後日譚 (こうじつたん) 2









 山里の春は遅い。湧き出る湯の湯気が立ち込める湯治場でも、四方の山々や渓流にはまだまだ雪が残っていた。 晴れた日中には温かくそよぐ風も陽が落ちる頃には冷たく感じられる。
 皆の集まる休息所兼食堂でもある小屋の囲炉裏端に、秀は片膝を抱いて、 開け放した窓から見える空を眺めていた。遠く巣に帰ってゆく鳥の黒い影が見える。
 自分がいたあの山は、雪解けを迎えたいまどんな景色になっているだろうかと、ふとまた思い出していた。 ここに来てからなぜか、折に触れてゆうじのことを考えている。 江戸にいるあいだはもちろん、そんなことを振り返っている余裕などなかったのだから、当然といえばそうなのだが。
「茹でたまごお上がり」
 湯の番をしていた婆さんが、湯気のたつ笊を手に戻って来た。 熱い湧き湯に笊ごと卵をつけておくだけで、ホクホクしたゆで卵が出来上がる。 一汁一菜が基本で魚が捕れたら囲炉裏で焼いてくれる程度のささやかな食事しか出ないこの湯治場では、一番のごちそうだった。 出来立てのそれにみんなが手を出しているのに、秀はなにか心ここにあらずといった様子でつくねんと膝を抱えている。 そんな横顔に勇次がときおり視線をあてていることにも気が付いていなかった。
 あいつのおかげだ。と今になって秀は考える。 あの、鬼のゆうじが例の天眼通とやらの神通力を用いて、勇次の無事をそれとなく教えてくれたから。
『秀。おめぇは自分の思うところを一途に信じて動けばいい』
 そう言って背中を押してくれたから、自分は山を下りたあと迷わずに行動出来たのだ。


