「ぱたんと寝ちまった」 お民を抱き上げた秀は苦笑して呟いた。帰り道でしきりと目を擦り出したので覗き込むと、歩きながら舟を漕いでいたのだ。 黄色がかった満月は、高く昇るにつれて白く輝きだした。 見上げれば薄くたなびく雲よりも上、小さな銀盆がいくつかの星々をしたがえて虚空に浮かんでいる。 その光は、提灯もなしに歩いてゆく二人の影をひそやかに照らしていた。 「はしゃぎ疲れたんだな。ムリもねぇか」 半纏の肩口に頬をくっつけスヤスヤと眠るあどけない寝息に耳を澄ませ、勇次が笑う。 秀と勇次から交互に肩車してもらい、お菓子やおもちゃを手に他の月見客たちと並んで夜空を見上げた。 寂しいくらいのふだんの夜からすると、にぎやかで夢のような楽しいひとときだったろう。 「ちょっと甘やかしすぎたかな」 「たまにはいいじゃねぇか。手伝いも頑張ってんだろ」 そうお民の肩をもった勇次は、紙で出来た人形を手にしている。露店の簡易な矢場で、お民のお目当ての景品を当ててやったのだ。 「そんなこと言ってよ、おめぇが一番楽しんでたくせに」 「そうだったか?」 らしからぬきまり悪い顔をして訊き返す。秀は答えるかわりにフッと吐息で笑った。 からかった自分にとっても、こんなに肩の力を抜いて楽しんだ夜はひさびさだったのだ。 勇次がこんなにも子ども好きだったとは、お民を会わせるまでは知らずにいた。 過去の裏の仕事で、年端もゆかぬ子どもや少年少女が巻き込まれ命を落とした件も幾たびかあった。 だが勇次は、加代や秀ほど彼らにすすんで関わろうとはしなかった。むしろどこか一線を引いた態度を守りとおしていたように思う。 今ならば秀にも、その理由が分かる。この男の生い立ちが関係していたのだと。 感情を表に出さない勇次だが、そのじつ他の仲間たちに負けず劣らず義に厚く、筋の通らないことや不正を嫌う。 八丁堀と馬が合わないのも、慎重になるあまり保身第一にしか見えない宮仕えの同心とはその辺の気質が水と油なため、 いさかいに発展しやすいのだ。 ことに、母おりくに対する敬愛と献身は、親を知らない秀の目にも血のつながりを超えたふたりの絆がまぶしく映っていた。 そんな勇次が不幸な子どもに入れ込む心に自ら歯止めをかけてきたのは、 おりくの引き受けた業の深さを身をもって理解していたからではないだろうか。 育ての母の裏の顔を知った時、死んだ父とおりくの関係に隠された真実を懺悔された時。 両者の間でどんなやりとりがあったのか、勇次はその話をしたことはない。 秀も訊かないが、お民をいつくしむ今夜の勇次を見ていて、語らずの思いに触れた気がした。 疑うことも知らず信頼しきったまなざしを庇護者に向ける幼い少女。それはそのまま子ども時代の勇次自身の姿なのだ。 自分の手で消した男の遺児を引き取った秀は、逡巡のすえに裏稼業をこのまま続けてゆくと決めた。 そのうえでお民を裏の世界に決して引き込まないと固く決意している。 が、八丁堀からは早くもその決断を危ぶまれ、こっちに害が及ぶようならおれがおめぇに引導を渡してやるからなと個人的に釘を刺された。 八丁堀の脅しがただの威嚇でないことは、他の誰よりも付きあいの長い自分がよく知っている。 だから秀は八丁堀にだけは宣言した。おりくと勇次のようになるつもりはない。だが、いま仕事人を続ける理由が俺にはある、と。 会話が途切れたまま足を運びながら、体ひとつ分ほど離れて隣を歩く男がくれた言葉を思い出す。 勇次は秀の選んだ道については何も言わず、しかし二人きりの夜にぽつりと言った。 ―――オレの命はおめぇにやる――― 明日をも知れぬ命をかかげる仕事人が口にする約束は、限りなく誓いに似ている。 約束には『いつか』という枕詞がつきものだが、誓いは『いつも』。 秀が江戸を離れていた時期と、仕事人から足を洗おうとしていた時期にも、勇次はいつもそこに居た。 物理的に離れていてさえ、むしろ離れていればいるほど、自分の中に棲みついた勇次の存在に気づかされる。 いまではその愛を信じられるようになった秀だが、それを本人に告げることはこの先もたぶんないだろう。 「ん?なにか言ったか?」 ふいにこっちを向いて唐突に訊かれて、心の声が漏れ聞こえたかのように秀はたじろいだ。 「べっ――べつに何んにも言ってねぇよ」 「ふーん。さっきからちらちら視線を感じるから、何か言いたいことでもあるのかと思ってな」 素知らぬ顔して目ざとく気づいていたらしい。暗いのを幸いに熱くなった頬をそのままに、秀は言い訳を口にした。 「おめぇがどこまで付いて来る気か訊こうとしてたんだよ」 もう溜め池のほとりの小屋の近くまで来ている。 「ここまで来たなら家まで送るさ」 即答されて、困るのは秀のほうだった。 「……いい。もう大丈夫だからここで帰れ、勇次」 二つ並べて先に敷いておいた布団が頭を掠めた。自分とお民が一緒に寝ればいい話だ。 そんな風に気を揉む心も知らず、勇次はあっさりと頷いた。 「分かった。じゃあオレはこれで」 そう言った直後、スイと手が伸びてきた。ハッとする秀の頬に片手が添えられたかと思えば素早く唇が重ねられる。 両腕にお民を抱いている秀は避けようもなく、目を見開いた。 「おぃ―――」 ぶつかりそうな距離でもそらさない瞳に抗議しかけたものの、また塞がれてつい目を閉じてしまう。 全身の力を抜いて身を預けているお民は目を覚ます気配すらないが、 子どもならではの高い体温と密着し只でさえ汗ばんでいた体が、巧みに追い込まれてさらに熱を帯びた。 やっと解放されて、濡れた口元を拭うことも出来ずに秀は息を殺しながら睨みつけた。 「おとなしく帰ぇるんだから、このくらいの土産を貰ったってかまわねぇだろ?」 ぬけぬけと言いながら、勇次がお民と秀の胸の間に紙人形を差し込んだ。ニヤリと笑いかけてそのまま背を向ける。 ちょっとの間、酸欠気味の頭と口吸いの余韻のせいでぼんやりした後、 「―――おい」 幅広いその背中に向かって、秀は小声で呼びかけていた。 「と…泊まってもいいんだぞ」 勇次が無言で振り返る。暗闇に半分溶け込みかけた男を引き留めつつ、しかし念だけは押しておく。 「ただし、泊めるだけだ。泊めるだけだからな!帰りにおめぇに何かあったら、俺の寝覚めが悪ぃ」 耳の付け根まで熱くしながらなんでこんなことを言っているのか、秀にもよく分からなかった。 会えば体を重ねるのが、当たり前だと思っていた。それ以外に何をするのかと。 今夜はお民がいる。泊めたところでただ川の字になって寝るだけだ。 それは分かっていたが、離れてゆく温もりを感じたとき、残って欲しいと思った。せめて未明の闇が藍色に薄まり、空が白みだすまで。 「……そうまで言われちゃ帰ぇるわけにゃいかねぇな。何もしねぇでいられるか、自信はねぇが」 「指いっぽん触・れ・る・な・よ」 アシの茂みの中で眠る水鳥が、最初の羽ばたきを聞かせるまで。 了
+おまけ
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