Secret Garden 1







 ことが済むと、ぐったりと死んだように動かなくなった秀を尻目に、錦を肩にひっかけた主は手元の小さな鈴を軽く鳴らした。
「・・・・・・お呼びで」
すぐに階(きざはし)の下から、控えめな、まだ若い男の小声がかかる。
「うむ。この者を連れてゆけ」
ほんのわずかの間をおいて、
「はい」
 声と同時にもったりと澱んだこの場の空気を掻き分けるように、黒い影が入ってきた。 秀のほかにも数人いる下男たちのなかで、一番若い圭太だった。
「今夜はそなたが宿直番か」
 主の声にどこかからかうような気配がある。灯火を受けて陰影のなか浮かび上がったそばかすの散る面が、 がっしりした肩の上に乗っているにしては、まだ少年の純真さを十分に残すものだったからだ。
「そなたには、まだ刺激がちと強いかの」
「・・・・・・」
 圭太は無言で俯いて分厚い絹布団ににじり寄る。緋色に染められた布団の上、 解かれた縄が黒い蛇のようにとぐろを巻く傍らに片膝をついた。横倒しになって 気を失っている男の裸身のうえに、床に落ちていた着物を拾い上げて着せかけようとした。
 首や胸など見えているところにくっきりとついた赤い蚯蚓腫れの線にジッと目を凝らしている。 布団の窪みに、男の陽根を模った卑猥な物体が転がっているのを見つけたときには、一瞬大きく瞬きをして目を逸らした。 その伏し目がちの視線が、すぐわきに置かれた大きな鏡にもちらと向けられる。が、すぐに顔を背けるとそっと秀の肩を 抱き起こしにかかる。
「そなたいくつじゃ。名はなんと云う」
「・・・・・・。18です。…圭太っていいます」
「ふ、ふ・・・・・・18…。もっと幼く見えたが、それでは遠慮は要らぬな、圭太」
「・・・・・・」
「女を抱いたことは…?」
 圭太はそこではじめて、自分の表情をにやにやと観察していた主に鋭い目を向けて、短く答えた。
「な…ないです」
 その頬が表情の険しさに反して赤らんでいることに目を留めた主が、愉快そうに肩を揺らして嗤った。
「そうか。…ではその者の世話、そなたに任せた。丹念に扱ってやれ。…ゆめ、襲い掛かるでないぞ」
 体だけは大きな若者だった。秀を抱きかかえて去って行く背中に、主の低い嗤い声が聞こえていた。




 目が覚めると、もう昼に近いということに目を開ける前から秀は気づいていた。灯り取りの格子窓から、煮炊きする煙の匂いが 昼間でも薄暗い蔵のなかにまで届いている。
(ゆうべ俺は…)
 思い出す間もなく、総身にかかる重力を意識して喉の奥で呻いた。体じゅうの力が入らず、腰から下が鉛のように重い。 頭もどんよりと重たく芯がぼうとする。
 目を閉じたまま気配だけで様子をうかがう。鍵のかかった蔵を見張る者はいないが、薪を割る音が遠からず聞こえていた。 どうやらゆうべもまた、失神しているうちに下男の誰かが自分をこの蔵まで 運んで、身の始末までして寝かせたらしい。
 最初の日気が付いたときには、恥ずかしさのあまり目を合わすことさえ 出来なかった。しかしここに長く奉公している下男ほど、こういったことは今にはじまったことではないようで、 ごくあっさりと頷かれただけでその場は終わった。次の日の男もまた同じではあったが、その秀を見る目の奥にほんのわずか、 好奇心とも性欲ともつかない野卑な光が宿っているのに、気づいて気づかないふりをした。
 連夜続けて嬲られ尽くしたからだのすべてが疎ましかった。それなのに、その穢れはもはや自分の皮膚の一部であるかのように感じられる。 どんなに身を洗っても清めても、拭い去ることは出来ない・・・それは自分の皮膚の内側にある穢れだからだ。
(・・・・・・ゆうじ…)
 こみ上げてくる震えを抑えたくて、ただ一つの言葉だけを念じる。祈りにも似たその名を胸に、 力の入らない両腕でわが身を抱く。筵と薄手の掻い巻きを組み合わせた寝具のなかで固く目を閉じる。
