Secret Garden 4







 秀の足取りを気にかけながら脱け出し、社中を遠く離れたあと。 勇次の警戒もやや解けかけたところへ呼応するように、少し距離をおいて後ろから付いて来ていた秀の気配が消えた。
 振り返れば闇の中で秀が足をもつれさせて膝をつくのが見えた。 勇次が声をかける前に、武家屋敷同士の狭い塀のあいだにずるずると座り込みそうになる。 人目につかない抜け道を選んだのは正解だったが、さすがにここ置いておくわけにはいかない。 慌てて引き返すと秀の片腕を取って肩に引き上げた。
「少しだけ休みたい…」
「ここはまずい。この先まで行けばどこか場所が見つかる」
 秀も無謀はわかっていて口にしたのだろう。勇次に体を預けてまたのろのろと歩き始める。 この先の界隈に、水茶屋が何軒か軒を並べた河岸があることを思い出し、そこへ秀を連れてゆこうと思った。
 やがて人けのある通りに出たが、酔っ払った連れを引きずっているように勇次は見せかけた。 薄ぼんやりと灯りをともしている客待ち顔ののれんの一つをくぐろうとすると、気付いた秀の足が強く踏みとどまった。
「…なんで……」
怪訝そうに勇次を見る目が警戒している。
「ここで休んでいこう」
「…いい……。俺は帰る…」
 頑なに踏みとどまる秀の強情さに、勇次は戸惑った。
「なぜだ?休みたいとさっき言ったじゃねえか」
「か……。かまうな勇次…。今回のはぜんぶ俺の失態だ…。誰の助けも要らねぇ」
 肩を借りねば歩けないほど疲弊しておきながら、まだ意地を張るつもりなのかと、 勇次は内心呆れると同時に先刻呑み込んだはずの怒りが沸き上がるのを感じた。
「秀。これ以上強情張ると、抱き上げて入るがそれでいいか?」
「なっ……、バカ云ってんじゃねぇ、放せっ」
 秀が急に暴れ出すのを、勇次は楽に押さえ込んだ。それほどまでに秀の体には力が入らないのだった。
「オレの腕ひとつ押し返せねぇいまのおめぇに何ができる…」
「……っ」
 間近で睨み合う秀のまなざしが傷ついたように瞬くのを、勇次はジッと見据えて低く囁いた。
「それにこのまま長屋に戻ってみな、加代が必ず押しかけるぜ。それでもいいのか……?」
 黒目がちの瞳が明らかな動揺を示す。そこは考えてもみなかったのだろう。 しばしの沈黙ののち、畜生、と口のなかで呟いた秀が、勇次の腕を振り払い、自分から先にのれんをくぐったときにはホッとした。 これでようやく安全な場所に秀を落ち着かせることが出来る。



 奥まった座敷を用意され、秀をとりあえずそこに押し込むと、勇次は廊下に出て店の女に小盥に張った熱い湯と手ぬぐい、 そして熱燗の銚子を数本頼んだ。袖に滑り込ませた小金が効いたせいか、それらの品が届けられるのは思ったより早かった。
 煤けた行燈のあかりの下では、秀が畳に足を投げ出して、壁に背を預けて項垂れている。 勇次は続きの間に敷かれた煽情的な緋色の布団を見やった。 立ったまま秀に目を向けると、上目づかいにジッと見上げる秀の視線とぶつかった。 社中で見交わしたものと同じ、なにか云い知れぬ心を湛えたようなまなざしが、勇次の背筋にぞくりと官能を奔らせる。
(バカな。なに考えてる)
 勇次は一瞬瞼の裏をよぎった浅ましい情景を振り払おうと、何度か瞬きをし、
「湯で体を拭くといい」
それだけを言い置いて背を向けた。
 しばらくの間を置いて、背後では屏風の陰に隠れた秀がようやく動き出した。 ぎこちなく着物を脱ぐ衣擦れがし、やがてちゃぷちゃぷと湯に浸した手ぬぐいを絞っては肌をぬぐう気配が続いた。 その息を殺すようなひそやかな物音が、かえって妄想を刺激する。 考えまいとしても、男たちに犯されながら細身の裸身をくねらせていた秀の姿がちらついてしまう。 熱い酒を勇次はぐいと喉に流し込むと、煙草盆を引き寄せた。
