教えてやったところどころ怪しい箇所もある般若心経を耳で覚え、 閊 (つか) えながらも朝夕神妙に唱えているゆうじの夢を見た。 死を覚悟するとそういうものに救いを見出すのかと思っていたが、 闇の中でフッと目が覚めたとき、 それは自分が人なればこその解釈だったということに、いまになって秀は気付いた。 ゆうじは死を恐れていたのではなかった。 待ち望んでいた安息がようやくもたらされることを喜び、それに感謝しての詠唱だったのだ。 嫉妬に狂い鬼となったゆうじはこれ以上もう狂うことも出来ない。 自らの意思で死ぬことさえ許されず、独りぼっちで迎え見送った幾多の朝と夜。 肉体と心は生きながらに永劫の孤独のなかを彷徨うことが、どれほどの絶望を伴うものだっただろう。 いつか必ず死ぬと分かっている身には想像もつかなかった。 朝の光に照らされると同時に鬼の姿に戻ったゆうじの、それでも穏やかに見えた死に顔が思い浮かぶ。 人間は不老不死を願うが、 いつか儚く消える命と識 (し) っているからこそ、ただ一筋の希望を信じてゆけるのかもしれない。 「・・・・・」 布団のなかで秀は小さなため息を吐く。まだ夜明けには間がある。隣室の鼾にはとっくに慣れてしまったが、 そこから妙に意識が冴えてふたたび眠ることが出来なくなった。 すぐ横に敷いた布団のなかでは、勇次がシンと静まり返って寝入っているようだ。 この位置からでは丸まった布団と髷の端っこしか見えない。 (触れたい) 突然はっきりとした望みが浮かんだことに秀はうろたえ、疼いた胸のあたりを無意識に抑え込んだ。 疼きは胸のうちだけにとどまらず、生身のからだまでもが勝手に切ない熱を孕んでゆく。 触れたい。たしかめたい。 あれほど夢にまでその声を息遣いを感じていた相手が、手を伸ばせば触れられるところにいる。 それでも秀には、その布団に手をかける思い切りがつかなかった。 自分にとってあまりにも心のなかに棲んでしまった者だと、そのことを秀は山で思い知らさせた。 裏切られたと思った瞬間の胸引き裂かれる悲しみと比類ない憎しみをへて、 ただ生きているだけでいいと思えるほどにこの男を受け入れてしまった心の変化に、 秀自身が恐れを抱いている。 希望を捨てなかったからこその今があると、分かってはいる。 その希望とは何だったのか、何を一途に信じたのか。 己をひたすら前に突き動かす力となっていたものの正体を、 この数日の日々のなかで自覚した秀だから恐くなった。 ・・・勇次を愛しているということを。 秀と八丁堀がまず繋がり、次に秀とおりくが繋がった。 倅の残した符丁を見つけたおりくは、 秀が言葉を発する前に何かが起きたと察していた。 人目につかぬよう細心の注意を払ってふたりは暗くなってから再度落ち合い、勇次の潜伏先へと向かう。 そのうち母がここに来ることは予測していたものの、 秀を伴って来るとはさすがに夢にも思わずにいた勇次は、母の背後に立つ影を見るや、 例の涼し気な切れ長の目を丸く見開き固まった。それは秀も同じだったが、 『――――・・・』 生きていると分かっていた分、秀のほうが先に平静さを取り戻せた。 夜目にも光る濡れたような瞳で出迎えた男の顔を見つめ、すぐに逸らすと低い声でぼそりと言った。 『反撃開始だ』 ふたりに八丁堀の話を聞かせ、続いてようやく突き止めた黒幕を明かした。 はぐれの仕事人をひそかに集めて暗殺集団を結成しているのは北町奉行所の筆頭与力、三木田一臣であった。 南町の昼行燈とそしられている中村主水の裏の顔を偶然に知ったとき、三木田の頭に筋書きが浮かんだのだろう。 頭目を失いまとまりを欠いた残党どもの恨みを逆手にとって、自分に任せておけと懐柔したが、 中村ともども自らの手駒として使い捨てるつもりでいる肚は透けている。 『仕事人のおつとめを何だと思ってるんだろうねぇ・・・。 ずいぶんとナメた真似をしてくれるじゃないか』 狭い隠れ屋の畳に端然と正座して話を聞いていたおりくが、しばしの間をおいて呟いた。 