 闇の会からの依頼を受け、江戸近郊の由緒ある修験道系の社中に住み込みの下男として潜り込んで、二十日余り。
 大奥への上納金の見返りとして市場の実権を裏で牛耳る呉服商三笠屋と、その集金窓口と疑われる祈祷所としての社中の癒着を探るためである。 大奥の女御がたびたびここをお忍びで訪れ、社中に逗留するのを秀は目撃している。出羽総本山の講義をいただくとの名目だが、 その実情は、神官たちを巻き込んでの乱交の場であった。
 その乱交の余興として、近郊からさらわれてきた若い女や、 ときには少年までもが、爛れた宴の場で輪姦され口封じに始末されている。遺体は広大な裏の竹林を有する谷で護摩業と偽り 燃やしているのだ。秀はそこまでをすでに見届けていた。あとは外の仲間と繋ぎをとり、首謀格の神主と呉服屋以下数名を 始末する手筈だった。
 ここの神主であり、仕事の的の一人でもある通称「お館様」に目をかけられたのは最近のことだ。 側に用いてもらえるのは好都合だと最初は考えていたが、数日前に起きたあの忌まわしい出来事を境に秀個人の身辺は一転した。
 秀が探索者であることに気づいたらしい神主が、秀を姦計にかけたのだ。あの日以来、秀は敷地内の蔵に監禁され、 日が落ちた後神殿の奥の間に引き出されては、懺悔と称する嗜虐の拷問を受ける夜が三夜に渡って続いていた。




「まこと不届きな男よ。これは罰・・・神の御前にてその淫らな性を・・獣に堕ちた真の姿を懺悔させねばな・・」
 清浄な祈りの場であるはずの神殿は、闇が落ちたあとには、淫虐の舞台となる。白木の匂いと香の怪しく艶めかしい香りが漂う なか、裸に剥かれた身に縄をうたれた秀は、狩衣の前をはだけた男に背を預けて両足を大きく開かれ、 明るい灯火のもとで菊門をさらされていた。ぷっくりと充血し淫らに解けた下の口に 張り型が柄の中ほどまで潜り込み、主の手によってじっくりとなかを犯されている。
「神の御前でそなたが隠し事など出来ぬよう、張り型を専門にする職人に命じてそなたの淫欲を暴くために特別に作らせたものだ、秀・・・。 思ったとおり美味そうに喰ろうておるな・・それほど気に入ったか・・・?」
「あ・・ぅ・・・く・・ぅぅ・・っ・・だ、誰がこ、んな・・気に入るかよ・・っ」
「くく・・・そのようにみだらな声を出しては・・ねだっておるようにしか聞こえぬぞ、秀・・・」
 秀は執拗な肛虐になんども気を遣りそうになっては、寸止めされるということを繰り返されているのだった。
「そなたは先だって供につけたとの三笠屋との会合で、男色家共に縄の味を教え込まれここをたっぷりと嬲られて・・ 何度も気をやっておったよな・・。男が初めてとは思えぬような悦び様で・・・くくく・・あれは見ものであったぞ、秀・・・。 そなたしまいには失禁しながら声を漏らして、魔羅を口にも尻にも咥え込み・・・」
「ぁ・・あ、ぁ、・言・ぅ・な・・っ・・ぁぁ・・っ」
 茶会に行く主の供をするよう言われたのは罠だった。着いた屋敷の離れの締め切った密室のなか、秀は招かれた 男色家たちの贄として捧げられ、卑猥な恰好に縛りあげられて鞭うたれたのだ。肌に食い込みじわじわと官能を引き出してくる、 黒光りする縄にあぶら汗を吸わせ、浣腸を受けた挙句、稚児遊びに坊主が使う性具や淫猥な張り型で、 時間をかけて調教された。それは悪夢であると同時に、隠されたおぞましい性の悦びを引き出す禁忌の扉でもあった。
 最後は遊び慣れた男たちに挑まれ、巧みに繰り返し絶頂に追い上げられる。 それを肴に盃を舐めつつ鑑賞していた主のどこまでも絡みつくあの視線・・・。もうなんでもいいから楽になりたいと いう自暴自棄が、見られている羞恥を超えてしまったとき、あられもない痴態を秀は進んで演じていた。
