良 夜
りょうや【良夜】 −良い夜。月の明らかな夜。特に、中秋名月の夜、または九月十三夜。 今夜は中秋の名月。 長屋で隣同士の加代と順之介は、連れだって隅田川の下流の土手まで月を眺めにやって来ていた。 「まあ、きれいなお月さん……。お月さんにはウサギが住んでるって、ホントかしら。ねぇ、順之介」 「さあ…。それ、おばさんが子どもの頃のむかしの話ですか?」 「ちょっ、あたしをいくつだと思ってんのよ!昔ばなしじゃないっての、れっきとした月伝説!ウサギがあの中で餅つきしてるって、 親に教えられなかった?」 「両親には、この目で確かめられないものを安易に信じてはいけないって教えられてきたので」 「かーっ、これだから医者ってのは……。あんたさぁ、今からそんなシラケたものの見方してたら、ろくな大人になんないわよ? こういうのはホントはどうなのか分かんないからいいんじゃないか」 「へぇ、おばさんがそんな風流なこと言うなんて意外だなぁ」 「あんたさ、どこまであたしをバカにする気?おっかさんに勉強してないってバラすわよっ」 「そんな、待って下さいよ!してないんじゃなくって、裏の仕事が忙しくて…モゴモゴ」 「(バカッ)と、ところでさ、あんたさっきからなに覗き込んでんの?その長い筒みたいなの、何よ?」 「(すみません)あ、これですか?これはね、望遠鏡です」 「ぼ・う・えんきょう???」 「そ、まだ試作ですけど」 「何するものなの?」 「遠くにある対象物をより近くにあるかのように見せるために設計されたものです。 厚さの違う硝子と鏡を組み合わせたものがこの中に入っていて、光が焦点に集められることで、対象物が拡大されて見えるんです。 おばさんにも分かるように平たく言えば、遠眼鏡(とおめがね)ですね」 「なーんだ、先にそれを言いなさいよ。遠眼鏡だったらあたしだって知ってるわ」 「でもそれの精度が格段に上がったものが作れたら、信じられないくらい遠くにあるものもはっきり見えるようになるんですよ。 さっきおばさんの言った、お月さんの中でウサギが餅つきしてるかどうかを確かめられるかもしれません」 「ひぇぇっ!それってすごくない?もし月の中まで見えるぼうえんきょうってヤツを作り上げたら、あんた発明家じゃないのさ!! 一発当てたら大金持ちじゃない!!」 「あはは、おばさん目の色変わりましたよwww だからいまこっちの試行錯誤で忙しくって試験勉強に手が回らないんです」 「医者になるよりもそっちの道に進めばいいんじゃないの、あんた。それちょっとあたしにも見せてよ」 「どうぞ。まだ全然これからですけど、ここから両国橋くらいまでなら何とか見えますよ。 提灯の灯りに焦点を合わせて見てみて下さい」 「えっ、ほんと?どれどれ……。あっホントだ!見える!!」 「ね、遠眼鏡よりだいぶ大きいけどその分よく見えるでしょ?」 「うっわぁこりゃすごいわ…。ひとの顔もだし着物の柄まで見えるわよ!」 橋の上下で月見ににぎわう人々を覗いてはしゃいでいた加代だが、ある瞬間から突然静かになった。 あっちこっちに揺れていた望遠鏡の先もぴたりと動かなくなり、無言で何かを熱心に観察している。 「―――おばさん?急にどうしたんですか?何か気になるものでも見つけたんですか?」 気になってはいるんだろう、望遠鏡を支えていた手の片方を先端に滑らせて、まるで誰かの袖でも掴むような動きをしている。 「いや、いくら近くに見えてるからって、掴めるわけないですよ!もう、何やってんですか!」 いくら訊ねても答えない加代がじれったくなり、業を煮やした順之介は肩を揺すって交代をせがんだ。 「ずるいですよ!そんなに面白いものなら僕にも見せてください、ねぇってば!」 「……」 加代が黙って覗き穴から顔を離す。待ってましたと飛びついた順之介は、わくわくしながら望遠鏡を支えて覗き込んだ。 「なんだろ?まさか松田家のお聖ちゃんがいるとか…」 深窓の令嬢だから、なかなか町で見かける機会もない。今夜はお付きと護衛を連れて良く見える橋の上までそぞろ出てきたのかもしれない。 