Secret Garden 5 (2)







 これまでは、けっこう気さくに接してくる勇次に対しても、内心の嬉しさを押し隠しある一定の距離をおいて付き合ってきた。 心を気取られるのを恐れ、あくまでも馴れ合いをしないという一匹狼の姿勢を崩さずにいたのは、自分だった。

 酒を酌み交わすのもあの夜以来だから、記憶はすべてそこで止まっている。 雨埃で汚れた縄のれんを肩で撥ね退け、ごく狭い酒場にふたりして入ったあとで秀はそれに気づき、 いやが上にも思い出さないわけにはいかなかった。切羽詰まった自分が勇次に対してとった、あの夜の一連の行動を。
 身の置き所のない恥ずかしさと決まり悪さ、そしてそれ以上の後ろめたさが秀を不自然に明るく振る舞わせた。
 以前から時おり誘われて飲みに行くこともあったが、勇次がぽつりぽつりと世間話をし、 秀は聞いているのか分からないほどの相槌をたまに打ちつつ、大抵黙って酒を口にしていた。 話というよりは、勇次の声を聴きながら酔うのが好きだったのだ。
 今夜の秀は自分からも話し、枡に注がれた酒を煽るように飲んだ。 話といっても長屋の女房たちから聞かされた町の噂話や、隣の住人の加代が姉のように小うるさくがめついという話など、 他愛もない。 そんな様子を勇次のほうが言葉少なに見つめているのが、余計に秀を落ち着かなくさせる。
「勇次。おめぇが誘っておいて、あんまり進んでねぇな」
勇次の枡はまだ二杯目がほとんど手つかずのままだ。
「いや、飲んでるぜ。それよりおめぇこそ平気か?これから客に会うんだろ…」
秀はほとんど目の前の勇次と視線を合わせようとしない。
「…そうだぜ。こんな酒で酔うもんか」
 勇次はさっきから、秀が枡を持ち上げるたび手元をちらちらと見ている。秀が横を向いて頬杖をついたとき。
「……なぁ。それ、どうしたんだ…?」
 ギョッとして秀は顔を上げた。なにか問い返すまえにスイと手が伸びてきて、勇次の長い指が秀の手首に絡む。
「!?何すん…」
 秀が手を引きかけたが、勇次は素早く裏返すと右手首を一周するような擦り傷を確認していた。 親指がすでに乾いて跡になっているだけの傷をなぞる。硬直していた手がぴくりと反応した。
「どこかで怪我でもしたのか、秀」
 確かめるような問い方だった。 勇次の手から自分の手をひったくって机の下に隠した秀は、きつい目で睨みかけたが、 それがかえって勇次の疑惑を煽ることにすんでで気づき、表情を和らげた。あさっての方角を見ながらあっさり応える。
「まあな。もう治りかけだ」
「……」
「勇次。悪ぃがそろそろ俺は行くぜ」
 秀が腰を上げる。見上げた青みがかった黒い瞳と一瞬視線が絡み、思わず見つめ合ってしまう。
「秀。……。オレになにか話したいことはねぇのか?」
「話したいこと?…何だそりゃ。おめぇに話すことなんか、なにもねぇよ」
 笑いも戸惑いもない、完全な無表情。瞬きもせず開いた瞳孔がただ勇次を映している。
「……そうか」
「ひとつあった。…あンときは色々と世話になったな。もう…、俺は大丈夫だから」
 低く押し殺した声で最後に囁くと、秀は無造作に懐から掴み出した金を机に投げ、勇次の脇をすり抜けて後も見ずに出て行った。 店の小女の、またどうぞお気を付けてと見送る声も間に合わぬほどの素早さだった。