 なけなしの意地も打ち砕かれるほどに味わわされた凌辱の記憶が、脳裏にもからだにも刻み込まれている。 じつはあの日からずっと・・・からだは熱を持ち疼き続けている。
 生理的な嫌悪感を自覚しているのは心の表層の部分に過ぎず、その奥底では与えられる悪魔的な調教に抗いがたいものを感じていた。 堕ちるところまで堕ち汚辱にまみれきることで、自分のなかの鬱屈した何かが一時的に開放された気がしたのだ。 そのとき秀は、己のなかに眠る被虐の性情をはじめて疑ったのだった。
「ふふふ。なにも恥じることはなかろう。儂はそなたのような男をずっと探し求めておったのよ。そなたのような性情の者がいるから、 儂のような者が愉しめるのだ。この張り型もそなた好みのたくさんの疣を付けさせた・・・。遠慮は要らぬ、全て咥え込め」
 抑揚に乏しい声が、聞くも穢れた言葉を秀の耳に囁く。はじめて死を、意識した。
 このまま舌を噛んで死のう…。秀は何度もそう考えた。しかし仕事人として請け負った任務を果たすことなく、勝手に命を絶つことは 許されていない。これは秀一人で請け負った仕事ではなかった。そのことが秀に生き恥を晒す道を選ばせた。
 八丁堀が加代が、おりくとそして勇次が、すでに外側で動いている。勝手に自裁するのは、仲間の命を危険に晒すことに繋がっていた。 秀からの連絡が途絶えたことを受け、何かが秀の身に起きていることは察しているだろう。一人では身動きがとれない。 いまはただ仲間の助けと合流を待ちながら、この拷問に心までも凌駕されぬよう堪え抜くことだけが、秀のすべき唯一の闘いだった。
(……ゆうじ)
 そのなかで崩れそうな気持ちを辛うじて支え踏み留めているのは、胸に抱いた男の名だけだ。 勇次に一目会いたい。生きていても死んでいても何の価値もない命だが、 せめて心の奥でひそかに好いた男の、静かなまなざしともう一度見交わすまでは、死にきれない。



「…秀さん、起きてるかい?」
 疲れでいつしか眠りに落ちていた秀は、すぐ間近で聞こえた声にビクッと身をすくませて目を開けた。蔵を開ける音にすら 気が付かなかった。見開いた黒目がちの瞳が、夜具のかたわらに片膝ついた若者の心配そうなまなざしとかち合う。
「……け。圭太…」
 一番年も近く、そしてまた仲良くしていた相手なだけに、思わずホッと呟いたあとで、からだ全体を燃えるような羞恥と寒気が 襲った。ここに圭太がいるということは…。
「心配ないよ。いいから寝てな」
 秀の強張った表情からなにかを受け取ったらしい。圭太が短く言うと再び土間に向かう。小上がりの上がり口に置いた鍋のふたを開けたのか、 湯気と粥の匂いがふわりと広がる。薄暗い蔵のなかで唯一光の差し込むあたりに、 ごそごそと大きな背中を丸めるようにして盆に乗せた二つの椀と箸、漬物などを持ってきた。
「オレもここで食う」
 小さな鉄鍋ごと脇に置いてニッと笑う。あどけなく八重歯の覗く圭太の顔をみて、ようやく秀も少し笑顔を見せた。
「圭太。婆さんの腰の調子はどうだ?」
「相変わらず寝たり起きたりさ」
 寝具から出て差し出された椀を秀は受け取った。圭太は近隣の村はずれに労咳持ちの父親と老いた祖母との 三人で暮らしをたてており、この社中にこの春から下男奉公しているのだった。畑の仕事もあるので朝早くから野良に出て、 昼から夜にかけてを社中に通ってくる。町の若者たちと違い無邪気な反応が相当に子供っぽい。気になってつい秀も心を許してしまう。
「とうちゃんな。秀さんが教えてくれた薬草を煎じて飲ませたら、咳が楽になったって夜によく眠るようになったよ」
「そうか。良かったな」