 そう、あれから・・・
 秀は行商人に身なりを変え江戸に舞い戻ると、 他国からの旅人の出入りの激しい場末の木賃宿に紛れ込んだ。
 かつて住んでいた長屋を覗いてみるわけにはいかない。 置いてきた道具や家財はとっくに処分されるか売り払われてしまっただろう。 加代の部屋にも自分の部屋にももう新しい店子が入っていることを想像すると、 一抹のわびしさがこみ上げた。 おせっかいで騒々しいが気のいい隣近所とのつき合いもすべて失くしてしまった。 が、この命一つあれば、また最初からはじめられる。
 勇次の店が真っ先に気になったが、仮にそこを見張られていたとしたら危険だ。 ゆうじが言っていた。生きている、と。だから信じることにした。
 市中見回りをするあの風采の上がらない昼行燈の姿を目にしたとき、 ガラにもなく胸が詰まった。ぎりぎりのところから秀を逃がしてくれたのはこの男だ。 懐かしさと安堵のあまり、目深にかぶった笠のしたで思わず声をかけそうになり慌てて呑み込んだ。
 だが、見た目の変わらなさとは裏腹に、その頃すでに八丁堀は窮地に追い込まれていたのだ。 夕闇に紛れて役宅の庭先に潜み、戻ってきた八丁堀のまえに姿を現したとき、 あまり顔色の優れない男の表情がわずかの光を見たようにパッと明るくなったのを、秀は認めた。
『・・・・・こん畜生め。生きてやがったか・・・』
 八丁堀らしい歓迎と受けとめて、とりあえず聞いたあの日以降の経緯に秀は驚かされた。
 秀を罪人に仕立て、一般人を惨殺した三味線屋の宅に単身駆けてみたものの、 すでにもぬけの殻で勇次は行方をくらました後だった。 勇次のことを気にしながらも、どうすることも出来ずにいた八丁堀の前に、 ある日仕事人を名乗る男が声を掛けてきた。
 男はあんたがたの仲間内で裏切り者が出たらしいなと耳打ちして気を引いてきた。 そのうえで、そいつを斬りたくはないかと仄めかしてきたのだ。 勇次の居場所を知ってるのかと訊くと、実は自分たちも探しているところだと意外に正直な答えが返って来た。
『とうに忘れたかもしれねぇが、おれはあんたがたに潰された百化け一味の残党さ』
 卑しい目つきの仕事人から声をかけられた時点で、 八丁堀は内心、この一件がやはり勇次の仕組んだものではなかったと直感し、むしろそのことの方に納得していた。 が、その男の言葉のなかには聞き捨てならない名が含まれていた。
 百化け一味といえば、勇次の実母がかつて仕切っていた仕事人の組織ではないか。忘れられるはずがない。 本人そっくりに化けてしまう一味の巧みな罠に堕とされて、八丁堀の一味は仲間割れの殺し合いを演じることになった。
 その抗争のなか、いないと思っていた母の衝撃的な登場と長年共に暮らした育ての母とのあいだで板挟みになりながら、 勇次は最終的におりくとの絆をとったのだ。壊滅させたと思っていたところが、まだ生き残りがいたらしい。
『てめぇらの狙いは、オレたち全員の破滅か?』
 ならばなぜ、直接自分たちを狙わないのかと不審に思って訊いたが、
『おれたちの願いはそれさ。だが、あんたがたの結束は思ってたより固い』
『・・・。そんなもんかなぁ?』
『とぼけなくていいよ、中村さん。あんたがたとサシでやり合うには、もうこっちも命が惜しいんでね。 それにいまおれらを統べているお人が―――、あんたを仲間に引き込みたがってるんだ』
 そいつが言うには、相手は八丁堀と同じく奉行所の内部にいる侍で、 この世界に浅からず身を置いている男らしい。 百化け一味とも多少関わりのあったところから知己を得たこの男の口から、 八丁堀の裏の顔も仲間の情報もすべてばらされてしまったのだ。
『・・・五人を殺したのも、てめぇらのしわざなんだな』
 果たしてこの企みは、今後手を汚さずして裏稼業で金を稼ぎ続けるべく八丁堀を手先とする狙いと、 この生き残りたちの個人的な恨みを晴らす狙いの両方を満たすため、巧みに凝らされた罠だった。 仲間のそれぞれが孤立し互いに疑心暗鬼となり憎み合うように仕向けられていたことは、あのときの抗争と同じである。
 その侍の名をここで締めあげて訊きだそうとしたが、 殺気を察して素早く身を引いた男はせせら笑うと、さっそく八丁堀を脅しにかかってきた。
『今度はあんたの番さ、中村さん。下手に動くと命取りだぜ。勇次が先に逃げちまったのは惜しいが、 仲間で手分けして探し出してみせるさ。おりくを見捨ててあいつが江戸を出るわけがねぇ。 あんたは・・・簪屋と同じような目に遭いたくなかったら、言われたとおり仕事しな』
 秀の生死も行方もさだかでない。勇次とおりくにこのことを伝えるすべもないままに、 八丁堀は繋ぎ役のその男の脅しひとつによって、見えない相手の手先に加えられてしまったのだ。

 敵を欺くにはまず味方からともいうが、欺く味方すら近くにいないこの状況下で、 八丁堀はもう観念して命じられるままに二度の仕事を請け負った。
 はじめはただのハッタリだとむりやりにも思い込ませようとしたが、 持ち込まれた仕事のどちらもが武張った方面での暗殺だった。 武家社会の内部に通じた者の手引きがなくてはこんなことは出来ない。 裏で糸を引いているその侍は、 政敵を追い落とすなどの暗殺業に仕事人をつかう、筋金入りの外道らしい。
 仕事料として懐に入る安くはない金子が、いまでは八丁堀の心を重くさせている。 とはいえ、秘密を握られていては身動きが取れない。 もういっそのこと、無いと思っていた良心の欠片さえかなぐり捨てて、 そっちに魂までも売ってしまった方が楽になれる。 秀が姿を現したのは、思い余った挙句そんなことまで考えていた矢先だった。
 秀は繋ぎをとるまでこのまま言いなりになっているようにと伝え、 あとは自分が何とかすると言い残して姿を消した。八丁堀はかなり危ぶんでいたが、 秀には秀なりの考えが頭のなかで固まりつつあった。
 仕事人同士の容赦ないしのぎの削りあいはどうやら避けられない模様だ。 しかし、これでどう動けばいいかが明らかになった。自分が江戸に戻っていることは八丁堀以外、 例の生き残りにも知られていない。いま自由に動けるのは自分だけ。
 ハイエナのような残党どもの繋ぎ役が、 裏で指揮しているという黒幕と会う場面をなんとしても突き止めてみせる。 それから三味線屋の周辺にも目を配り、 おりくが旅から帰ってきたところをいち早く捉えてこの危機を伝えねばならない。
 そんな秀も、行方の知れない勇次がおりくにしか分からない符丁を残しておいたことは、知る由もなかった。