端唄を呻るような声だが、若い男ふたりの方が思わず暗闇で目を見合わせたほど、 背すじを寒くする凄みを含んでいた。 外道の殺し屋に堕ちる方向へと仕事人たちを手繰り寄せている三木田の所業を、 誰よりも仕事人の則を重視するおりくが見逃すはずがない。 かくしておりくと勇次が繋がり、勇次と秀が繋がった。この連携さえ叶えば、もはや迷うことも恐れることもない。 八丁堀にも三木田の名を明かしてやると、なぞなぞの答えを知らされた子供みたいに喜んだ。 『おう。それさえ分かればこっちのもんよ』 晴れ晴れとした表情で長い顎の下を撫でつつも、目の奥には本物の殺気がぎらついていた。 (まったくどいつもこいつも血の気が多いぜ) 売られた喧嘩は最後まで買う、と鬼のまえで啖呵をきったのは自分だが、 反撃のときを前にむしろ嬉々とした心を隠しもしない仲間たちに、 負えない仕事人の業を垣間見て内心呆れている秀だった。 ぬるからず熱からずの湯に、みんないつまでも浸かっている。 秀は暇を持て余して、ひとり近くの小山に上ってみたり渓谷に沿って少し歩いてみたりした。 勇次はといえば、にわかに忙しくなっている。 湯のなかでうっかり口ずさんだ長唄の一節を、野良仕事のあと貰い湯に来た村人が聞きつけ、 ぜひ続きをもっと聴かせて欲しいとせがまれたのだ。 江戸の三味線屋だと訊きだした誰かが、庄屋の家に眠っていた古い三味線を持ち込んできた。 娯楽のない山村だから勇次の芸はおおいに尊ばれ、こういうものを生まれてはじめて聴いたという村一番年寄りの婆さまが、 長生きするもんだなと手を合せ涙ぐむ始末だ。 そうまで喜ばれると勇次もまんざらでないようで、オレは骨休めにここに来てるんだぜと困った顔で言いながらも、 気安く村人の求めに応えてやっている。 勇次の周りには、いつでもこうして自然な人の輪が出来る。 べつに嫉妬心など湧きはしなかったが、胸をひとり焦がしている自分が情けなく、 秀は少し離れたところでぽつんと座っていた。 夜になり、先に部屋に食堂から戻った秀はなんだかぐったりと気疲れして、早々に布団に潜り込んだ。 襖越しにまだ、三味線の音が聴こえてくる。そのほろほろと艶やかな音色を耳で追いながらいつしか眠りに落ちていた。 勇次が部屋に戻ると遠ざけた行燈の灯りはそのままに、秀は自分の布団に潜り込んでいた。 少しくせのかかった黒髪が覗いている。 自分も布団に入ろうとして、おぼろな火を吹き消した闇のなかで勇次は振り返った。 秀の様子が少しへんだとは感じていた。 なにかぼんやりと物思いに耽っているかと思えば、ひとりぶらりと散歩に出たりしている。 時おりちらとこっちを見る視線は感じるが、勇次が振り向いてもちゃんと目を合せようとしない。 突然の別離から一冬を経て、今度は前触れなく再会した。 事情が事情なだけに互いに言葉を交わそうにもなぜかギクシャクしていた。 誤解はすでに解け、わだかまりなど無いはずだった。 不思議なものだ。離れているときにはあれほど秀の心を信じていたはずなのに。 二人だけの旅路のあいだもここに滞在してからも、 自分の身に何があったか、秀は勇次に一言も打ち明けようとしないのだ。 傍らの布団の丸みの上に音もなく屈み込む。乱れた髪が首筋にかかっている。 横向きになり顔のまえで両腕を交差させるように丸くなって眠るのは、秀のいつもの癖だ。 こっちに背を向けて掛け布団からはみ出ている肩先に勇次は手で触れ、起こさない程度に包み込む指先に力を込めてみた。 「・・・・・」 しばらくその温もりを手に馴染ませたあとで、勇次はそっと手を放した。 が、引こうとした手首は不意に下からの強い力で掴まれていた。 「っ・・・!!」 その手は珍しく熱をこもらせ少し湿っていた。 (秀・・・?) 起こしたのかそれとも最初から起きていたのか判断はつかなかったが、寝ぼけているわけではないことは、 秀がそのまま抱込むように、両手で勇次の手を中に引き込もうとする動きで分かった。 らしからぬ行動に面食らいつつも、勇次は空いたほうの手で布団を剥ぐって身を滑り込ませた。 