秀、冬山で鬼に遭う 5









「・・・その昔、オレはある女と恋仲だった。女とは出逢ったとき互いに一目惚れで惹かれあった。 逢うべくして出逢ったとしか言いようがねぇ。前の世での因縁で結ばれたんじゃないかと思うくらい、 すべてがしっくりと互いのためにあるようだった―――。 何もかも分かり合ってると思ってたから、喧嘩にすらならねぇくらいだ。 女の心を疑うことなんか・・・これっぽっちも考えたことはなかった」

 安定して燃える火の、時おりパチッと弾ける小さな音以外に不気味なほど静まり返った小屋のなか、 ゆうじの物語る抑揚のない声が静かに響く。

「だがある時、オレに妙な噂を吹き込んできたやつがいた。 湯屋で顔なじみになり、話してみるとたまたま女と同じ村の出身らしい。 そいつが、女がオレに隠れて長いこと切れていない間夫 (まぶ) を持っていると言って来た。 そしてその証拠だと、女が男にあてたらしい文の切れ端を見せて来たんだ・・・」
「・・・・・」
 その切れ端は、書き損じを竈にくべた燃えさしを拾ったようなほんのわずかなものだった。 しかしそこに、あなたさまに年に一度でも会えたらばなどと見覚えのある女の筆跡でつづられているのを見たとき、 男のなかで何かが大きく弾けた。
「オレは魚屋の見習いから叩き上げて、二十二になった年には念願の一本立ちしていた。 客がもっとついて稼ぎが安定したらそんときは・・・、 そう次の正月には女と所帯を持っているはずだと、そんな風に思い描いていた矢先だったんだ。 まだまだ血の気の多い年の頃だ。オレは証拠の品を見せられてカッと頭に血が上っちまった。 何を考える余裕もありゃしねぇ。・・・気づいたときには仕事で使う出刃を掴んで女の元に駆け込んでいた」
 男はその証拠を目の前に突き出し、アッと真っ青になった女を問い詰める。女は誤解だと泣き伏した。 それは武家の養子になっている、自分の兄だと。
 子のない武家の家に、生まれてすぐに貰われて、それがゆえに卑しい家の出ということを隠さねばならなかった。 成人して、養母の死ぬ直前に出自を知らされ、血を分けた妹がいると知りようやく探し当てたのが自分だと、女は説明した。
 両親はすでにこの世になく、兄の密かな勧めもあり身寄りのない女は郷里を出て町に一人で暮らし始めた。 一気に親近感を深めた二人は、時おり人目を忍んで会ったり文を交わしたりをし続けていた。 兄は妹の生活の援助を申し出たが、女はそれだけはきっぱりと断っていた。金目当てで会っていると思われたくなかったからだ。
 男とは町に来てしばらくして出逢った。 兄の存在を男に打ち明けなかったのは、固く口留めされていたせいもある。 が女のほうでも、気は良いが短気で嫉妬深いところもある男がかえって疑い、 のちのち諍いの種になってはいけないと黙っていた。 めでたく夫婦になった暁には、いつの日にか兄と三人顔を会わせる日が来るやも知れない。
「その武家はどこのどいつだと訊けば、兄に迷惑がかかるから、今はそれだけは訊いてくれるなと云う。 あたしにとってはこの世でただ一人縁のつながった肉親だからと。 そんなくどくどしい説明をオレは聞けば聞くほど、疑わしさと憎しみが募っていった。 ・・・あとから思えばオレに告げ口した男が実は黒幕で、女に横恋慕していたっていうのにな・・・」
「・・・」
 オレには何でも打ち明けてたんじゃなかったのか。頼れる人はあんたしかいないと言っていながら、 こんな大事なことをいつまで隠すつもりでいたのか。夫婦約束まで交わした仲で・・・。 そんな女は信じられねぇ、何を証拠に信じろというんだと詰め寄ると、女は言った。
「好いた女を疑うあんたのその心が恨めしい。 いっそこの胸のなかを開いて見せられるもんなら、あんたへの真心しかないってことを見せてやれるのにってな。 で、オレは・・・泣いて食って掛かる女の胸を言われたとおりに出刃で切り割いてやったのさ」
「―――!!」
 ゆうじはそこで、ハッと顔を注視した秀と視線がぶつかるとわずかに頷いた。 その口元に一瞬浮かんだ哀しい笑みを秀の目は捉えていた。
「・・・女がどういう悲鳴をあげたのか・・・どうやってもんどりうったのか、もういまじゃ覚えていない。 覚えてるのは―――血まみれで床を這いずり逃げ回りながら、女がオレの顔を見上げて鬼、鬼と罵ったことだけだ」
 まさか本当に胸を割かれるなどとは思ってもみなかっただろう。 自分のものだと思っていた女に恨めしい目で睨まれ鬼と叫ばれ、 男はますます猛り狂い、まるで本当に鬼が乗り移った気になった。 急所は外れた女を追い回し、虫の息になった女を最期までメッタ刺しにした。それでも収まらず、 こと切れた死体さえも血の海のなかで切り刻んだ。
「そのときにはすでにオレは人間じゃなくなっていたんだろう・・・。 出刃を投げ捨てたオレは女の体に跨るとその肉にかぶりついていったんだ。 血を啜り骨までゴリゴリ噛み砕いていた。潰れて飛び出してた目玉も吸い出して喰った。 これで女を誰にも取られないと思ったら・・・、どうしようもなく悦びと興奮が沸き上がり、止まらなくなった」
 目の前で見せられているような身の毛もよだつ壮絶なあらましを、勇次の姿をした鬼は淡々と語っている。
「あらかた肉を食らいつくし血を啜り尽くして、 オレはこれでやっと女とひとつになれたと思った。はじめからこうしてればよかったと―――。 誰かに取られたり裏切られるくらいなら、腹に収めてひとつになればよかったんだ」
 秀はゾッとした。
「それから・・・。 オレは全身女の血にまみれたまま外に出た。人は大勢集まっていたが誰一人、オレを遠くに取り巻きにしているだけで、 近づくものも声をかけるものもない。オレはそのときてめぇがどんな姿をしてるか知らなかった。 嗤いながらそのまま駆けだすと、 誰もが悲鳴をあげて四方八方逃げてゆく・・・。自分でも分からねぇが物凄い速さで走れるようになっていた。 ひとっ子ひとり見えなくなった通りを駆け抜けて、オレは山の奥へ奥へと分け入った。 信じられないような力が奥底から湧いてくるのにあかせて、昼夜山を裸足で、 いつか裸で駆け巡った」
 どれぐらい時が経ったのか・・・・・。
 やがて激しい喉の渇きを覚え、谷底に降りて自分の姿を水に映して見たときに、 男は鬼になっていることにはじめて気づいたのだ。 瞼のない目がぎょろりと飛び出し、怒りに浮き出た眉間の深い縦皺、鼻はひしゃげて横に拡がり口は耳まで裂けていた。 女の血の付いた牙のような犬歯が唇の外にまではみ出していた。
 それは御伽草子や芝居などで見た地獄の鬼そのまま、いやそれ以上にあさましくおぞましい姿だった。



