勇次、悋気を起こす 3









「あーあ。近頃パッとしないねぇ」
 客の引きと入れ替わるように三味線屋に立ち寄った加代が、やれやれ疲れたとボヤきながら上がりかまちにどさりと臀を乗せた。
「…なんだ?おめえここんとこ、煮売屋がけっこう真面目に続いてたじゃねえか」
 勇次は道具を仕舞いつつ、手ぬぐいで着物の埃を払っている加代に声をかける。 相手しなくとも自分ひとりで勝手に喋って気が済めば帰ってゆく手軽なやつだから、普段は勇次もたいがい放っておく。 聞えよがしのため息をちょいと構ってやる気になったのは、そろそろまた長屋へ出向こうかと思い始めていたからだった。
 あれから10日あまり過ぎたが、秀からは何の音沙汰もない。端から期待はしていないものの、 訪ねる前からあの気の進まない様子を思い出して、さすがに勇次も出足が鈍っていた。 少々あざといが、加代の相手になればこの喧しい口からでも、何かしら隣人の様子が聞けるかも知れない。
「あ、そっちはね。そうよ、頑張ってんの」
 こっちの下心など知らない加代はことも無げに頷くと、手ぬぐいを懐にしまって真顔で勇次の方に向き直った。
「けどさ〜。どんなに汗水たらして1日働いたって、大したおあしは稼げないってこと。あたし今回つくづく感じちゃったのよね〜」
「おい加代…」
「ねえ勇さん、やっぱりおつとめも定期的にやらなくちゃ、実入りも刺激も足りないわよねぇ?」
 ケロリとした顔でそんな本音を軽く言い切ってしまう加代を、勇次は呆れて鋭く制する。
「壁に耳ありだ。滅多なこと口走るんじゃねえ」
「ふん。だって最近パッとしなくてつまんないんだもん」
 欲望に正直な、面白いやつだとは思った。裏の仕事をほぼ完全に金のためと言い切れる。 この割り切り方はひょっとすると八丁堀以上かもしれない。こんなに開けっぴろげな陽性の気質を持った女が殺しの一味などと、 まっとうな世間では誰も想像するまい。加代を女だと思ったことは一度もないが、 それは多分、女としての魅力がないのではなく、加代自身が女を意識していないからだろう。
「ま。そりゃパッとしなくて残念だが。依頼が来ねえことにはどうにもならねぇさ」
「そんな悠長なこと言えるのはね、勇さんが手に職持ってて食いっぱぐれの心配がないからさ」
「ハッ、乙に搦みやがるぜ。だったら今からでも、秀に弟子入りしちゃどうだい」
 歌舞音曲にはまるで素質のない加代をからかって勇次が軽くいなすと、むすっと一瞬口を尖らせこっちを睨んだ加代が、
「だれがあんな。………あ」
 そこで 何事か思い出したように言葉を止めると、大きな瞳をくるっと天井に向けた。 好奇心を抑えきれないといった顔で身を乗り出してくる。まさか、と勇次は咄嗟に身構えた。
「そうだ秀さんと云やね!あの唐変木がさぁ…、なんだか近ごろ乙なことになってんだわ」


 加代が帰ったのち。
 春とはいえ花冷えする夜にはまだ火鉢の温もりが恋しくなる。しかし勇次は湯呑みに注いだ冷や酒を一息に呷った。 最近気に入っている播磨上がりの酒だが、今夜はみょうに辛さだけが上滑りする。
(おかしなもんだ)
 勇次はあらたに湯呑みを満たしつつ自嘲する。加代が何を嗅ぎつけたかと一瞬肝を冷やしたことがまるでお笑いぐさだ。
(あれほど解りやすい態度を見せていたってのに…)
 一度も秀の心変わりを疑いはしなかった。ましてや他の誰かの存在など、自分たちの間に他人が介入するという想像すら抱いていなかった。
 秀のもとを幾たびか訪れる女がいると、加代の口から聞くまでは。いかに自分が平素の洞察を欠いていたかを示すものであり、 勇次自身を愕然とさせた。
 秀が何らかの葛藤に迷い苦しんでいることは、勇次にも伝わっていた。これまで秀を見てきてわかったのは、 自分の気持ちに蓋をしてひとり抱え込む性格だということだ。ふたりが数奇な出逢いを果たし紆余曲折を経て、 裏の仕事仲間からいまの関係に至ったことを悔いてはいない。
 しかし秀が本当に自分を受け入れられたのか、 心の奥底では疑念を捨てきれていない勇次だった。


