翌朝早く、朝もやの中を長屋に戻ってきた秀は、井戸端にしゃがみ込む後ろ姿を目にしてピタッと草履の足をとめた。 かすかに眉をしかめる。よりによっていま一番顔を合わせたくない相手に出くわしてしまった。 気づかれぬうち、そっと踵を返して逃げ出そうとしたが、 「あれっ!どこ行くのさ秀さん?」 完全に冷やかす気満々の加代の大声に、背中を縫いとめられたように動けなくなった。 「お、は、よ。なぁに?朝帰り……?」 朝っぱらからすでにばっちりと濃い化粧を施した加代の紅い口元が、ニンマリと大きな弧を描いている。 絞りかけの洗濯物を持ったまま前に回り込まれ、秀は反射的に加代から身を引いた。 勇次の肌の匂いが濡らした手ぬぐいで拭いても、まだ身体から消えない気がする。 「そ…そんなんじゃねえよ、バカ」 「まぁたまたぁ、隠さなくたっていいってば。この加代さんもね、相手がどこの誰かなんて探るような野暮はしないよ」 当然だと秀は内心毒付く。そんな事にでもなればいよいよ、勇次と逢うわけにはいかなくなる。 訪ねてくる勇次につれなく振る舞うたび、いつかふいと愛想を尽かされるのではないかと不安に駆られながら、 今はまだ体を重ねられることだけがせめてもの救いだというのに。 「けどさ、いくらなんでも二股かけるのは…良くないんじゃないの?」 上目遣いで謎の言葉をかけられ、秀はあからさまにムッとした。 「…おぃ。なんだよさっきから相手がどうとか二股とか…。わけ分かんねえこと言ってんじゃねえ」 どうやら本気で腹を立てたらしい秀の押し殺したような声音に、加代がやや怯んだ。しかしながらそこは長い付き合いの間柄。 基本的に秀が、悪気のない相手をそう邪険に扱えない性格であることくらい、とっくに見抜かれている。 「なにさ!あたしだってわけなくそんなこと言ってんじゃないんだ。あんたが戻る前から、女がずっとあんたんちの前で待ってたんだよ」 「おんな…?」 大きな瞳で睨み上げられた秀はつい戸惑った声で訊き返し、目を宙にさまよわせた。 こんな早朝、自分を訪ねてくるような女などまるで心当たりがない。 「女ってどんな感じのだよ?」 「どんなだって?ほら、痩せてすらっと背が高くて髪を玉結びにした…」 「は?…たま…?」 あまりに覚えがなくて正直に首を捻った秀の様子を見て、さすがに加代が呆れ顔になって吹き出した。 「ったくこれだからねえ秀さんは。あんな色年増といつのまに…と思ったけど、知らないうちに岡惚れされちゃったわけか」 「……」 「あーあ。愛想無しがモテるだなんて、美形は得だねぇ。ありゃぜったいまた通ってくるさね」 加代から冷やかし半分持ち上げられても、有難くもなんともない。自分には、誰から想いをかけられてもそれを受ける資格などないのだ。 「…知らねえもんは知らねえんだよ」 ぼそりと言い捨てるとサッと身を翻し、自分の部屋に戻ってゆく。逃げるような背中をすっかりシラけた顔して見送った加代は、 たすき掛けした肩を軽くすくませた。 「…フン。あんだけ思いつめた顔して帰って来といて…、なぁにが知らねえ、だよ」 イーーッと歯をむき出しにして投げつけた加代の一言は、ピシャリと音を立てて閉じられた障子戸に阻まれて、 幸いにも秀の耳には届かなかった。 加代の詮索は回避したものの、見知らぬ女が訪ねてきたという話には釈然としないものが残っていた。 簪をつくって欲しいと直接頼みに来る女も、いるにはいる。しかし秀の記憶しているなかで、 こんな時間に長屋を訪ねてきそうな非常識な客の顔は浮かばなかった。 髪を結い上げず玉結びにしているというあたり、食うために必死で働く苦労の要らない人気芸者か金持ちの妾が、 どこかで噂を聞いて来たという想像も出来る。しかしそういった女たちは、主に夜を活動の中心として生活している。 職人を叩き起こすほどの早起きをしてまで、みずから簪を頼みに来るだろうか。 (さっぱりわからねぇ。……まさか…?) 裏の仕事いう不意に浮かんだ思いつきに、我知らずギクリとした。仮にわざわざ人目の少ない時間を選んだとすれば、 女の用というのはそっちの筋しか考えられない。秀は甕の水を立て続けに渇いた喉に流し込みつつ、自分に言い聞かせた。 (仕方ねぇ。