 なんとか勇次をかわして長屋に戻って来たものの、秀の胸は激しく動揺していた。 不意打ちに訪ねて来られて焦ったせいで、気が回らなかった。
 まさか袖口から覗く手首に、勇次が目を付けていたとは。 湯島のとある裏通りの、そのまた奥まった後ろ暗い界隈に通うようになってから、秀は湯屋に行くわけにはいかなくなった。 だからこそ、自宅の土間で湯浴みをするようにしているのだが、 そこを勇次に見られたことが不審に思われたようだ。
(駄目だ……。何もかも、もう俺は…)
 水が入ったままになっている盥を避けて、ふらりと秀は板間に上がる。 立て続けに煽った酒の酔いは全身に回っていたが、頭の芯だけは焼け石に水さながらに冴えていた。 暗がりのなか、布団一枚分ほどの広さしかない寝間に這うように転がり込む。
 やはり勇次には見られたのだろうか。裸の背や二の腕にまで生々しく残った、縄目の跡を。 着物で隠しおおせられていると油断していたのがまずかった。 半纏からどうかすると覗く手首にも、縄師のキツネから六日前に受けた緊縛の痕跡がまだ残っていたのだ。
(ゆう……。俺はこんなにも穢ぇ…)
 潜伏中に受けた数々の凌辱と調教に身も心も流されかけ、あげく最終段階のつとめの現場で、 その最悪の場面を勇次の目の前に晒すことになった。 見られることは覚悟のうえだったが、市中に無事逃れ出て歩いているあいだに、 その事実がじわじわと秀の最後の気力まで奪い去っていった。勇次はこんな自分を見て嫌悪しただろうか。 下手な同情で手を貸すでもなく、少し距離をおいて背後をときおり確認しつつ先を行く。 寡黙な勇次の背中が、いま何を考えているのかは分からない。
 今にも倒れそうな秀をひとまずの休息所として、水茶屋に連れ込もうとした勇次に抵抗したのは、 この状況下で想う相手と二人きりで面突き合わせることの酷さに、到底居たたまれなかったからだ。 勇次は秀の強情な抵抗に戸惑ったあと、強行手段に出ようとした。 八丁堀が言い残して行ったように、秀を安全な場所に隔離するのも勇次の任務のうちだ。 どだい、勇次のほうは秀の密かな想いになど気づいていない。 そのなかで、秀の惨状が加代に知られることのないよう気を回してくれていたところに、さりげない配慮を感じた。
 心境を慮ってひとりにしようと申し出てくれる勇次に、あのときなぜ引き留めるような返答をしたのだろう。 それならオレは帰るから一緒に出ようと言うような男ではないと知っていて。
 ここに居て欲しい。そばに居て欲しい。
 言えないかわりに、ふらつく体を抱き留められたとたん、とっさに渾身の力でしがみついていた。 弱った心は勇次の顔を見たときから、とうに堰を切っていたのだ。 夢にまで見たかった相手だった。監禁されているあいだは、思い出すことで耐え切れなくなるのを恐れ、心の奥深くに封印してきた。
 信じられないことに、いま秀は勇次の腕のなかにいる。監禁されていなければ、何事もなく仕事が遂行出来ていたならば、 こんなことにはおそらく一生ならなかっただろう。その皮肉を秀はいまになって考える。
 あのとき勇次が秀の頭をかかえ込むようにして、両腕でしっかりと抱きしめてくれた。 何も言わずにただ受け止めてくれたことが、どんなに救いになったか。 呼吸が止まりそうになるほどの苦しさと切なさが、秀の身裡いっぱいに膨れ上がる。恋しい、恋しかったと心が叫んでいた。
 抱かれたいわけではない。いや、そんなことを今まで考えたこともなかった。 何故ならこの恋は、秀が勝手に抱いているだけの空想だった。 女からの誘いは引きも切らない三味線屋に、男の身でありながらあろうことか岡惚れしてしまったのは、愚かな自分だから。
 どこにも救いのない、先の夢もない、ただのひそやかな恋情。 しかし誰か想う相手がいるというだけで、秀は生きる希望をそこに見出していた。 勇次がそこにいて、自分がいる。裏の仕事では互いの働きに気を配りながら協力する。 ときには何食わぬ顔で恋心を押し隠し、酒を酌み交わす間柄。それだけで、勇次が生きているだけで充分だと思っていた。