「初めてあたしがその女を見た日に、ちょうど朝帰りの秀さんとばったり出くわしたのさ」
 他人(ひと)のウワサは蜜の味と公言してはばからない加代は、こちらから訊き出す必要もなく、 自分の知る限りのことを嬉々として語りだす。
 おろし髪を玉結びにした背の高い美女で、刺繍で菊と桜を丸く描いた臙脂色の小袖を着、 木瓜の花の意匠の帯は渋い緑で役者ふうの吉弥結びにしていたと聞けば、 歳のころなど訊かずとも花柳界でかなり鳴らした女振りであることは想像がついた。
「しかし…今どき上方風の豪勢とは…。ちっとばかり古風な好みの女だな」
 押しかけた見ず知らずの女に対する悋気ではないと腹の中で云い訳しつつ、勇次がふと頭に浮かんだことを口にすると、
「だよねー。まるでアレじゃないか。えーと、ほら……あの」
「まるで元禄の流行りだと云うつもりなんだろ、おめえは」
 将軍家は綱吉公の時代の遺産だ。摺物の贋作でしか見たことがないが、 菱川師宣の美人図を思い浮かべた勇次がにやりとして指摘すると、加代がキャッと手を叩いて指を指す。
「そうそう!それ!それなのよ!あたしもどっかで見たことあるような格好だってずっと考えてたのさ。 さっすが、女ったらしは見立てがするどいね」
「褒めても銭は出ねぇよ」
「褒めてんじゃないわよ、この助平」
 それにしても、この何にでもクチバシを突っ込みたがる加代が、 さんざん出歯亀しておきながら未だに女と直接話をしていないという点を、勇次は不思議に思った。
「…で、おめえともあろう奴がなんだって一度も話しかけずにいるんだい?」
「なワケないでしょ。あたしも二回目見たときには声を掛けてみたのさ」
 即答しながらしかし加代は、どことなくゾッとしない様子で小声になった。
「でもなんだか妙な雰囲気でさ…」
「女が秀のもとに忍んで来るのが、そんなに妙かえ?」
 意識せず声に皮肉な調子が混ざったのは、いつ訪ねても身構えるようなきつい眼差しを向ける 秀の姿を脳裏に思い浮かべたからだった。秀がいかな愛想なしでも、興味を抱いて近づく女がいないはずがない。 むしろ遊び慣れた男に飽いた手練れほど、ああいう不器用そうなのに目を付け、自分好みに可愛がりたがるものだ。
「ううん、そーいう意味じゃなくて…。派手な身なりのわりに物静かでさ、戸口の前に突っ立ったまんま、 訪いも入れないのよ。何ていうか、なかの様子を伺ってる感じでさ、あたしが話しかけても返事もしやしない」
「様子…?」
 一度見たときも、女はただ戸口の前に佇んでいただけで、いつの間にか姿を消していた。 ここの住人に用があるのかと野暮な問いかけをされた女は、加代に艶然と微笑みかえしその時も立ち去ったという。
「それから後はあたしは一度も会ってないけど、ご近所さんじゃその女がなかに入ってくのを見たって噂で持ちきりなんだよ」
 独り者の若い男の家に役者風情の色っぽい女が通いはじめた。 華やぎのない長屋暮らしの女房たちの耳目を集めるのは当然のことだ。 ただし当の秀だけは、家を出たところを通りすがりに冷やかされても、 怪訝な、そして当惑した顔して無言で立ち去るばかりで、女については今のところ誰にもシッポを掴ませないらしい。
「……。あいつは隠し事が案外上手ぇからな…」
 顔を背けて勇次が独りごちると、耳ざとく聞きつけた加代がそのとおりだと、ちょっと寂しく笑って言った。
「水臭いんだよね、秀さん。結構付き合い長いあたしにも、自分のことなんか全然話したりしないしさ」