 長い沈黙がひとしきり続いた。
 重なって燃えていた薪のひとつが火の中で折れて崩れ落ちる音で、 秀はぴくっと身じろぎをし、何も言えずにただ唾液だけを飲み込んだ。 そんな様子に目を当てたまま、ゆうじがひっそりと囁く。
「秀・・・。オレをこの姿に変化させるほどの相手にいま会えば、 おめぇもオレのような鬼に成り果てるぜ」
 聞かされた凄絶な過去は、鬼となって生きるいまのゆうじの静かな態度とはおよそ結びつかない。 が、それだけに真実を語っているのだと思わされる。秀は蒼白になった顔を俯かせ、やがて小さく呟いた。
「なるもんか。俺はただあいつを見つけ出して、掟の落とし前を付けてぇだけだ・・・」
「自分に嘘は付けないぜ、秀。あまりに深く信じていた相手だからこそ憎いんだろう? 勇次を一途に想うからこそ―――、行き場のない苦しみに身を焦がしてるんだろう?」
「っっやめろ!!おめぇの恨みを俺と一緒にするんじゃねぇっ。女を逆恨みして殺したのはおめぇの自業自得だ!」
 女を切り刻んで骨まで喰った話を聞かされたのに、怒りに燃えた秀は鬼にたて突いていることも忘れていた。 勇次を信じていたからこそ憎しみも強いというのは、悔しいが秀自身も内心認めてはいた。 が、問題はこの胸を食い破るほどの憎しみが、時間が経ち日を追うごとに、 深い悲しみや自己否定までをも生み出してきたことが耐えられなかった。
 たとえ鬼を怒らせてしまったとしても言い返さずにはいられない。 逃避行のさなか、疲れ果てても眠ることすら出来なかった。あれからどれくらい時が経ったのか定かでないのに、 居場所はおろか生死すら分からない勇次の存在に、秀はいまだに心を縛り付けられている。 それどころか単純な憎悪を通り越し、複雑に渦巻くこの苦しみを与えていると思うと・・・。