 秀が持ち込んだ仕事の話が進みかけていた頃。
 勇次は三味線屋の店先や出稽古の行き帰りに、何者かに見張られているような視線を感じるようになっていた。 母のおりくは現在旅に出ていて、春先には戻ってくると便りが届いたばかりだ。 勇次は何食わぬ顔してこのことは仲間内にも漏らさず、気づかぬふりして生活しつつ相手の狙いが何かと考えた。
 見張るだけ見張っておいて、直接接点を持とうとしない。それは自分を仲間に引き込もうというのではなく、 窮地に追い込む機会を待っているように感じられる。何かねちねちとした執念を感じさせるその不穏な気配は、 これ以上この家に居ない方がいいという直感的な決意を勇次に促した。
 そこで勇次はもし自分の身に何かあったときのための繋ぎをとれるよう、留守中の母に符丁を残しておくことにした。 それは昔から母子のあいだのみで使われてきた通信手段である。
 自分が何かしらの罠に巻き込まれた場合を想定して、あらかじめ決めておいた場所にそれを記すと、 ある晩闇に紛れて家の裏口から脱け出た勇次は、三味線屋の家屋を捨て別の隠れ屋へとひそかに移った。 折しもそれは、秀が依頼人から預かった四十両の入った包みを指定された家に投げ込みに行った夜だった。 秀が監視されていたことに、その時点で仲間の誰一人気付いていなかった。


(いまごろどこでどうしてる・・・)
 あの日一夜明けてみれば市中には女子供を含む五人を惨殺した仕事人の人相書きが出回っていて、 勇次を仰天させた。と同時に、そんなことを秀がするわけがないと、端から疑ってもみない己の心にも気づいた。 これが何者かによる周到な罠だということは間違いない。ただ秀がどこにいるのかは、皆目見当もつかなかった。
 勇次は市中に潜み、ひそかに八丁堀の動きを監視することにした。 あの二本差しの身辺から目を離さずにいれば、そのうちきっと何かしら黒幕側からの接触があるはずだ。 勇次にとってこの事態はいわゆる青天の霹靂というわけではなかったが、 まさか自分の名が書かれた投げ文によって、秀に捕り手が放たれたとあっては、 どうあっても己の手で真相を突き止めぬわけにはいかなかった。
(生きてるよな、秀?・・・)
 秀の失踪後、八丁堀がときおり密会するようになった男の顔に、勇次は見覚えがあった。 額に受けた傷が痕になっている。百化け一味との抗争のさなか母おりくに切られた傷だ。 致命傷にならずどうやら生き残っていたらしい。
 それを目撃して勇次は、自分がつけ狙われた理由がわかったが、 その男と八丁堀がなぜ会っているのかまでは不明だった。しかし様子から推察するに、八丁堀は脅されているようだ。 どうにかして八丁堀と会えないかとも考えたが、勇次自身の身も嗅ぎつけた残党による攻撃に脅かされるようになった。
 生き延びてここにいるしかない、と勇次はいまは暗躍よりかは潜伏を優先することにした。 死んでいては秀に逢えない。秀に一目会って誤解を解くまで誰にも命をくれてやるものか。
 勇次は、どこかで秀は必ず生きているという想いだけは抱き続けていた。 それは何の根拠もないほとんど己の願望に近いと分かっていたが、日が経つごとにその想いが勇次の支えになっていった。 時に脳裏を掠めるあの気の強いまなざし、夢のなかにも出てくることのある息遣い・・・。
(おめぇもオレと同じように感じてくれてるんだろ)
 それをくっきりと思い浮かべることが出来る限り、秀はどこにいても自分と共にあると勇次は信じていた。





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