どうしてもって頼みなら…そのうちまた必ず会いに来るはずだ) それでも秀は何かに苛立ったようにハァ…と深く息を吐くなり、思わず柄杓を甕の縁に叩きつけていた。 パキリと音がして、柄にヒビが入る。二つに折れて土間に転がるそれには見向きもせず、草履を脱ぎ捨てて板間に上がった。 そのまま奥の狭い畳の部屋に直行し、敷きっぱなしの薄布団のうえにどさりと倒れ込む。 「………」 伏せたまま、しばらく秀は動けなかった。肉体的な疲労もさることながら、ずっと張り詰めていた気力の糸が、 ひとりになってついに切れてしまったのだ。 寝不足の重い瞼を閉じれば、昨夜の勇次の物言いたげなまなざしが蘇る。無言のまま目のなかを覗きこまれると、 自分のいやらしい欲望も手前勝手な望みもすべて、青みがかった黒い瞳に見透かされているようだった。 (…もし、女が訪ねてきたら…。話を聞く前に追い返す…) そう、仕事人は何も自分たちだけではない。広い江戸の町には華やぎの蔭になって見えないだけで、 世間の澱みに潜む裏稼業の者どもは闇の淵にひしめき合って、己の出番を待ちかまえているのだから。 (加代には勝手に勘違いさせてりゃいい。女は…。女にはシラを切り通して…) 「………っ」 (違う…。つとめがやれねぇわけじゃねぇ。俺はただ………!) 不意に何かを思い出した途端、無意識に足の爪先が布団を掻き毟っていた。突っ伏した秀の耳に、八丁堀の下衆な一言がよみがえる。 温い肌を寄せあう心地よさについウトウトしかけていた。耳許を笑いを含んだ低い声が掠める。 「…まだ寝るなよ、秀…」 「………ん…」 投げ出した腕を辿るように裸の腕が重なり、力の抜けた秀の手を長い指がやんわりとなぞる。 つぶれそうな瞼をむりに押し上げると、鬢の乱れを幾筋か白い頬に纏いつかせた勇次が、肘枕をついて優しく見下ろしていた。 ただそれだけのことで、秀の心はあらたな熱を帯びて震える。両腕をまわしてこの首に縋りたくなる。 ずっとこのままでいたいと口走りそうになる。 愛しむように抱かれ、幼な子がすべてをゆだねる安楽さで眠りに落ちる。こんなに深く眠れた記憶はない。 己の身を守るために身につけたつねに浅い眠りのなかで、愉しさとは無縁の夢ばかり見てきた。 「…勇次」 「ん?」 「おめえはいつ…寝てるんだ…?」 自分が目を開けた時、勇次が寝ていたところをまだ見たことがないと秀はふと思った。 「心配するな。ちゃんと寝てるよ」 「…心配なんかしてねぇよ」 勇次がフッと笑って絡めた指に力を込めた。秀のうえに半身乗り上げてくる。 「おい勇次…」 「それじゃ今日はおめえに寝かしつけて貰うかな」 くっきりと浮いた鎖骨の窪みに顔を寄せながら囁いた。感じやすいそこを軽く吸われて秀の背筋がピクリとしなう。 気づかれぬ程に小さな吐息を漏らしたただけで、黙って勇次の好きにさせた。 秀は本当の人肌の慕わしさを、身も心も解けて混ざりあう深い悦びを知ってしまった。 一時的に懇ろになった女や商売女とのこれまでの交わりが、 生理的な…それもごく小さな…満足に過ぎなかったと、繰り返し思い知らされる。 押し流されるなと内心で己を咎めながらも、勇次によって恥ずかしいほどに乱され満たされて、 秀は自分の中の怖いくらいの変化を刻々感じずにいられなかった。 「…あの色男は見た目通りの床上手みてぇだなァ。突っ込まれて牝になっちまったか?秀…」 休憩を装い裏の仕事のつなぎを取るため長屋を訪れた男は、過たずそんな秀の現状を見抜いたらしい。 世間向きに見せている昼行燈の仮面を剥ぎ落とし、舐めるような視線を秀に当てるとひと言言い放った。 にやにやと嘲笑う男を目をあげて見据えた秀が、次の瞬間には作業机の上の鑿を掴み取り無言で襲いかかる。 首の皮一枚でかわした八丁堀の羽織りの袖を、鋭い切っ先が切り裂いた。 チキと刀の鯉口を切る音がしたが、抜くと見せかけておいて、懐手にした右手にいつの間にか握られていた十手を、 八丁堀は肉迫する秀のわき腹に容赦なく叩き込んでいた。重い衝撃と同時に骨が砕けたかと思うような激痛が秀の全身を貫いた。 一瞬息がとまり目の前が昏くなる。声もなく秀は土間に膝から倒れこんだ。 「………ぁ…っ、っ……ぐ…」 くの字に折れた体が海老のようにのたくるのを、八丁堀は草履の足で無造作に仰向けにした。 