秀、冬山で鬼に遭う 6









「秀・・・」
「あいつを殺していいのは俺だけだ、ゆうじ。俺を行かせねぇつもりなら・・・あいつに手を出すのはやめてくれ」
「それじゃいつかおめぇはここを逃げ出して勇次を探しに行くだろう」
「・・・逃げたとしたらどうなるんだ?そのときこそ俺を、喰い殺すのか?」
 胸に出刃包丁を突き立てられ、肉を骨を喰らい血を啜られる己を想像しながら秀が呟くと、 無表情にゆうじは首を横に振って答えた。
「いや。おめぇはどうあっても殺さねぇ。連れ戻すだけだ。代わりに勇次を探して喰らう。 どこかで生きてりゃの話だがな」
 音を立てて胸の軋む音が聞こえたように秀は感じた。罪を犯していようが、 何者かの策略に勇次自身が巻き込まれていようが、鬼はもう勇次を殺すことを決めている。
 いま勇次はどこでどうしているのか。無事なのか追われているのか、自分と同じく孤独に闘っているのだろうか。 それらは秀の希望的観測であって、 横取りした金子を懐に今ごろのうのうと、女の膝枕のうえで元仲間のことを嘲っているかもしれない・・・。
 何一つ本当のところはわからないのに、秀はいま、勇次のために命乞いしている。 どこかで生きていると、ただそれだけを信じて。
「に・・・逃げねぇと約束する。ゆうじ。俺はおめぇとここにいる。ずっといるから。 だから、勇次のことはもう忘れてくれ。殺さねぇと云ってくれ。このとおりだ―――!」
 秀は頬に触れているゆうじの手に自分の手を重ねると、強く固く握り締めた。 ゆうじが怪訝な面持ちを浮かべて身じろぎする。 お願いだ頼むと繰り返すその必死のまなざしを、勇次の姿をした鬼は目を瞠って見つめていた。
 その艶やかな瞳が生気を失くしたように曇り、やがて哀しみの色を宿し始めたことに秀は気づいた。
「・・・分からねぇ。ついさっきまであれほど殺してやりたいと息まいていたのに・・・。 そうまで憎んだ男のために、なぜ命乞いなんかする?あいつに人生を狂わされたと言ったじゃねぇか・・・」
 困惑と嫉妬をない交ぜにした声が秀をなじる。そのとき秀は、自身のなかにごまかしようのない気持ちを見出していた。 囲炉裏の火を映してゆらりと揺れた黒目がちの双眸が、何度かまばたきを繰り返したあとゆうじを正眼に見据えた。
「・・・。―――だがそれでも、かまわねぇ」
「何故だ!?なぜそこまで出来る・・・?」
 想像もしなかった秀の答えにゆうじは戸惑い、ますます困惑した哀しい顔で喘ぐように尋ねた。 迷いから脱け出た心には、鬼といえども入り込む隙間はない。 視線を逸らさず受け止める秀の様子は、 少し力を加えれば崩れてしまいそうなこれまでの儚さと明らかに違っていた。
「それは・・・。おめぇがさっき言っただろ。 あ・・・あいつがいない世の中に生きてたって、虚しいからだ・・・」
 己の心に問いかけるように恐る恐る口に出す。一年以上も前のことになるが、 仕事人一味を解散し、それぞれが江戸を離れねばならなくなった最後の夜。 勇次は別れの床の中でたしかに同じようなことを言ったのだ。
 そしてそれは、薬湯の副作用で浮遊する秀の脳裏に幾度となく響いていた、あの低い囁きだった。