人の熱で温まった夜具の内側で、後ろから秀に被さる格好になる。 クッと抱き締めると秀が大きく身震いをして、手首を掴む指の力が緩んだ。 湯治場の薄い浴衣ごしにも互いの脈が伝わった。 (秀―――) 衣擦れの音を気にしつつ勇次は秀の肩を引き寄せ、こちらに向き直らせた。 俯き加減の頬に手をそえて掬い上げるように唇を合わせる。 ぴくりと伏せた瞼を波打たせて息を呑んだ気配。 それだけで、あえて抑え込んでいた官能が奥底で頭をもたげるのを勇次は感じた。 やっと触れあえたというのに、なぜか貪り合うことにはならなかった。 このときを深く長く味わおうとするかの如く、ふたりはただ唇を触れ合わせ、 頬や鼻筋や瞼までもその繊細な触覚で確かめ合った。 今夜に限って隣の鼾があまり盛大でないのが忌々しい。それともこっちがいまは神経が高ぶってるからだろうか。 勇次はこのまま流れに身を任せそうになり咄嗟に襖の向こう側の気配を探ったが、 そのときハ…と軽く離した唇のあいだから、秀の声にならないかすかな喘ぎが零れた。 たとえ何かの物音を聞かせてしまったとしても、身裡に点いた火をもう消すことは出来そうにない。 抱き寄せて再度唇を重ね合わせ、今度は深く口腔を探り合う。 そうしながら体を押し付け合い、脚を絡ませ合って浴衣の帯を解いてゆく。 久しぶりの交合は辛くもあるだろうに、秀は白い歯を食い締めて恥ずかしさと苦しさに耐えている様子だった。 なにがそこまで秀を決意させたのか、勇次にも分からない。 途中、勇次のからだの重みを受け止めた秀が反った背を軽く硬直させたので、思わず動きを止めた。 (どこかまた、怪我してたんじゃねぇのか―――?) 何でもないように振る舞う様子にそんなことを考えてもみなかったが、 あらためて固く引き締まった痩躯に手を滑らせると、無意識に力の入る箇所がある。 秀はなんでも隠して我慢する悪いくせがあるだけに、やはり止めるしかないかと身を引きかけたが、 「・・・やめるな」 二の腕に手をかけて小声で引き留めたのは秀のほうだった。こんなことは今までにも一度としてなかった。 夜目に慣れた視線のさき、逸らさずに見上げてくる黒目がちの瞳とかち合った。 そこにはただ、秀という人間の一途に純粋な内面が映し出されていた。 勇次がもっともこの不器用な男に惹かれた理由・・・。本人はきっと意識もしていないだろう。 呼応するように勇次の内側からも何か熱いものが引き出されてきた。 この存在があることの喜び。生きていてくれたことへのありがたさ。 平素ならば嗤ってしまいたくなるであろう殊勝な気持ちが、 何かを確かめたいというようにすべての力を抜いて委ねてくるこの腕のなかのからだから直に伝わってくる。 (おめぇはそうやって―――。オレをこれからも生き延びさせてくれるんだな) 身を繋げたもののほとんど動くことをせず、ただぴったりと寄り添い心音が重なるまでジッとしていた。 指を絡ませ時おり軽く唇で愛撫するだけで、ひたひたと深すぎる官能が満ちてくる。 それは秀も同じなのか、しっとりと潤んだ肌を勇次に吸い付かせたまま浅く呼吸しながら目を閉じている。 その恍惚とした表情には、愛し合う喜びとかすかな哀しみとが混ざり合っていた。 こんな交わりは誰とも味わったことがない。 どんな手練手管の女でも与えることの出来ない、肉体さえも超えた愉悦。 勇次は秀に心までも包まれていると感じ、そして満たされ、自分が愛されていることを知った。 どれくらいの時が過ぎたのか。 波のように寄せてくる官能の果てに、じわりと勇次の熱が秀のからだの奥に広がった。 秀はぼんやりと目を開けて白いこめかみに汗をにじませた勇次の首を抱き寄せ、受け止めた。 そこではじめて自分自身も、内腿と勇次の腹を濡らしたことに気が付いた。 それほどふたりは、ひとつに溶け合っていたのだった。 ふたりが湯治場を発つ日には、集まってきた村人が湯治客と一緒になって別れを惜しんでくれた。 「またおいでよ」 「ああ。