「秀・・・。オレたち、何とかなったみてぇだな」 言葉を交わすことなく隣で長いこと湯に浸かっていた男が、巻き舌でぽつりと言った。 ちゃぷん、ざばっと水音がして、露天の岩風呂から自分たち以外の最後の湯治客が上がってゆくのが、 湯気の向こうに見えた。茹 (ゆだ) って紅く染まったその丸い背を見送って、勇次がしみじみと呟いたのだ。 秀は返事する代わりに、両手で半濁した湯を掬い顔に押し当てた。 浸かり過ぎて皺が寄った指先のでこぼこのせいで、自分の顔に触れているという感じがしなかった。 ぬるぬるした感触の湯は、皮膚の表面に纏いつくようだ。 ゆで卵が腐ったようないささか鼻につく匂いのする濁った温泉だが、匂いのもとは鉱物から出てくるもので、 この天然の岩風呂自体がその独特な鉱物を含んでいるらしい。 最初に浸かったとき、肌を溶かされてるんじゃねぇかと秀が顔をしかめて呟くと、 湯治場巡りが意外なことに趣味でもある勇次は、そいつが体にいいんだとさと訳知り顔に請け合ったのだ。 勇次の言ってることが本当がどうかは分からなかったが、 ほとんど知られていない秘湯だからゆっくり休養出来ると言われれば、黙って頷くほかなかった。 二人が甲州街道を脇に逸れたとある小さな村の草深い湯治場を訪れてから、今日で滞在三日目になる。 裏の仕事を果たしたその足で江戸を離れたのだ。が、追っ手を恐れてそうしたわけではない。 秀に人殺しと強盗の濡れ衣を着せ、勇次をもあらぬ詮議へと陥れた黒幕の一味は残らず始末した。 長かった抗争にようやくの決着をみて、 「もうたくさんだ。地獄の垢を落としにいこうぜ」 と秀を江戸から連れ出したのは勇次である。 江戸の裏社会の猛毒をいやというほど浴びた自分たちは、一度まったく違う場所に身を置かないことには、 心身に沁み込んだ毒にこの先もじわじわと蝕まれてしまいそうなやり切れなさが、たしかに秀の胸にもあった。 家からも勤め先からもがんじがらめの八丁堀は、なんとか危機を脱して胸を撫で下ろしてはいるだろうが、 嫌気がさしたからと江戸を離れるわけにはいかない。 その点、三味線屋と錺職人の町人は身一つでいつだって思い立ったら旅に出られるのだから、気楽なものだ。 仕事後に見交わした恨めしそうな二本差しの馬面を思い出し、秀はちょっぴり気の毒にも思ったが、 今回の一件は、山で秀が推理したように八丁堀を脅して殺しの傀儡とするために仕組まれた罠だったのだから、 一番貧乏くじを引かされるのは仕方ない。犯人は勇次ではなかったが。 そのために秀は捕り手に掴まりそうになり江戸の町を死に物狂いで逃げ出し、 大けがだって負った (というより、本当だったら死んでいた) 。 勇次のほうも裏切り者の汚名を被せられた挙句、不穏な連中から命を狙われる側に追い落とされた。 加代に至っては江戸を早々に逃げ出したものの当分は戻って来られないだろうから、 今ごろはどこかの町や村を彷徨い、また乞食行脚のような境遇に落ちているかもしれない。 折よく長旅から戻ってきて、事件のあらましを知り息子の窮地を救ったおりくが、 仕事人対仕事人の果たし合いにしのぎを削った直後の勇次と秀に、 八丁堀のことはあたしに任せておきな、と申し出てくれた。 それで二人は、血なまぐさい虚しさと憔悴しきった八丁堀とをその場に置き去りにして、 その足でわずかな荷だけを持ち江戸を発ったのだった。 だからいましがた勇次が気を抜いた声で口にしたのは、 ここに至るまでどれだけ死と背中合わせの日々を送ってきたかを裏付けるような一言だった。 置かれていた境遇は違えど、やはり艱難辛苦のすえ江戸にひそかに舞い戻った、秀自身の日々をも彷彿とさせる。 軽々しく相槌を打てるはずもなく、秀は顔を湯で洗うことで湯治場で憩っているという平和な現実を確かめてみたのだった。 勇次のほうでも秀にこれといった返事を期待していたのでもないらしい。 肩まで浸かっていた両腕を差し上げてウーンと伸びをすると、首の後ろにかったるそうに片手をやり軽く叩いた。 「勇。おめぇ首から上まで紅いぜ。のぼせたんじゃねぇのか?」 岩のうえに上体を乗せるように半身浴していた秀が横目で見て問う。秀はあまり長時間は湯に浸かるのは苦手だった。 が、ここの湯は竹で作った樋で山の水を引き込み、湧き出る熱泉を随時薄めているのでどちらかというとぬるめの温度だ。 だからだらだらと入っていることも出来る。なにしろ娯楽のない僻地の湯治場では、湯に浸かる以外にすることはないのだから。 「かもしれねぇ。おめぇと違って肩までどっぷり浸かるのが好きだからな」 本来白い頬を上気させた勇次が、水滴をしたたらせて秀をかえりみる。その屈託ない笑みを見たとき、 また会えたな・・・という呟きが突如、思うつもりもないままに秀の脳裏を掠めていった。 「なんだ?どうかしたか、秀」 奇妙な表情を浮かべてこちらを見ている湯気のなかの秀に、勇次が訊ねる。 我に返った秀はぼんやりと青天井の山の自然を見上げ、なにかを探す素振りをした。 が、なんでもねぇ、と呟き自分もちゃぷんと肩まで湯に浸かってきた。 江戸近郊で一泊ほどの仕事の旅はあったが、休暇と称して勇次とこれほど何日も二人だけで過ごすのは初めてだ。 だが肉体的な触れあいは全くといってない。こうして四六時中裸のつきあいはあるものの。 と言っても、ここをやっている老夫婦に加え三人の湯治客と地元集落の村人も出入りしているのだから、 せいぜい寝る部屋だけがかろうじて二人きりになれる場所だ。 しかしそれとても、煤けた襖越しに隣室の鼾がまるですぐ傍に聞こえるような狭苦しさなのだ。 ここにたどり着いたときには心身共にぼろ雑巾のごとくクタクタに疲れ果てていたのだから、 もちろんそんな気など互いに微塵も起きなかった。 ようやく最初の疲れもとれて、平穏な日常が少しずつ身に馴染んできたいまだからこそ、 そんな余計なことにまで気がいってしまうのだ。 秀は己のなかの欲深さに居心地が悪くなり、濡れた髪の滴を振り払って言った。 「俺ものぼせちまった。先に上がるぜ」 湯の花を掻き分けるようにして湯の中を進み、さっきの客が上がったところからざばっと露天風呂を出た。 勇次がそんな自分の裸の後ろ姿を見ている気がして、背中だけでなく全身まで紅く染まったように感じていた。 続
小説部屋topに戻る
|