「…おい」 十手の冷たい感触が顎にかかるのを感じる。苦痛に喘ぎ、浅い呼吸しか出来ない秀がそれでもうっすらと目を開けると、 しゃがみ込む男の黒い影が自分の真上に落ちていた。 「こんなことならあン時…、…おめえが死なせちまったなんとかいうダチと一緒にてめえも殺っとくんだったぜ。 勇次の野郎がよけいな邪魔立てをしてなきゃ…今ごろてめえもラクになれてたってのになぁ」 「……」 「…おめえが次に考えそうな事はわかってるぜ、秀よ。惚れた相手に危ねぇ橋を渡らせたくねぇ…ってんだろうが」 八丁堀は的確に秀の急所をえぐり出す。秀の目が泳ぎかけるのを十手で無理に顎を上げさせ、半眼開いた昏い視線に捉えた。 「失くすのが怖ぇなら端(はな)から惚れるんじゃねえ。どっこいそんな腰抜けじゃあ、 奴よりもいずれてめえのほうが先に殺られるぜ。…仕事甘く見んな」 「…み…見てねぇよ。なんなら今からでも殺ってやる、…真っ先にてめぇをな」 間近に見交わす二本差しの目の底が剣呑な光を帯びる。 「わからねぇガキだ。…いいか、仕事を続けるつもりなら、体だけだと割り切れ。実(じつ)を 捧げて痛ぇ目をみるのはなにも女郎の不幸ばかりじゃねぇぞ。 オレ見ろ。かかあとばばあがアレだから続けられんだ」 「……あいつのことで…、あんたの指図は受けねぇ」 強情な秀に舌打ちした八丁堀が、十手で頬を張った。食い縛る秀の口内に苦い錆の味が広がる。 「おう…よく覚えとけ…。こっちはおめえらにいま抜けられちゃ困る…。野郎どうしでサカり合うのは構わんが、 惚れた腫れたでおめえを勇次にくれてやるわけにゃいかねンだよ」 ようやく苦痛の落ち着いた秀は、八丁堀を睨み上げながらのろのろと口を開いた。 「くそったれ…。うるせぇな…。心配いらねぇよ八丁堀。…あいつにつとめを抜けようって気はさらさらねぇからな」 その言葉の端々に、ふいと逸らした横顔に秀の苦渋が滲んでいた。 いつも仕事人を続けるか否かで揺れていた秀は、勇次との関係が深まるにつれ、ますます裏稼業から身を引きたくなっていた。 身も心もゆだねられる腕の中の安楽さを知ってしまうと、今日死ぬか明日殺られるかと思いながら、 常に己を追いつめて生きる日常が苦痛になる。 なによりも、仕事を続ける以上、自分だけに許されたあの場所をいつ不意打ちに失くすか知れないと思うことが、 自分の死よりもたまらなく怖かった。 とはいえ、勇次に向かって仕事を抜けようとは到底言い出せぬことだった。少なくとも勇次はおりくが仕事を続ける限りは、 仕事人をやめることなど念頭にもないだろう。 そもそも勇次は己ひとりの安全や幸福のために、危険な悪路を見限り平易な道を選ぶような人間ではない。 誰かが晴らしてやらねば浮かばれない恨み辛み無念を引き受けることを、勇次は自分の役目と心得、 思考とは別ものと割り切っているようだ。己の幸せと仕事を天秤に掛けては、失う恐怖から身を遠ざけようとする秀とは違う。 八丁堀に指摘されるまでもなく、結局自分は仕事人としても中途半端で、自身のことしか考えていない卑怯な人間なのだと、 秀は手前勝手な願望を抱く己の浅ましさに苦しむ。…勇次をこの闇の世界から引き離したい。 そして他人の不幸などに一切耳をかさず、ただ自分ひとりを見ていて欲しい。 「……バカが。なに泣いてやがる。こうなるこたぁ端からわかりきったこったろうが」 こんな煩悩があることを知らなかった。こんなにもおぞましい嵐が、己の胸裡に吹き荒れる日が来るとは思ってもみなかった。 「失くせねぇもんが出来るとそれが命取りになる。…秀、おめえは人一倍そのへんが脆いからな。悪ぃことは言わねえ。 あいつにどう優しく抱かれても…惚れ抜いたりするなよ」 「……。…」 十手を帯の後ろに収めて立ち上がった八丁堀は、声なく涙の一筋さえも流さず泣いている秀の横顔を、しばし無言で見下ろしていたが、 やがてぼそりと言った。 「……オレが一度もおめえを抱いてやらなかった理由(わけ)もこれで分かんだろ」 ビクッと身じろぎした秀が顔を上げたときは、男はすでに背を向けていた。 続
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