華やかに着飾った美少女の姿を思い浮かべる若者の瞳に、とある人物が映りこんだ。 「あれ?秀さん?」 提灯の灯りの元浮かび上がった蓬髪頭の男は、順之介もよく知った顔だった。 裏の仕事仲間としても先輩としても一目置いている手練れの錺職人だが、いまはお民という女の子を引き取って一緒に暮らしている。 裏と表の仕事の両立はもちろんのこと、周囲にバレないように生きることそのものが難しいというのに、 秀は身近に自らを破滅させるかも知れない存在を置いて、しかもその少女を小さな宝物のように大事にしている。 どういう事情があるのかは情報屋の加代さえ知らないらしい。 お民は昼間、手習いをしに順之介の元に毎日通ってくる。もちろん秀が行き帰りに同行するが、 今夜のお月見に一緒に行かないかと加代が声をかけた時、「いや、いい」とすげなく断っていた。 「なんでよ?用事でもあんの?」 加代がつまらなさそうに畳みかけると、秀はそれには答えず、あさっての方向を見ながらいつものごとくぶっきらぼうに答えたのだ。 「月ならうちの小屋からでもよく見えるしな…」 仕事も残ってるし、などと聞かれていない言い訳までして、秀はお民の手を引いてそそくさと帰っていった。 お民も信頼する庇護者の決めたことには素直に従うつもりらしく、秀を見上げてけなげにも答えた。 「うん、楽しみだね。お兄ちゃん」 そのふたりがいま、月見客の行き交う橋のうえで空を眺めている。 お民にいたっては大はしゃぎで、秀に肩車してもらいさらに高くなった位置から、月を掴もうと空に手を伸ばす。 お民が何か下から言われたのだろうか、秀の隣を見下ろして弾けるような笑い顔になった。 横を見た秀もまた、ちょっと照れくさい笑みを浮かべて何か答えている。子どもを前にした時以外で、あの秀さんのこんな穏やかな顔を初めて見た。 いったい誰と一緒にいるんだろう。 「―――え??ゆ、ゆ…ゆーじさん……!?」 意外すぎて、思わず前のめりになりかけた。 秀と双璧をなす凄腕の仕事人は、仲間内でもじつは順之介がひそかに男として憧れている人物だった。 美少年と言われてもてはやされることも多々ある順之介だが、美貌だが男の色気が漂い、 沢山の女性たちと恋を楽しむが誰のものにもならないという一線を引いた勇次の背中を見て、 いつかああなりたいと思う大人の男である。 その三味線屋の色男が、なんと秀とお民の隣にいて笑っているのだ。 しかも、仲間内で会ったときには一度たりとも見せたことのないような表情で、白い歯まで見せている…。 談合の際、秀と勇次はいつもそれぞれが離れた場所にいて、互いに目や言葉を交わすこともほとんどなく、 会話にしても必要最低限のものに限られていたというのに。 仕事の息は合っているし認め合っているからこそ、自分が仲間に入る以前から組んで仕事が続けられたのだろうとは思っていた。 だが、下手な言いわけまでして、こっそりと秀がお民と三人だけで月見をしようとかねて勇次と約束していたとすれば……。 この先輩方はいったいどういう信頼関係にあるんだろう……?耳年増のわりに初心な童貞の順之介の胸にさえ、 不可解なモヤモヤが湧き上がってくる。その甘酸っぱい疑問は、お聖ちゃんを想うときの切なさにほんの少し似ていた。 「…ねぇ、おばさん」 「…なによ」 「こうして見ると、勇次さんと秀さんって……かっこいいですね」 「―――あんた。そんなことも今まで知らなかったの?」 「知ってますよ、っていうか知ってるつもりだったけど。一緒にいると何というか……」 「そうよ。お似合いでしょ。悔しいけど見てるだけでかっこいいの、あいつら」 望遠鏡を降ろして順之介は加代を見た。明るい月の光は、静かに照らし出すすべてのものの輪郭をやわらかくする。 腕組みをして紅い唇を突き出している横顔はちょっと寂しそうだ。拗ねているところが、口には出さないが可愛いなと思った。 了
おまけ
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