―――おめぇのいないこの世は つまらねぇ・・・
 ・・・おめぇがどこかで生きてると信じてるから オレも生きていけるのさ―――

 どこに離れてても 心だけは添っていられるからな・・・



「ゆうじ。おめぇは女を信じ切れずに胸を割いたんだよな。 だったら俺は―――。あいつの仕業じゃねぇと俺が信じてるだけで、それだけでいい」
 無言で秀を見返すゆうじの顔色が蒼褪めていた。 秀はいま自分の思うところを正直に訴える以外に、勇次を護る手立てはないと覚悟を決めていた。
「本当のことを確かめなくても、もういい。あいつの正体は、俺が信じてる勇次・・・のままでいい。 あいつがこの世のどこかに生きてるだけでいいんだ。 おめぇがあいつを殺すというなら、俺も生きちゃいねぇ。・・・自分で死ぬ」
 凍り付いたままの目でひたとゆうじを見据え、秀が低いがはっきりとした声で言う。ゆうじの目が動揺して泳ぎ始めた。
「―――おめぇの言ってることの半分もオレには分からねぇ。秀・・・何故だ!? オレがもう人じゃないからか?人間の心を忘れたからなのか・・・? おめぇはオレが苦しみを晴らしてやろうというのを、断ってるんだぜ。それも自分の命や自由まで引き合いにして・・・」
 重ねていた秀の手を擦り抜けて、ゆうじの手がぱたりと力なく膝のうえに落ちた。 光を失った瞳がみるみる潤み、細い涙が一筋、白い頬に零れた。
「オレに一生囚われて生き続けても、想う相手を信じていたいのか、秀。 自分が信じると決めた相手を・・・ただ信じるだけで、そこまで強くなれるのか? オレにもそれが出来ていれば・・・・・?鬼にならずに済んだのか・・・?」
「・・・ゆうじ・・・・・」
 驚いて秀は涙を流すゆうじの肩を思わず支えていた。呻くような小さな慟哭が歯の奥から軋り出た。
「辛い―――楽になりたい―――楽に・・・。寂しい――――。なんて哀しいんだ・・・。 おめぇを縛り付けてもおめぇの心は勇次のものだ・・・。オレは信じたい相手を喰ってしまった。 オレを信じてくれたあの女はもういない――――。オレはどこまでも独りぼっちだ・・・・・」

 秀はかける言葉も見つからず、慟哭する鬼の体を寄りかからせていた。 その辛さ、孤独は、秀自身がずっと抱いてきたものだった。 勇次に出逢い、互いを知るまでは・・・。だからこそ分かる。鬼の悲しみが、絶望が。
「・・・すまねぇ。俺は心まではおめぇにやることは出来ねぇんだ。それが許せねぇならいっそ・・・」
 ゆうじの顔を覗き込むようにして、秀が囁く。
「俺をいまここで喰い殺せ」
「・・・・・秀」
 涙に光る眼が一瞬妖しく揺らめいた。不思議と怖いとは思わなかった。 どうあっても勇次を信じると決めたとき、秀はすべてのことが恐ろしくなくなったのだ。
「どうせおめぇに命を救われたんだ。礼といっても俺にはそれしかやるものがねぇからな。 世間じゃ俺のことを覚えてるやつなんか、もう役人くらいなもんだろ。それだってそのうち忘れちまうだろうし・・・」
 わざと明るく笑ってみせた。そして頭の隅では想像する。八丁堀も加代も、 いつかは自分のことを死んだものと考えて諦めるかもしれない。 だが勇次は、あいつだけは。死体をその目で見ない限り、生きていることをきっと信じ続けるだろうと。
 それがふたりの、語らずの約束だった。