 秀も多弁な方ではないから、せいぜいその程度の会話である。しかしなぜか圭太は、住み込みで働くことに なった新しい男だと下男頭から紹介されたときから、秀を慕ってきた。自分の倍くらい年の離れた男たちとばかり働いていたから、 その半分くらいは自分に近い秀が物珍しかったのだろう。兄いと気安く呼んで大きな子犬のように懐いて一緒に働きたがったのを 下男頭からうるさいと叱られ、秀さんと呼ぶようになった。そういう素直なところも好ましい。秀にとっても、 このくらいの弟分がいたらさぞ楽しいだろうと思わせられるような、純朴で優しい若者なのだった。
「…あのさ。秀さん」
「ん?」
 圭太が急に声をひそめた。二杯目の粥がまだあまり減っておらず、その手元に目を落としたまま、小声で囁く。
「なんで…。秀さんはなんで…、あ、…あんな目に遭わされてんだ?」
 秀は思わず手にした椀を取り落としそうになる。いままで何も言わずにいたがやはり我慢できなかったのか、圭太が赤い顔して 下を向いている。はじめての宿直番としてすべきことはあらかじめ下男頭からも聞いてはいたはずだ。しかし家族の面倒と下働き以外に 世間をまだ知らない圭太にとっては、信じられない事実を見てしまったとそういうことだろう。
 秀を抱いて蔵に引き上げたあと、不自然な縄目の跡や、無数の斑点、指のあと、 そしてとりわけ、体液で濡れた下肢の無残な有様を目の当たりにした。よくわからなくても、なにか性的な虐待をされたと一目でわかる 状態を見て、圭太は身を清めながらも混乱と理不尽な思いで頭をいっぱいにしていたようだ。
「……俺が、住み込みの長屋から一人だけここに移されたのは、知ってるよな…」
 同じく目を椀に落としたままの秀が言うと、圭太が黙って頷く。
「圭太…おめぇだから明かす。俺は……。ある仕事をするためにこの社中に下男として入り込んだんだ。 だが…。しくじって見つかっちまった」
「……!」
 はじめて打ち明けられた秀の素性に、圭太の実直な目が驚きに丸くなる。秀はかすかに笑って首を横に振った。
「どんな仕事とは訊くんじゃねぇ。ただな、俺はいまここの囚われ者なんだ。だから…何をどうされても仕方がない…」
 本当ならとうに殺されていても不思議ではないのだ。秀は主には公儀筋の探索者だと思い込ませている。 そなたを送り込んだ上役も、行ったまま戻らないからと表立っては踏み込めまい。主は偽の自白を秀から引き出した あと、そう言って嗤った。主にいささかも動じた様子がないのは、背後にはるかに強大な 権力を握る大奥とのつながりを見ているからだろう。
 しかし好色な主は、秀にはいい見せしめを思いついたらしい。監禁しておいて時に引き出させては凌辱し、 被虐の性をより目覚めさせいたぶり尽くすほうが、殺すよりはるかに価値があると。むろんいつまでもではない。 いずれ飽きれば、例の淫靡な宴に引き出されて嬲り殺しにされることは間違いなかった。
「…とにかく悪いもんを見ちまったと思って、早く忘れるんだな」
 すっかり失せた食欲に秀が椀を盆に置くと、圭太が険しい目をして訊ねた。
「なんでそんな平気な顔してるんだよ?なんで逃げないんだよ?このままじゃそのうち…」
「バカ!でかい声出すな!」
 慌てて秀が圭太の口を塞ぎにかかる。
「交代が来るまで大丈夫だ!」
 怒ったように圭太が秀の手を振り払う。秀は呆れてその眉間に思い切り皺を寄せたしかめ面を眺めたが、
「…圭太、おめぇってやつは…」
 まだ笑う力が腹に残っていたのだと、肩を揺らしながら秀は思った。こんな見張りなんて聞いたことない。もちろん、 この蔵の向かいには垣根を挟んで住み込みの使用人の長屋がある。簡単に逃げおおせられる環境ではないが、しかし この人の好過ぎる見張り役一人ならば、体力の落ちた今の秀にも舌先でどうにか謀ることが出来そうだ。
「何がおかしいんだよ?」
「見張りのくせして、なんで逃げねぇのかなんて訊くやつがあるかよ。第一見張りが一緒に飯喰ってどうすんだ、バカ」
