勇次、悋気を起こす










 勇次はうららかな春の陽射しのもと、柔らかく生えそろった土手の草むらに腰を下ろしていた。
 こぼれ種で増えたらしい菜の花の黄色い帯が続く道端に、 斜めに土手に向かって張り出している三分咲きの桜が春の華やぎを添える。雲雀が飛びながら啼き交わす声がしきりに聴こえていた。
 緩やかな風が一筋の鬢の毛を揺らす。そんなのどかな景色のなかに、勇次は例の涼しい目元にどこか物憂い翳りを落として 黙然と座っているのである。 一服しながら向ける視線の先に、小石だらけの川べりでひとり石飛ばしに興じる秀の姿があった。



 かざり職と書かれた木切れが軒下に揺れる、秀の住まう裏長屋を、勇次は十日に一度くらいの間を空けて訪れるようになっていた。
 儲け話を持ち込んできたのかと嗅ぎつけては押しかける、なんでも屋の加代の目ざとい監視の隙をつくのは初めの方こそ往生したが、 今では慣れたものだ。最近は知り合いの煮売屋を手伝っているとかで、日暮れまで戻らないらしい。 それで勇次も張り替えの仕事が一段落したとき、気楽に長屋を訪ねることができる。
「居るかい」
 勇次がそっと一声かけて障子戸を引くと、秀は臆病な猫のようにピクリと肩を波打たせて振り返る。
 集中力を要する細工仕事なだけに、中断されたことがあからさまに不満そうに眉間にしわを寄せるのだが、何の用だとはさすがにもう言わない。 その代わり、上がり框に腰を下ろす勇次に背を向けて、ふたたび無言で作業机の上に屈み込む。 勇次は苦笑しておもむろに煙草入れを取り出すのだった。
 一服を時間をかけて吸い終わるころ、くしゃりと前髪を掻き上げ顔を上げた秀が、やっと勇次のほうを見やって言った。
「先に出ろよ」
 勇次を追い出した後、やや間をおいて秀も家を出る。勇次は路地を抜けてすでに通りを歩いている。 二人がようやく肩を並べて歩き出すのは、一町も過ぎたあたりからだった。
 今までなら、女を誘うのに何の造作も無かった。人目をはばかる密会の場合でも付け文の一つも寄越せばそれで事足りた。 勇さん恋しとあからさまな媚態をたたえて出迎える女たちの他愛なさが、これまでの勇次にとっての愉しみであり癒やしであった。
 一方、秀のこの「訪ねて来られたから仕方なく出てきた」と言わんばかりの慎重で律儀な応対には、おおかた想像していたとはいえ、 毎回かなり興ざめさせられる。ふたりがなさぬ仲になってかれこれ幾月かは経つのだが、 情の籠った目の見交わしも気の利いた会話の戯れ合いも相変わらず、ない。 それどころか近頃では、どこか勇次の視線を避けている気配さえある。 離れてついてくる姿は尾行のそれと大差がなく、いまもきっと秀がむっつりとした表情で腕組みをして歩いている様子が、見なくとも 分かるようだ。
 勇次は懐から出した手で顎のあたりを撫でつつ、腹のなかで自分に言い聞かせている。
(ま…。色々難しく考えるやつだから仕方ねぇか…。可愛げがねぇのもこいつの可愛いところさ)
 やがて黙って横に並んだ秀と、肩が軽く触れ合った。



 支流の土手をブラブラ歩いていく頃には秀もいくらかくつろいだ表情になり、時折なんでもない会話を交わしながら、 川面のきらめきや野花の一群れに目をとめている。
 ひと気のない静かな川原に着くと、勇次に声をかけることもなくいきなり土手を斜めに駆け下りていった。 何をはじめる気かと勇次が呆れているうちに、川原の石を拾い上げて軽く右肩を引くと、滑らかな動作で石を投げ始める。
 綺麗な等間隔の弧を描いて、石が水の上すれすれを走る。秀が自然の中で過ごすのが好きらしいと知ったのは、 こうして二人で出かけるようになってからだ。結うこともしないクセのある黒髪を風になぶらせて、 飽かず石投げに興じる伸びやかな姿は、たしかに市中にいるよりもこうした風景のなかにある方が似合っている。 無造作に続けざま放った石が、先の石のあとを正確に追うように走った。
「うまいもんだ。相当年季が入ってるな」
 持ち上げてやると、まんざらでもない顔でちらっと振り向いた秀が、
「ガキの頃よく川原で過ごしてたからかな」
 石を手の中で弄びながら何気なく口にした。一切語ることのない過去がほんのわずか垣間見えるのは、こういう無意識の言動からだった。
 勇次には秀のように川辺で遊んだという記憶はほとんどない。おりくと旅を始めた5、6才の時分にも勇次自身、 石飛ばしなどに関心を持たない大人びた子供だったというせいもある。
 無心に石を投げる秀の様子を見ていると、親の顔も知らない天涯孤独の身の上だと言った八丁堀の言葉がふと頭に浮かんだ。 決まった住まいを持たない子供時代の秀は、ひょっとすると行き場に窮するたび、こんなふうにひとり川辺で時を過ごしていたのではないか。
 身寄りのない子どもなど、この世には大勢いる。が、その大半が様々な理由で大人になる前に野垂れ死にするさだめだ。 秀が苛酷なその時代をどうやって生き延び、たんに年期を重ねただけでは達し得ない域の簪造りの技を若くして身につけ、 挙げ句八丁堀のような剣呑な男と組んで、お江戸のダニ掃除なぞ請け負うまでに至ったのか。
 何か尋ねてしまえば秀が身を引くような気がして、勇次はいまだ何も訊かずにいる。 唯一その八丁堀が多少なりと秀の過去を知っていそうだが、なぜかあの男にだけは話を聞いてみる気にはなれなかった。
「秀。そろそろ行こうぜ」
 放っておけばいつまでたっても戻って来そうにない背中に、いいかげん業を煮やして声をかけると、 秀が返事のつもりか洗った手をパンパンと叩いた。
 これから馴染みの小料理屋に行くつもりでいる。そのあとは確かめるまでもなく、ふたりで勇次の家に帰ることになるだろう。 このあいだ会ったときには、軽く呑んだだけで別れた。 さらりと乾いていながら触れるとすぐに熱を帯びるピンと張りつめた肌に、久しぶりに触れたかった。