 それがこんなカタチで、強制的に男を受け入れることを身をもって教え込まれた。 男の矜持どころかひととしてこれまで信じてきた自身の正義や価値観さえ、あの悪魔的で儀式にも似た終わりのない調教のまえには 凡て打ち砕かれた。禁欲的に過ごしてきた己が抑え込んでいた卑しく淫らな願望、 おもちゃのように弄ばれる恥辱と理不尽さに、かえって燃え上がり解放されてゆく、 おそましい性情をどこまでも炙り出された。
 自分の真実を知ってしまった以上、秀はこうして日常生活に戻ったものの、 これまでにはない闇の習慣を取り入れて、心とからだと精神との調整をひそかに維持するほかなくなったのだ。
 独りよがりであっても誰にも迷惑をかけなかったささやかな恋が、極彩色の欲に染められてしまったことに気が付いたのは、 勇次のことを想う己の気持ちに、あきらかに悩ましい欲求が差し挟まれるようになったからだった。 想いを寄せながらその恋心の行きつく先を想像していなかった秀は、男に組み敷かれる味を覚えて以来、 変態的な状況下で責め苛まれて挿入されながらも、どこかで勇次を夢想してしまう。
 ひとつ布団で体を密着させて眠った記憶。切なさもさることながら、寝かしつけられてストンと眠りに落ちることの出来た温かな記憶。 寝しなにいつも思い出すそれは、次第に秀の妄想へと繋がれてゆく。 あの腕に捉えられて、涼しげな見た目を裏切る熱い肌に奉仕し、広い胸に押しつぶされながら好きにされる…。
 仕事仲間の窮状に手を貸してやりたいという純粋な思いやりから出た勇次の行為に、そんな浅ましい妄想を見いだすまでになった。 己の穢れ切った欲の深さを地に落ちた信用を、心の底から恐れる。 それが今夜の秀をして、話をはぐらかし途中で逃げるように席を立つという卑屈な態度を取らせた。
 勇次にはもう会うわけにはいかない。またそのうちに、加代か八丁堀あたりから裏の仕事の話は持ち込まれるだろうが、 少なくともそれまでは。
 だから突然の勇次の訪問には、思考の半分は完全に停止した状態だった。
(なんで来るんだよ……。勇次)
 勇次がこだわりなく会いに来てくれることを、本当ならばもっと喜んでいいはずだ。しかしいまの秀にとっては恐怖でしかない。 勇次はなにか自分に尋ねたがっていた。ときどきかち合う目のなかに、こちらを探るような鋭さを感じた。 鋭いだけではない。複雑に揺れる気持ちが、もの言いたげな黒い瞳の奥から秀の隠した想いに揺さぶりをかけてくる。
 勇次の思うことはなんなのだろう。しかしそれを秀のほうから問うことは決して出来ない。 自分がしていること、考えていること、何もかもが後ろめたいせいだ。勇次にはなにも知られたくはない。否、知られるわけにはいかない。
(いっそのこと何もかも話してやったら……。さすがに勇次も厭になって避けるようになるだろうな…)
 だが、その勇気はやはりどうしても出せなかった。想いが伝えられることなど、決してないと分かっていてもだ。 好かれなくても、勇次にせめて嫌われたくないといういじましい未練が、この期に及んでもまだ捨てられないのだった。
(すまねぇ。おめぇの親切心を、俺は。……俺は…)
 薄い布団のうえで寝返りを打ち、さっき酒場で勇次が掴んだ右手首を、意識せずに左手で掴んでいる秀だった。 親指で跡をなぞるようにしたその時の感触を思い出すと、ぞくりと腰骨から官能が這い上がる。
「…っ…」
 声にならない吐息が薄く開いた唇から零れ出る。その口元に右手を持ってくるとしばらく迷ったのち、 触れられた場所にそっと唇を押し当てた。目を閉じれば、より鮮明にその熱がよみがえった。 誰も見ていないと思っても己の良心だけは見ている。 それでもその罪深い行為を止められない。闇の中で秀は唇で愛撫しながら空いた手で自らを苛みはじめた。

 そいつはあんたの免罪符だ。縄の跡が消える前には来るんだな…。
ぶるっ…と小さく身を震わせて手を濡らしたあと。 別れ際の縄師の嗤いを含んだ囁きがふいによみがえり、秀の満たされない「心」をさらに疼かせた。




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