきら棒に応えた。 「……。しょうがねぇ。ほんとに寸の間だけだぜ」 半乾きの髪を落ち着かない様子で掻き上げる横顔を、勇次は黙って見つめていた。 続
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