 酒で気を紛らしながら、去り際の加代の言葉を思い返していた。
 加代の知り得ない秀を、自分は知っている。だがそれすらも勿論すべてではない。どんなに深く身を繋げ睦言を交わそうとも、 秀は手負いの獣のような孤独をその身に棲まわせていた。秀から感じるどことない儚さも、 おそらくはその誰にも触れさせない核の部分から醸し出されているのだろう。
(あの危うさに惹かれて集まってくるのは、オレだけじゃねぇってことか…)
 いつの間に女を家に入れるようになったのだろう。勇次の視線を避け、逢瀬を重ねながらもどこかよそよそしい壁を作ろうと していたのは、そのせいだったのだ。
 こんなことなら最初からもっとがんじがらめに絡め取っておけばよかった。 一度は自分の想いを認め勇次の想いをも受け入れたとはいえ、秀はその先に踏み出すこと、勇次を自分の方から求めてゆくことをずっと ためらい続けているようだった。迷う秀の心をその揺らぐまなざしに読み取りながら、あえてそのままにしておいたのは、あくまで 秀自身の意思で心を開いて欲しいと望んだからだ。
 勇次が江戸を出るつもりでいたとき、こじれたまま別れてしまう ことを秀は好しとせず、自ら勇次に会いに来た。丹精込めて手掛けた簪を渡すために。しかしそれはあくまでも口実で、 本当は自分の想いを勇次に伝えたいがための、秀にとっては相当な勇気のいる行動だったはずだ。

『勇次。いつもおめぇにばかり言わせてきたが、俺は・・・。俺も、おめぇに・・・』
『お・・俺は・・・。あんときのアレがおめぇとの、さ・・・最後の逢瀬になるのは・・・いやなんだ』

 そのときの秀が掠れるような声で必死に絞り出した告白を、嘘だとは思っていない。
 秀は裏の仕事で昔馴染みの友を死なせた。 そのときの成り行きによって、勇次は己の死を望んだ秀を殺す代わりに男として犯し、身も心も辱めた。 本当ならばそこでふたりの関わりは切れても おかしくはなかったのだ。しかし、そうなってしまうにはすでに勇次と秀のあいだには、ただの仕事人という一蓮托生の 仲間という枠をはみ出して、もっと深く熱い絆のようなものが生まれていたのだった。
 勇次は母おりくの機転を利かせた行動にも背中を 押され、現にこうして江戸にとどまっている。秀の元をいささかきまり悪い思いで訪ねたときのことは今でも忘れていない。 昼間に幽霊でも見たみてぇだなと苦笑してからかうまで、身じろぎもせず勇次を見つめていた、秀のあの表情も。
 女がどんなふうに秀をかき口説き、胸にしなだれかかるのか。秀がどんな態度でそれに応えているのか。勇次に抱かれるときに見せる 恍惚の表情を、情事のさなかに女にも見せるのだろうか。思うだけで、焦げ臭い苛立ちが胸裡に広がり埋め尽くす。
(許さねぇ)
 どす黒い感情が鎌首をもたげているのを勇次は自覚した。そのわずかな迷いの隙が間違いだった。これまで経てきた色恋と同じように 手加減などせず、与えるだけ与えて早々に身も心も溺れさせていればよかったのだ。秀にはすでに逃げ場が出来てしまった。 いまこちらから身を引けば、おそらく追うことはしないだろう。
「……」
 ちろちろと蛇の舌のような焔を吐き出す己の情念を、勇次は独り座す暗い部屋のなかでジッと見据えていた。



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