「……」
 ひたすら紫煙を追っているうち、背後に佇む気配に気づき、はっとして振り返る。 茶屋の寝巻に着かえた秀が幽鬼のような蒼褪めた顔で立っていた。 少々寸の足りない薄い単衣と裸足の足元がやけに寒々しく見える。
「少しはさっぱりしたかえ」
 薄く笑って勇次が声をかけると、黙って頷いた。
「腹は減ってるか?」
 黙ったまま首を横に振る。放心しているようだった。人心地ついたのだろうと勇次は察し、自分の横の場所を広く空けた。
「だったら酒ならどうだ?あったまるぜ」
 秀は能面みたいな表情のまま、それでも勇次の近くに腰を下ろした。盃を持たせ、酒を注ぐ。
「グッといきな」
 盃を口元まで持っていった秀が、虚ろに何もない空間に目を向けたまま、それを一息に煽った。けほっと早速咳き込む。
「もう一杯どうだ」
 盃が差し出された。秀はこの調子で立て続けに黙々と酒を喉に流し込んでゆく。勇次もまた、無言で酒を注ぎ飲み干していた。 互いの目を避けるように、ただ銚子だけが瞬く間に数本分空になった。
 何かが畳に落ちる音がして勇次が振り向くと、秀の手から盃が滑り落ちていた。胡坐をかいた状態のまま瞼を閉じている。 いまにも前にのめりそうになったので、勇次は手を伸ばして肩を押しとめた。ハッとして秀が目を開く。 とろんと充血した目を見ながら勇次が言った。
「布団でちゃんと寝な。……おめぇが一人になりてぇなら、オレは勘定してここを出るぜ」
 寝ぼけた秀が勇次の言葉を理解するのにやや間が空いたが、
「……おめぇが出るなら俺も出る」
「秀…」
 立ち上ろうとした秀の上体がぐらりと斜めに傾いだ。とっさに腰を上げて勇次はその体を抱き留める。 一呼吸おいて、突然秀が強い力でしがみついてきた。
(!!)
 勇次の背に両腕をまわして引きつけ、秀は肩口に自分の顔を押し付けてくる。 体が熱病にでもかかった者のように激しく震えていた。
(秀……)
一瞬呆然としたが、中腰で立ったまま勇次はおもわず秀の頭と背を抱え込んだ。
 糸の切れた浄瑠璃人形めいた様子から一変したこの秀の胸に、どんな感情が兆してきたのかは分からない。 仕事をするうえで何が起こってもそれに対処する覚悟はもとより出来ているはずだ。 しかし今の秀は、身裡に吹き荒れる感情の嵐にさらわれまいと、目の前の命綱に懸命にしがみつく遭難者のようだった。 ただ黙って受け止めてやる以外に、勇次に出来ることはなかった。
 あたかも愛しい者にするように、もつれた髪に指を絡め引き寄せる。安全な場所に居るということに秀が納得を得られるまで。 これ以上にないほど密着した体が着物越し、激しく打ち乱れる秀の鼓動を伝えてくる。
 裏の仕事仲間であり時おり酒を酌む仲であってもそれ以上に踏み込んだ関わり合いも持たなかった相手が、 初めて血の通う生身の人間であったことに気が付いた瞬間だった。
 女にもなかなかしない振る舞いだと、後になって勇次はその時の自分を苦笑まじりに思い出すのだが、
「…さ、オレも泊まるからもう布団に行こう、秀」
耳元に囁いて秀を優しく引き離したのだった。



 安眠の床というにはあまりに煽情的で品のない代物ではあったが、布団が分厚く柔らかいのが幸いだった。 行燈の灯りを消すと、暗がりのなか二人はひとつ布団に並んで横たわっていた。
 こちらに背を向けた秀は子供のように体を丸めて縮こまり、ジッと動かない。 勇次は夜具のなかで体が触れ合わないよう極力離れていた。
「…勇次…寝ないのか…?」
 小さく、秀の問う声がした。勇次は首だけそっちを向いた。秀も眠れないらしい。