 涙の枯れたゆうじは秀から少し身を離すと、自分の懐を探って何かを掴み出した。 見覚えのあるその形状に秀は目をハッと見開く。それは失くしたとばかり思っていたあの簪だった。
「――――・・・」
 板飾りがサラサラとあえかな音を立て、磨きぬいた銀が鋭い光沢を放った。ゆうじの長い指が秀の手をとって握らせる。 掌に即座に馴染むひんやりとした硬質な感触に、官能に近い震えが秀の背を奔った。
「せっかくの申し出だが・・・。そんながりがりの体喰ったところでたいして旨くもねぇだろうな」
「・・・ひでぇな」
「それより秀・・・。おめぇに大事な頼みがある」
「頼み?俺になにか出来ることがあるのか?」
 きょとんと見返す秀に、ゆうじはかすかな微笑を浮かべて頷いた。
「これで、オレのことを・・・殺して欲しい」
 秀は驚きのあまり簪を手から滑り落した。
「ゆう――」
「オレはもう疲れた――――。それでも鬼は自分じゃ死ねない・・・これが報いなんだ。 どんなに高い崖から飛び降りても水に沈もうと、死ぬほどに苦しい思いをするだけで・・・死ねなかった」
 涙を流したあとのことさら静かな声で、ゆうじは囁くように続けた。
「だからいつの頃からか夢見てた・・・。いつの日か生きた人間と出遭えたら、 もしもオレの話をちゃんと聞いてくれる人間を見つけたら。 また独りになる前に・・・オレを殺してもらおうってな」
 簪を取り上げて再び秀の手に握らせると、グッとその上から掴む。二人の視線が絡んだ。
「秀。おめぇになら出来るんだろう?」
「・・・・・。出来る・・・」
 裏の仕事を依頼されるときと同じく、反射的に背筋を奔った怖気をふるい、秀は低く応じた。 勇次が愁眉を開くのを、底光りする目でジッと見据える。
「よかった・・・。 おめぇは鬼のオレを恐れながらもまともに向き合ってくれた・・・。まるで人間に戻った気分になれたぜ。 オレを救ってくれるのは、もうおめぇしか考えられねえ。おめぇに殺されるなら本望だ―――・・・」
「そん・・・そんなこと言わねぇでくれ、ゆうじ・・・」
 秀は空いた手で勇次の肩口を支え、覗き込む。
「その顔で、本気で俺にそれを頼むのかよ―――?」
「そうさ。これでおめぇの恨みも少しは晴らせるんじゃねぇか」
 秀はグッと崩れかけた目元をごまかすため、バカやろうと言ってゆうじの体を引き寄せていた。 まだ赤い目を驚いたように瞬かせ、ゆうじが秀の痩せた体に両腕でしがみつく。ぐいぐいと抱きつかれ、秀が悲鳴を上げた。
「いっっっ痛!ひ、引っ張るな、また折れるっ、痛ぇんだよ!オイゆうじっ」
「だって嬉しいんだよ・・・。あったけぇ体に抱いて貰ったのははるか昔の話だからな・・・」
 秀はおとなしく、力を抜いたゆうじの腕に抱かれたまま精一杯の気持ちを込めてその広い背を撫でた。
「俺が動けるようになったら―――。いつかおめぇの望み・・・叶えてやるよ、ゆうじ」
「・・・ホントか!?」
「あぁ・・・約束する。だからそれまでは一緒に居よう」




 これまでのどことなく陰鬱で謎めいた鬼の気配はなりを潜め、 ゆうじはどこか吹っ切れたような明るい表情で日々を送っている。
 どんなに寂しくて虚しくても自分の力では死ぬことすら出来ない。 そんなゆうじは気の遠くなるほどの孤独な夜を超え、己の運命を呪い続けて生きながらえてきたのだ。 秀は鬼の頼みを引き受ける気になっていた。 地獄行きは確実に避けられないわが身だが、まさか人から修羅道に落ちた鬼の道行きに手を貸すことになるとは。
(かまわねぇさ。どうせ俺の送られるのは、あの世のなかでも一番酷い地獄だと決まってる)
 ここには紙の暦や時報の太鼓というものがないから、いまが何月の何日なのかはおろか、一日の正確な昼夜の時間すら分からない。 それでも季節がいつしか厳冬から緩やかに早春へと移行しているのを、 少しずつ回復の速まってきた自身の体の調子から、秀は感じていた。 ゆうじの雪下ろしの回数が減り、鳥のさえずりや鹿の細く甲高い鳴き声を時おり耳にし始めたことも、 ここに来てからの時の流れを思わせる。