「バカバカ言うな、さっきから!オレは秀さんを心配してんのに…」
 急いで立ち上がると、さっさと食べかけの器や鍋を掴んで背を向ける。畑で鍛えられた背中をこちらに向けて鼻をすすっている。
「…圭太…」
 秀は困って髪を掻き上げた。平気なものか。こちとらギリギリの忍従だ。かと言って このままやられっぱなしでは終われない。ここまでされた借りは必ず返す。仕事はまだこれからが大詰めだ。機会を、 仲間を待っていると、それまでの必死の時間稼ぎなのだと、そんなことまでも明かすわけにはいかない。
「誰がおめえに心配してくれって頼んだよ。俺に余計に関わるとおめぇが疑われることになるぜ…。圭太、家族のことを考えろ」
 可哀想だと思ったが、一番弱いところを突くしかなかった。案の定、圭太はひくんと肩を揺らしてその場に立ちすくむ。
「見張りのことを虜の俺が言うのもなんだがな…。おめぇ誰かと代ってもらいな。 気をつけろ、俺をもし逃がしたら…家族に害が及ぶぜ」
 秀の脅しの演技に、圭太は手もなく引っかかる。一度振り向いて赤くなった目で秀のことを睨むと、ぷいと蔵を出て行った。 ほどなくして別の男が、開け放したままの入口に顔を覗かせる。
「どうした。女も知らねぇガキを色仕掛けでからかったのかい?」
 二日前に自分の世話をした男だった。今度は欲望を隠そうとせず、気だるそうな秀の顔とめくれた寝具とをにやついて見比べている。
「さすがにその気力は無ぇな。うるせぇガキだからもう来るなと言ったのさ」
「へへ…っ。あんなにおめぇに懐いてたってのに。よほどアレをみたのがきつかったらしいな」
「…おい。与太話はそれくれぇにして、閉じる前に厠に行かせてくんな」
「はは。腰が立たねぇんじゃねえのか。なんならまた抱いてってやろうか?」
「あいにくまだそこまで弱っちゃいねぇ」
「睨むなよ、虜のくせに気が強ぇね。お館様はどうも気に入ってるみてえで今夜もお召しだぜ。いまのうちに休んでおけよ」
 手鎖付きで外に出ると、敷地奥の竹林のどこかで遠く鳥のさえずりに似せた呼子の音がしたのを、秀は聞き逃さなかった。 用を足し、何食わぬ顔して再び蔵に戻る。入る間際、風にのって続けてもう二回。男は鼻歌など歌って気を止めもしない。 四角に差し込んでいた光が閉じる戸口に合わせて細くなり、薄暗がりのなか秀はひとり残された。外から鍵をかける音がする。
(……やっと)
 力尽きたように再び寝具に倒れ込みながら、秀は耳の奥でさきほど聴いた音を蘇らせる。あれは加代が鳴らしているのだろう。 ということは今夜、他の仲間と共に忍び込むという知らせだ。近くにいると知らされただけで、 一条の光にも似た希望が胸に射し込むのを感じていた。
(早く来てくれ。……ゆうじ…)
 これまであえて意識の外に押しやっていたその名を胸のなかで呼んだ途端、堰を切って苦しさがこみ上げて来た。 下衆の手でからだを開かれたとき、恐怖とおぞましさに思わず胸に浮かんだ男の名を呟いて助けを求めていた。 それはかえって好事家たちの欲をそそったらしい。 秀はもう一度男の名を呼ぶようにと責め立てられたが、どんな仕打ちを受けても一声たりとも口にしなかった。 その名を出してしまえば、ずっと胸に秘めてきた大切な想いが穢される。その想いひとつでここまで耐え抜いてきた心が 折れてしまうのを恐れたからだ。
 だが秀は、自分のなかに潜む淫蕩で異常な性情にも気づかされてしまった。それは勇次への想いとは、 完全に切り離しておかねばならない。
(勇次…。俺はもう、おめぇを勝手に想う資格もねぇほど穢れちまった…。それでもいいから、会いたい…)




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