秀、お仕置きされる





 これ以上、ここに居続けるのは危険だった。

「・・・加代。そのひとはおめぇの捜し人だろ。はやく連れて行きな」
 雄太郎を見つめて動かない秀に目を落としたまま、勇次が短く言う。 あとから追いついた加代は、すべてが終わったことを知るとすかさず、 声を殺しながらも身を揉むようにして泣き崩れるゆきのに寄り添っていたのだった。  さぁ、行くよとゆきのを小声で叱責し、抱いていた肩を引き寄せてムリに立ち上がらせる。
「これからあにさんの家に行って、昔の素性が割れるようなものが残ってないか確かめなくちゃ。 さ、泣いたって雄太郎は戻らないよ。あんたもあにさんの命をムダにしたくなかったら、さっさと動くんだ!」
 あくまで現実的な加代の言葉に、ゆきのはハッとして涙に汚れた顔を上げた。 加代の顔を見上げていた表情が見る間に引き締まる。さすがに裏社会の非情が身に沁みて分かる女だった。 最後に一度だけ雄太郎を振り返り、血を吐くように吐息だけで呼びかける。
「あんちゃん・・・・・!」
 ゆきのは固く目を瞑り歯を食い縛ると、うなだれていた頭をあげ背筋を伸ばした。 懐にしまっていた草履を取り出して汚れた足に履き、加代にお願いしますというよう頭を下げる。 秀を気にするよう見返ったが、動かないその背から目を逸らすと、去り際に勇次と八丁堀にも目礼を寄越した。
 いい覚悟だ、とその強い感情を宿したままの瞳を見て勇次は思った。 ふたりの女は連れだって、足早にその場を立ち去った。

「おい、秀」
 死に際の雄太郎の遺言めいた取りなしに、すっかり毒気を抜かれた八丁堀が、 憮然とした声を秀の背中に投げつける。
「仏に口なしだ。―――ったく運のいい野郎だぜ。今回だけだからな!」
 言い捨てると、勇次にわざと怒(いか)らせた肩をぶつけるようにして踵を返した。 すれ違ういっとき、八丁堀がつと足を止める。
「・・・引き摺られるんじゃねえと、あれほど言ったろうが」
 勇次にしか聞こえないほどの重く低い声。
「・・・・・」
「あいつにはそういう危ういところがある・・・」
「・・・・・」
「オレは経験済みだから、おめぇにも言うんだぜ・・・勇次」
 半眼に伏せたままだった勇次の白いまぶたがピクリと震え、すぐそばの八丁堀の底知れぬ目を見返した。
 はじめて視線を合わせた勇次に満足したのか、 ニィといやな嗤いを残すと八丁堀は裾を大股に蹴さばき懐手のまま去っていった。

 秀はガクリと落ちた雄太郎の死に顔を見据えていたが、不意にゆらりと立ち上がった。 すぐ傍にいる勇次もまったく目に入っていない様子で、その場を離れ歩き出す。
 俯いた横顔は乱れた髪に隠され表情は分からない。 しかしおぼつかないその足取りに勇次はふと不安を覚えた。
(秀・・・)
 徐々に強く吹き始めた風に、強い血の匂いは散り散りに薄まっていた。 勇次は孤独な亡骸を一瞥すると何も見なかったような顔で、 少し前をゆくどこかふらふらとした秀の足取りを追った。