あんたがたも元気で」 勇次の人気に乗っかって自分までも別れを惜しまれて面はゆくもあったが、 秘湯の心地よさと同じくらい温かく過ごさせてくれたこの地と人々を、秀は忘れないと思った。 「また来るよ」 勇次は秀をかえりみると、皆が見とれるような笑みを見せて請け合ったので、例の古老の婆さんはまた手を合せて拝んだ。 春のうららかな田舎道を、ふたりは江戸へ向けて出立した。 菜の花がどこまでも続く川沿いをのんびりと歩いて行く。小さな蝶が無数に飛び交っていた。 それを見て、秀はふと思い出して隣を歩く勇次に尋ねてみた。 「なあ。そういえばあの露天風呂の辺りでもよく蝶が飛ぶのを見たよな?」 「ああ。あの辺りな、ほんとは地獄谷って呼ばれてた場所で、亡者の通る道が近くにあるらしいぜ」 ごく何でもない貌してそんなことを言うので、秀はあっけにとられてその涼しい横顔をまじまじと見た。 「亡者?地獄谷だって!?」 「あの大婆さまが子供の時分から言われてた話だから、ほとんどの者は信じちゃいねぇらしいがな」 すっかり婆さんに可愛がられた勇次は、そのときのやり取りを思い出したのかもう懐かしむような表情を浮かべて頷いた。 「地獄谷では蝶やトンボに亡者が身を変えてあの世に向かうんだと。 それであの渓谷ではときどき蝶の乱舞が見られることがあったらしいぜ・・・大昔の戦で人馬が大勢死んだときなんかにな」 ひとりで歩いた岩場のあいだを流れる渓谷が、あの世へと続く亡者道でもあったとは・・・。 切れるように冷たい雪解け水の急流と、 生命の気配を寄せ付けないほどに厳しく清浄な渓谷一帯を包む空気に、秀はなぜかこの静寂が恐ろしく感じて、 途中から引き返したことを思い出した。 そのときに大岩の窪みの水たまりに、まとまった数の蝶が集まって不気味にゆっくりと羽を動かしていた光景を目撃し、 ゾッとしたのだった。あれは亡者が最後の娑婆の別れを惜しむ姿だったのかもしれない。 「今じゃだれもそんなことは気にせずに、狩りや漁をするって言って大婆さまは嘆いてたけどな」 「・・・・・」 見えないものを無いとして馬鹿に出来る者のほうが、この世を生きてゆくにはたしかにラクなのかもしれない。 しかし、本来いるはずがないと思っていた鬼というものに命を救われ、 生活を共にした秀は、大婆さまの話がただの年寄りの世迷言とはもう思えなかった。 「もともとこの村がある以前に、大昔は巫女があの世とこの世を繋ぐ霊媒を行う地だったらしい・・・」 勇次が古老しか伝え知らないその話をどこまで真に受けているのか知らない。 だがすでに遠くなった湯治場のかすかな湯けむりを振り返って呟くその声には、温かな響きが込められていた。 秀もつられて背後を振り向いたが、そのとき一匹の黒揚羽がどこからともなくふわりと飛来した。 勇次はそれにすぐ目を止めたが、秀は自分の周りに回遊するそれに気づいていないのか、 遠くを見る目つきでぼんやりと歩を進めている。 「―――おい、秀」 「・・・ん・・・?」 声を掛けられて秀は勇次をかえりみた。 「蝶が、さっきからおめぇの肩に止まってるぜ」 言われてはじめて、秀は自分の体を見回し、 裾の長い旅用の外套の右肩に止まって静かに羽を動かしている黒揚羽に気が付いた。 「・・・・・。ゆうじ」 「え?」 勇次が怪訝そうに返事した途端、蝶はふわりと秀の肩口から虚空へと飛び立った。 秀はなぜか、その蝶を懐かしむようなどこか泣き出しそうな横顔でどこまでも見送っているのだった。 了
* ひとつだけ・・・余計な補足説明させて頂きます。 作中ふたりがいたしておりますのは『ポリネシアン S●X』と申します、 合体後動かずに精神的繋がりを深めることで、より深いorgasmに至るという 伝統的性愛のお作法です。 興ざめさせてしまったら申し訳ありません (^^;) 最後までお読みいただきありがとうございました。 小説部屋topに戻る
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