フッと意識が浮上して目を覚ますと、瞼を開ける前にお民はまずいつもの寝息がそこにあることを確認してホッとする。 その寝息は浅くとてもひそやかなので、背中越しに感じる温もりがなければ不安になるほどだ。 だがここ最近では、お民の庇護者は横に並べたもう一つの布団に寝るようになっていたはずだ。 夜泣きがほぼ無くなってきたのを機に、いつまでも甘えているのはよくないと諭され、 寂しいながらひとりで寝るようになっていたところだった。 お兄ちゃんは夜なべ仕事で起きている時の他、ときおり夜遅くに用事で出かけることもある。 だからいつまでも夜が怖いとわがままを言って優しいお兄ちゃんを困らせるのはいけないと、幼いながらも自分なりに考えていた。 秀兄ちゃんが寝かしつけてくれる時の静かな声が好きだ。 ふだんは話し方もぶっきらぼうだし忙しいからたくさん話してくれるわけでもないが、 ときどきは寝床に入ったお民のかたわらで片肘枕をついて、寝物語をしてくれる。 疲れているのかお兄ちゃんは自分のほうが眠そうで、それでいて眠りにつくまでずっとお民のことを見守っていてくれる。 語ってくれるのは何度も繰り返し聴いたお伽噺や子守歌なのに、高くもなく低くもない唄うようなその声は耳に心地よく、 目を閉じて身をゆだねているうちにいつの間にかふわふわと眠りの世界にみちびかれている。 そんな夜に見る夢には、けっして怖いものが出てこないのも安心できた。 だからまだ夢の続きなのかと思った。 秀兄ちゃんが一緒に寝てくれていると背中ごしの温もりで分かったものの、 どうしてそんなことになっているのか分からず、お民は頭をめぐらして寝息のする方に顔を向ける。 するとややこちらを向く姿勢で寝ているお兄ちゃんの肩越しに、大好きなひとの顔が飛び込んできたのだ。 (えっ?) びっくりしたが、乾いた喉からは声が出なかった。目が覚めているのか夢なのかはっきりしない。 ぼんやりと寝ぼけまなこのまま見上げていると、 人形のように綺麗な顔をしたそのひとが、人差し指を自分の口に立てて(しぃ…)という仕草をした。 やっぱり夢じゃないんだ。ほの暗さがまだ残る夜が明けたばかりの小屋のなかに、勇次おじちゃんがいる。 お民の頭がようやく動き始める。 昨日の晩、お兄ちゃんとお月見に町まで出かけた。途中で三味線屋に寄っておじちゃんも仲間に加わり、 橋の上で大きなお月さまを見たのだ。交代で肩車してもらって、嬉しくてしかたなかった。 他にも屋台でおいしいものを食べたり、夜店を見て回ったりもした。 あんまり楽しすぎて、これも夢なんじゃないかと思って自分でほっぺたをつねってみたくらいだ。 それを見た秀兄ちゃんに『どうした?』と尋ねられた。思ったことを正直に答えたら、 なぜかお兄ちゃんはおなかを痛くした時みたいな顔になって、 『バカだな。ほんとに決まってんだろ!あんちゃんがいるんだから、お民は心配しねぇで思いっきり楽しめばいいんだよ』 ちょっと怒ったような声で言うと、ほっぺたをごしごし撫で始めた。 戸惑うお民の目が、隣で黙って見ていた勇次おじちゃんに向かう。 切れ長の目を細めて軽く顎を引いたおじちゃんは、お兄ちゃんの腕をぐいと引くとお民に明るく話しかけてくれた。 『よぉしお民、次はあそこの矢場に行ってみるか?おめぇの欲しい景品を当ててやるよ。な、秀』 あのあとどうやってうちまで帰ったのか、お民の記憶は途中から途切れてしまっている。 射当ててもらった紙人形のお礼をおじちゃんに言った辺りまでは覚えているが、その頃にはもう足が疲れて、 まただんだん眠たくもなってきていたのだ。お兄ちゃんと手を繋いで歩きながらも、 おじちゃんとぽつりぽつりと話をしている二人の声が遠くなったり近くなったりした。 気がついたらいつもの布団の中にいた。 どうしておじちゃんがここにいるのか分からないが、 最初から泊まる予定ならば秀兄ちゃんがそう教えてくれたはずだ。 それともお民を喜ばせようとして、泊まることを黙っていたんだろうか。だとしたらお兄ちゃんの作戦は大成功だ。 (もうしばらく寝かせてやろうな)という声なき声が伝わって、お兄ちゃんの体越しに二人でこっそり微笑みあったとき、 昨夜の夢のような時間がまだ続いていることに、お民の胸は幸せで満たされた。 もう一度お兄ちゃんの顔を覗いてみる。 一緒の布団に寝ている時、ちょっと身動きしただけでもすぐ目を覚ましていたのに、今朝に限ってはまったく起きる様子がない。 お民が今まで見たことないほど熟睡しているらしい。薄く開いた唇から、くうくうと無防備な寝息まで立てていた。 本当に気持ちよさそうな力の抜けた寝顔は、起きて動いている時よりもずっと子どもっぽく見える。 思わずクスッと笑いそうになったのを慌てて堪えた。 勇次おじちゃんは、くっつけたもう一つの布団から片肘枕をついてその寝顔を眺めている。いつからそうしているんだろう。 薄暗い部屋のなか白っぽく浮かび上がるその貌は、無言で何かを語りかけているようだ。 あるかなしかの微笑みが、誰よりも強くて優しい庇護者のそれと重なった。 眠りの浅いお兄ちゃんが、おじちゃんがいるだけでこんなにも深く眠れるだなんて。 やっぱりお伽噺なのか、それとも子守歌なのか。起きたら訊いてみようと思ううち、お民の瞼もまたトロンと重たくなった。 了 (秀、起きたら大変なことに)
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