 土手を上がってきた秀が途中何かに足をとられ、突然前のめりに膝をついた。茂った下草に手をついて、 自分をつまずかせたものの正体を見つけた秀は、一瞬驚いた顔になる。
「何だ?」
 気づいた勇次が問いかけると、いや、と苦笑して立ち上がった時には、一つのされこうべを手にしていた。
「……。野ざらしか…」
「…これっきゃねえ。他の骨はねぇようだ」
 周辺の草むらに目を凝らし呟いた秀は、なぜかそのされこうべを手放そうとしなかった。
「あんまり触るもんじゃねえよ。さっさと捨てちまいな」
 殺しの世界に長く身を置きながら、存外縁起を気にする母おりくの受け売りになるが、 おりくは野ざらしを見つけて近付こうとするとする幼い勇次を制して、厳しく言ったものだった。 あたしらみたいな稼業の者が気安く触れていいものじゃないよと。
 勇次に言われて一度は捨てかけたが、秀は魅入られたかのようにされこうべを目の高さに持ち上げると、 そのぽっかりと開いた眼孔を見つめた。やがて夢から醒めた表情で頭を巡らせ、近くの松の大きな切り株に目を留める。
 そのちょうど腐り落ちてうろのようになった内側に、そっとそれを置いてやる。子どもの頭骨にしては大きく、 男のものにしては小ぶりだった。宿り主がどんな経緯を経て野ざらしになったのかは知るべくもないが、 雨風に晒されることはこれでしばらくないだろう。
「ずいぶん信心深え真似をする」
 ようやく戻って来た秀を皮肉のつもりで揶揄ると、イヤな顔をしてふいと肩をすかされた。
「蹴っちまったから、後味が悪ぃ」
「なるほどね。後から好い女が礼をしたいと訪ねて来るかも知れねえ。どうする秀?」
 からかう勇次にあくまで秀は素っ気なく言うのだった。
「そんときは三味線屋に行ってくれと言ってやるよ」




「ふ…。ゆ‥勇次…っ…おめえ、人が悪りぃ…」
「誰がそうさせてると思ってる…?」
 喉の奥で低く笑って、勇次はあくまでも秀の感じる箇所をわざと外すように、指や唇を這わせてゆく。
「ひとを…おもちゃにするなよ……っ」
 強い刺激を与えることなくゆるゆると性感を煽られ続け、暗がりで勇次を睨みつける目が情慾に濡れ光っている。 もどかしい愛撫に息をきらせて身を捩らせるが、それでいて決して自分からはこうして欲しいと口にしない。 ただ汗ばんだ素肌をときおり勇次に押し付けて小さく首を振るばかりだ。
(ひと言でもなにか言や、ラクにしてやるのに…)
 はじめの頃こそぎこちなく受け入れていた口づけを、秀は声が上がりそうになると求めてくる。塞いでくれと言わんばかりに、 餌を求めるヒナさながら自分から口を開く無自覚の仕草は妙に稚くて、 昼間のつれなさの仕返しに焦らしてやるつもりだった勇次の心をぐらつかせる。
「人が悪いのはおめえの方だぜ…」
 秀が閉じていたまぶたをあげて、切なげに勇次を見上げた。
「…いま…何て…?」
「……。なんでもねぇさ」
 勇次は望みどおり口を塞いでやりながら、性急にふたりの身を繋ぐために動いた。 一度は手に入れたつもりになっていた秀の本心が、なぜか逢瀬を重ねるごとに見えなくなっている。 求めれば応じ、拒絶されることも避けられることもないのに、どこか秀が自分に対して見えない壁を作っているのを、 いまこのときも感じていた。





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