 どこに行くつもりかと気になったが、秀はそのまま自分の長屋に戻ってきた。 勇次はひとまずは胸を撫で下ろす。が、秀は家の前に立ったまま、足を止めた。
 最初こそ付かず離れずの距離を保っていたが、つい秀に近づき過ぎる自分に勇次は気づいていた。 迷わず自裁しようとまでしたのだから、何をしでかすか知れたものではない。 万が一おかしな真似をするようなら、阻止できるよう肉薄しておかねばという焦りが胸中に渦巻いていたのだ。
「―――。いつまで付いてくるつもりだよ」
 背を向けたまま低く呟いた秀の声は、まったくの抑揚を欠いている。
「おめぇが家に入るのを見届けるまではな」
 秀は黙って戸障子を開き、勇次もあとに続いた。
 死を決意して出た家のなかは、いっけん何も変わったところはないのに、 どこか空ろで生気が脱けているようだ。秀は土間に突っ立って暗い室内を眺めた。 勇次は半分開けたままの戸口に立って、その背を見つめている。
「これでいいんだろ・・・。もう帰ぇれ」
 長い沈黙のあと、秀が小声で言った。
「ひとりにしてくれ」
「・・・・・秀。今夜のおめぇはひとりにしておけねぇ」
 勇次は後ろ手に、静かに戸障子を閉める。ほとんど闇に包まれた空間に重い沈黙が落ちる。
「勇次。もう俺に構うな」
「そうはいかねぇ」
「・・・何でだよ!」
 押し殺した声に苛立ちが生じる。
「言ったろ。おめぇの命はオレが預からせてもらった」
「だったら・・・!」
 秀がはじめて振り返り、絞り出すような語気を発した。
「さっさと殺してくれ!!」
「・・・・・」
「俺が一瞬でも目を離さずについてれば、雄太郎はあんな死に方をせずにすんだ・・・。 あいつを殺したのは長五郎じゃねぇ、―――この俺だ!」
「・・・雄太郎は最期までおめぇを恨んじゃいなかったぜ。おめぇを死なせるなとオレたちに懇願したじゃねぇか。 いまわの際まで―――」
 秀は激しく首を横に振った。
「ダメだ・・・。それじゃ俺の気が済まねぇ。雄太郎に、ゆきのに、あの世で詫びる以外、 俺に償うすべはねぇ。・・・後生だ、勇次」
 暗闇に秀の腕が伸びて、手探りで勇次の着物の袖に触れた。秀の手は薄手の布越しにそうと分かるほど冷え切っていた。 その冷たく、細いが力の強い指が、末期(まつご)の願いを叶えて欲しいと勇次の腕をきつく掴む。 暗闇のなか底光りする秀の目が、言葉以上の烈しさで勇次に残酷な幇助を求めていた。
「――――」
 しかし勇次は、その秀の腕を逆手に掴むと自分の側に強く引いた。
「!」
 不意打ちで前のめりに倒れ込んだところを、すかさずもう一方の腕が背中に回り秀は強い力でグッと引き寄せられる。 一瞬何が起きたか分からぬうちに視界が反転し、秀の唇がいきなり、固いようなそれでいて柔らかいなにかに覆われた。
「―――!?」
 秀は呆然と目を見開いた。勇次がいま自分に口づけていることは分かっても、その状況がまったく理解出来ない。 同じく驚きに薄く開いたままの唇にお互いの歯がぶつかり、やがて勇次の舌が強引に割り込んできた。
「!んっ」
 ぬめる生々しい感触にハッと我にかえり、勇次との体の隙間に手を入れようともがくが、 すかさず背中から秀の後頭部に回っていた手に、乱れた髪を鷲づかみにされていた。
「―――!―――っ」
(なんで・・・ゆうじ・・・ゆ――)
 髪を痛いほど引かれて顎を上向きにしか出来ないために、舌を噛むことが出来ない。 ただ口内を蹂躙され息苦しさに自分から口を開ければまた、角度を変えて勇次の重たい口づけが重ねられる。
 ついに膝が砕けた秀に勇次がようやく唇を放した。 至近距離で肩で息をつく秀の、怒りよりもむしろ驚きと困惑を隠せない顔を覗き込む。
「どうしてオレにおめぇが殺れる?」
 秀のからだに回った腕の力はそのままに、勇次が低く漏らす。濡れた唇に勇次の熱い息がかかった。
「オレは。おめぇに惚れてるって言ったんだぜ」
「・・・・・」
 その声音に咎めるような切ない響きを聞き取り、秀は思わず勇次から目を逸らした。
 勇次と間近で目を見交わしたのは、あの日以来はじめてだった。 あれから実際には時はそう経っていないにもかかわらず、秀には遠い昔のことのように思える。 まだサンゴ玉の簪も雄太郎も、日常のなかに出てきていなかった。 勇次への密かな想いに心をくすぶらせて彷徨っていた自分といまの自分とでは、 気持ちに大きすぎる隔たりがあった。
「・・・おめぇを信じられねぇと、あのとき言ったはずだ」
 足下の闇に目を落として、秀が今しがたの動揺もどこかへ押しやったかのように淡々と告げる。
「信じる信じねぇはそっちの勝手さ。オレも勝手に・・・おめぇを想うだけだ」
 脇に落ちたままだった両手に力を込めて軽くその体を押し返すと、 勇次も強いることなく秀を解放した。勇次の体を避け、無言で草履を脱ぎ捨てると板間に足をあげる。 手探りで灯りをつけるのを勇次はその場に立って見守った。