「あいつと出会ったばかりに俺の人生は狂わされたんだ・・・。あいつが憎い。憎くてたまらない・・・。 ゆうじ、おめぇの言葉を借りるなら、なれるもんなら鬼になって今すぐにでもあいつを食い殺してやりてぇ!!」
 そしてこの身裡を駆け巡る苦しみから解放されたい。終わらせたい。 勇次の姿をした鬼が、怒るでもなくほれぼれとそんな秀を見つめて呟いた。
「不思議だな。鬼のオレがこれほど止めても、おめぇは鬼になりたがる・・・。鬼とは孤独なものだぜ、秀。 二度と里に下りて人間と交われない・・・この醜く恐ろしい姿を隠して気の遠くなるほどの年月を独りで生きねばならない・・・。 それが人から鬼になった者の行く末だ」
「―――――」
「だからこそ・・・。おめぇが鬼にならずに済むように、オレが勇次を殺して来てやると言ってるんだ」
 一巡して話をそこに戻してきたゆうじは、明らかに嬉しげに凄みの増した微笑を浮かべていた。
「鬼ともなれば多少の神通力は備わっている。オレならば何処に居たってすぐに勇次を見つけて、迷わず殺してやれるぜ。 そうだ、なんならおめぇの姿になって仇をとってやろう。どうだ、いい考えだろう?」
 秀はいったん絶句して禍々しいゆうじの笑みを凝視したが、さっと目を逸らすとことさらぶっきらぼうに答えた。
「・・・・・こ、・・・断る。俺は・・・自分の力で勇次を見つけ出すんだ。 あいつがほんとにやったことか、てめぇの目と耳とで確かめねぇことには納得いかねぇ」
 切れ長の目が秀の動揺を冷たく捉えた。
「さっきおめぇは、たとえ勇次の仕業でなくてももう後には引けねぇ、サシで決着をつけると云ったじゃねぇか」
「っ・・・」
「だったらわざわざ真実を知りに行く必要がどこにある?勇次がすべての黒幕でもそうでなかったとしても―――。 結局いまのおめぇは、勇次と相討ちで心中するしか気持ちの落としどころはないんだろう。 隠しても無駄だぜ、秀。オレにはひとの心が読めるからな」
 勇次と相討ちで心中・・・
 なぜかその言葉の響きが秀には甘美なものにすら聞こえた。 考えてもみなかったが、ゆうじに言われてはじめて秀は己の最終的な望みに気づく。 この一連のからくりを解明することよりも、勇次を見つけ出して果たし合いをしたいと、 ただそれだけを自分は望んでいるのだと。

「待てよ・・・ゆうじ―――」
 心を読めると言われて頭のなかが真っ白になった秀は思わず、ずっと胸の奥底では疑い続けていた本音を口走っていた。
「俺は―――それでも俺は確かめたいんだ。 仲間は裏切れても、あいつが無実の人間を五人も手にかけたとはどうしても思えねぇ・・・。 きっと何か裏があるはずだ・・・。あいつの口から真実を聞くまでは、俺は死んでも死にきれねぇ」
 考える余裕もなく一息に口をついていた。 あいつは芯から腐った外道の仕事人だったと己に言い聞かせ、どんなに打ち消そうとしても、 その一点において秀はどうしても違和感を捨てきれずにいたのだった。
「やっと認めたな」
 ゆうじが憐れむように呟き薄く嗤う。しかしその目はもう遅いと秀に告げていた。
「・・・でもな、オレにとってそんなことはどうでもいい・・・。勇次がどこかに生きている限り、おめぇは探し求める。 だから・・・、おめぇのその未練をオレが断ち切ってやると言ってんだよ」
「・・・みれん・・・?」
「そうさ。この期に及んでまだ勇次を信じようとするその心が未練さ。持っていても辛いだけだ。 諦めろ、秀・・・おめぇはもう、オレのものなんだ・・・」
 ゆうじの魔力を孕んだ目に、心が操られそうになる。秀は小さく息を呑んで必死でその視線から逃れようと目を逸らす。
「人の世では長いあいだ危険なことや辛い目に沢山遭ってきたんだろう?伝わるぞ・・・秀。 おめぇが隠しこんでる孤独や深い哀しみまで――――」
「・・・っ」
「おめぇは勇次と出逢って、気づかぬうちにその傷を少しずつ癒されていたのさ。 だからあいつを殺して恨みを晴らしたところで、勇次のいない世の中に生きていても虚しい・・・そうじゃねぇか」
 勇次のいない世の中・・・
 今度はその言葉が、気が遠くなるほど絶望的に秀の耳には聞こえた。
「だがオレはおめぇを死なせる気はねぇ。可愛いおめぇを鬼にもしたくねぇ。 だから二度と、勇次に会わせるわけにはいかねぇんだ。分かるな、秀・・・」
 ゆうじが秀の蒼白になった頬に手を添え、俯く表情を覗き込んだ。 この鬼ならば、己の望むものを得るために確実に行動に移し、言葉通りのことを為し得るに違いない。 そうと決めれば今すぐにでも。

「オレは違うぜ。オレならおめぇの望むこの姿のままで、ずっとそばに居てやれる。 もう誰にもおめぇを傷つけさせやしねぇ。絶対に裏切らないし、どこにも行かねぇ。最期までおめぇのものだ」
「―――・・・いゃだ」
 秀は目を見開いたまま、渇いた唇を開いた。
「いやだ・・・。だっておめぇは勇次じゃねぇ。あいつじゃなきゃ・・・だめだ」





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