「……オレのことは気にしねぇでいい。ゆっくり眠りな…」
しばらく沈黙が続いた。もう秀が寝てしまったかと勇次が思ったころ、
「…眠れない」
深く溜め息をつくように秀が呟いた。ぞくっとするほど切ない声音だった。
 勇次は何を言えばいいのかわからず、すっかり冴えた目を宙にさまよわせた。 秀が望んでいることは何なのか。一人きりになるのはいやだという意思表示をしたからこその、この状況下で。
「…秀」
「……」
「おめぇがいいなら…、オレが寝かしつけてやろうか?」
 想像していたのは、要らねぇという返事だった。 しかし勇次の低い囁きを聞き取った背中がはじめて小さく身じろぎしただけで、秀は闇の中で黙したままだ。
(・・・・・・・・・)
 そうして欲しいとの反応だったのか分からなかったが、自分から口に出してしまったからにはやってみるしかない。 勇次は己の心音が伝わらないかと気になりつつも、覚悟を決めて秀のほうに寝返りを打つ。 寝やすいように、秀の頭が胸元にくるようにした。
 後ろから肩に手を触れると、ぴくりと秀の体が震えた。かまわず襦袢の腕を回して、背後から緩く抱く格好になる。 かすかに秀の呼吸が速くなる。男に触れられる生理的な嫌悪だろうか。 やはり止そうと身を引きかけたそのとき、掠れた声で名を呼ばれた。
「…え?」
退(の)けようとした腕はそのままに訊き返す。顎の下にある黒い頭が俯く気配がする。
「……勇次。気持ち悪くねぇのか」
 秀の言葉の意味がすぐには呑み込めなかった。 ああ、と思い当たると同時に今さら口惜しさがこみ上げてきた。秀を穢していたあの若い方の男。 制止の声を無視して、やはり殺っておけばよかったのだ。 人一倍気が強く負けず嫌いなこの男をして、そんな卑屈なことを言わしめた連中を全員吊るし上げてやりたい。
「つまらねぇこと訊くもんじゃねぇ」
 勇次の語気に不穏なものを感じたのか、秀が腕の中で振り向きかけた。 夜目に慣れている秀に、個人的な感情を露わにしたいまの表情を見られたくはなかった。 動きを押さえ込むように抱く腕に力を込める。
「っ…」
「いいからもう寝ろよ、秀。おめぇが眠るまで、ずっとこうしておいてやるから…」
 こくりと、秀が喉を鳴らした。 何と言ったのかは聞き取れなかったが、口の中で返事らしきものをしたあと、秀は大人しく動かなくなった。 眠れないと言っていたわりには、勇次の腕の重さが体を包んでさほど時をかけず、ひそやかな寝息を立て始める。 低いがよく通る耳障りのいい秀の声の、いつもの突っぱねるような調子に代わりいつにない苦悩が含まれているようで、 これ以上話していると妙な昂ぶりを抑えるのが難しくなりそうだった。 よほど疲れ切っているのかクークーという寝息を聴きつけて、ようやく勇次は胸を撫で下ろした。
(まったく…なんて夜だ)
 今回さまざまな予期せぬことが連続して起こり、勇次もまた疲れ果てていた。少し瞼が重くなった。 腕の下ですっかり熟睡しているらしい秀の深い呼吸が、振動で伝わってくるせいかもしれない。 温かい背中に胸を添わせていると、ずっと以前からこうしていたように自然な感じがするのが、我ながら不可解だった。 ふと、どんな寝顔をしているのかと考える。
(いい加減にしろ…。こいつは簪屋の秀だぜ)
 凡てに腹が立ち、自分にもうんざりした気分で勇次は思わずあくび交じりの大きな溜め息をついた。 ん…、と秀が夢の中にいながらかすかに反応する。 慌てて口をつぐみ、秀に寄り添ったまま無理やりまぶたを閉じると、意外にもすぐに眠りがやって来た。




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