「・・・・・それで?」
 ひとしきり続いた静寂(しじま)の沈黙を破ったのは秀だった。 作業机の横に置いた燭台のとぼしい光のなか、やがてこちらを見た口元はなぜか奇妙な嗤いに歪んでいた。
「わかったぜ、勇次。それで俺をどうしたいんだよ?」
「・・・いきなり何を言い出すんだ?」
「ずっと戸口の前で寝ずの番をしてても仕方ねぇだろ」
 揶揄るような物言いに眉を顰めると、秀が裸足で土間に降りてきて甕の水に手をつけた。 立て続けに流し込み、柄杓をようやく投げ出すと、袖で口を拭う仕草をしながらその陰で勇次の目を捉えた。 まるで流し目のような上目遣いが、秀らしくない。
 真意を測りかねて勇次がその目をじっと見返すと、秀が試すように言った。
「殺す気にはならねぇが―――、俺を抱く気には、なるのかい・・・?」
 ふたりの間の空気の層が薄くなる。勇次は無言で秀の挑発的な視線を受け止めた。
「・・・それをおめぇがほんとに望むんならな」
 勇次が低く応じる。秀がフッと嗤って頷いた。
「あぁ・・・そうして貰いてぇな。俺はいま自分にめちゃくちゃ腹が立ってんだ。 てめぇをぶち壊したくって堪らねぇ」
「オレがそんなことはさせねぇ」
 キッと勇次を睨む秀の目付きは、口惜しさをこらえるように険しく細められていた。
「だったら勇次。おめぇが俺を壊せ。ぶっ壊れるまで・・・犯せばいい」

 勇次は哀しい目で秀を見つめた。
「・・・そんな事だろうと思ったぜ。つまらねぇ真似はよせ、秀」
「おめぇは俺に惚れてるんだろ?だったら出来るはずだ」
「秀。オレは正直、おめぇを抱きたいと思ってる・・・。でもな、いまのおめぇは抱けねぇ」
 それは心の通い合いなどではない。秀はただ胸裡に吹き荒れる嵐に身を投じており、 男に犯される敗北感を重ねることで、完膚無きまでに己を打ちのめしたいという破壊願望を満たそうとしているだけだ。
「殺すことも壊すことも出来ねぇだと!?俺にもそれをさせねぇのに、 おめぇはだったら―――何のためにここまでのこのこ付いて来やがった?」
 据わった目つきのまま一歩近づくと、勇次の胸ぐらを掴む。 雄太郎の血を吸ったらしい秀の黒い仕事着から、錆の匂いがまた立ちのぼる。
「おめぇが自分を傷つければ雄太郎が悲しむ。だからだ」
「あいつは死んだんだ。俺がてめぇをどう扱おうが関係ねぇよ」
「・・・・・」
「なんだよ?・・・そんな目で俺を見るな!」
 激昂した秀が不意に殴りかかろうとし、勇次はすんででそれを避けた。
「落ち着け、秀!加代がいないからって他の近所に聞こえちまうぜ」
「―――――」
 秀は肩で荒く息をついて懸命に自分を抑え込もうとしていたが、やがて絞り出すような声で言った。
「・・・帰ぇれ。帰ぇれよ勇次」
「・・・」
「おめぇは結局口先だけだ・・・。命を預かっただの惚れただのと口からはすらすら出てくるが、 たったいっこの救いすら・・・俺に与えようとしねぇ!そんな奴が信じられるか・・・っ」
「秀。オレは」
「やめな!もうおめぇの小理屈なんざ聞きたかねぇ。いますぐここを出て、―――二度と来るんじゃねぇ」
 そう言い置くと秀はあともみずに土間から上がろうとした。その直後。
 肩に後ろからかかった手が、一呼吸おいて強い力で板間に秀を突き飛ばした。 不意をくらって痩せた体が横倒しになる。間髪入れず裾を蹴さばいて板間に上がりこんだ勇次が、 肩膝ついて秀を抑え込んだ。
「・・・・・。分からねぇか?」
「・・・?」
 不自然なきつい体勢のまま、上から覗き込む勇次を見上げる。 燭台の灯りはその背後にあって、表情はよくわからない。ただいつも水を打ったような艶やかな黒い瞳が、 闇色に塗りつぶされている。底の知れない昏さに秀の背筋がスッと冷えた。
「なぜオレにそれが出来ねぇのか・・・。おめぇには、分からねぇんだな」
 のしかかる勇次の体重がさらに加わり、秀の耳朶を勇次の低い囁きが打った。
「おめぇを傷つけたくはなかった――。でもな、当のおめぇがそこまでそれを望むんなら」
「勇」
「オレは冥府の鬼になっておめぇに辛ぇ拷問を与えてやるよ・・・秀」
「・・・っ」
「おめぇがオレを信じなくたって、―――この体にだけは刻み込めるからな」
 秀にというよりも、それは勇次自身に向けられた独白に近い呟きになった。 黒衣の肩口に手をかけ引き下ろしてゆく。下に着た腹掛けまでもむしり取ると、 あらわになった無防備な肩から首、背中にかけて視線を這わせる。 値踏みするような沈黙に、秀の動悸が少しずつ速まってゆく。
「死んでおめぇを失くすより、・・・死ぬまで恨まれるほうがマシだ」
 そして勇次は秀に触れた。




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