「ゆうじ?そこで何してんだよ?」
 秀は小屋の隅のほうで壁側に前面を向けて座したままのゆうじに、業を煮やして声を掛けた。 それは秀の体からすべての包帯が取り去られた日のことで、喜んで自由になった手足を動かしている秀を横目に見て、 ゆうじは急に背を向けると白い瞼を閉じたきり、動かなくなったのだ。
「なぁ。焚き物を採りにいくなら俺も今日から連れてってくれよな。鍛えねぇと足腰がすっかり弱っちまったぜ」
 使わないと筋肉はどんどん落ちていってしまう。 あばらの浮いた上半身や痩せた腿をあらためて確認して秀はがっかりしたが、 雪が減って来た今ごろからならば、少しずつでも山を歩いて足腰を鍛えられると気を取り直した。 せっかくやる気になっているのに、ゆうじはあの調子でさっきからずっと独りの世界に閉じこもっている。
「ゆうじ・・・?」
 はじめは珍しいこともあるもんだと放っておいたが、あまりに沈黙が長く続くとちょっぴり不安になる。 ゆうじを信頼していないわけではない。が、鬼の気がいつ変わるか秀には分からない、 そんな覚悟も常に心の隅に抱きつつ日々を過ごしてきたのだった。
「心配しなくてもいいぞ」
 そんな秀の心を見透かすように、ふいにゆうじが背中ごしに口を利いた。振り向いてにやりと口の端だけで笑う。
「なんのことだ?」
「秀。おめぇをここに閉じ込めようとは思っていねぇから安心しな。オレはいま天眼通を試してただけさ」
 うっかり気を抜いて心を読まれる決まり悪さもさることながら、 秀はゆうじの云った聞きなれない言葉のほうに意識を取られた。
「疑ってすまねぇ」
 潔く謝る秀を、ゆうじは愛し気に見上げている。
「・・・けど、てんげん・・・って何だ?」
「ま、言ってみりゃ千里眼ってことだ」
「せ、千里眼!?ゆうじおめぇ、そんなことまで出来るのか?」
「ああ」
 こともなげにゆうじは答えたが、秀にとっては聞き逃せないものだった。
「おい、おめぇそいつでいったい何を視てたんだよ・・・」
 ゆうじに膝をぶつけるようにして座り込んだ秀が、動揺を隠せない顔で問う。 ちらとその表情に視線を走らせたゆうじは、食いつくような黒目がちの瞳を苦笑交じりに受け止めた。
「知りたいか、秀」
「知り・・・」
 思わず当然だといったふうに頷きかけた秀が、はたと言葉を止める。何を思い浮かべたのか、 一瞬痛みに耐えようとする表情で一度瞼を閉じて、また開いた。 ゆうじが黙って見守るなか、その無防備な貌の表面にはさまざまな表情が浮かんでは消え去った。
「――――。やっぱりいい。知らなくても」
 膝のうえに視線を落とし、やがて小さく秀が呟く。
「秀」
 のろのろと秀が目を上げてゆうじを見る。
「オレは本当におめぇに惚れちまいそうだよ」
「・・・?なんだよそれ・・・」
 からかわれていると思った秀が、不機嫌に唸って軽くいなす。
「おめぇのその純粋でまっすぐなところが好きだ」
「・・・・・」
「あいつもきっとそこに惹かれたんだろうな」
「・・・っよせよ。ど・・・どうせ俺は単純さ。そ、、それよりゆうじ、外に出ようぜ。俺、歩きてぇんだ」
 それ以上の心を読まれてはかなわないと、慌てて言葉を遮り口を挟む秀に、 ゆうじは笑って腰をあげた。なまった自分の体が本当に指令どおりに動かせるのか危ぶむように、 ゆっくりと膝の曲げ伸ばしをしたり、上体をそろそろと捩じったりしている。その背中にさらりと投げかけた。
「生きてるぞ」
 ハッとして固まる秀。 視えた男の身上は、平穏とはとうてい言い難い状況に置かれている様子だったが、それは視ただけにとどめた。 だがその切れ長の瞳は苦境のさなかにも死んではいなかった。それどころか獲物を狩る猛禽のように沈着で、 強い意志さえ宿していた。これが秀の惚れた相手か、とゆうじは妙に納得してそんな自分を内心嗤ったのだ。
 鬼の目で視ても男から邪悪なものは感じられなかったから、 秀には一言だけ付け加えてやることにした。ずっと一緒にいたいと告げる代わりに。
「秀。おめぇは自分の思うところを一途に信じて動けばいい」


 雪の積もった山のなかでの道筋の見つけ方、雪崩を誘発しない方法などゆうじに教えられたおかげで、 安全に歩くコツを覚えた。 少しずつ秀は体力を回復してゆき、 それを見守るゆうじは仏性 (衆生が持つ仏としての本質、仏になるための原因) すら感じさせるようになった。
「不思議だな」
「なにが?」
「秀・・・。オレは最近、だんだん自分の体が透きとおって軽くなっている気がするぞ」
「そりゃあゆうじ、おめぇから鬼の業がちょっとずつ剥がれ落ちてるってことじゃねぇのか」
「そんなこと、出来るのか?」
「ん・・・俺にもよくわかんねぇが。まえに旅で一緒になった乞食坊主が言ってたんだ。 どんな鬼でもいつかは仏に還る、ってさ」
 たまたま坊主が独り言のように口にしたことが秀自身に言われたようで、 己の裏稼業を見透かされたかとぎくりとした。 一方で、最悪な身の上に堕ちたとしても救いはきっとあると暗に教えられたその言葉を、何となく忘れられずにいたのだ。
 秀の話に深く感じるところあったのか、ゆうじは何か念仏を唱えたいと言い出した。 うろ覚えの般若心経を、数日かけて苦心しつつ教えてやると、 ゆうじはひどく喜んで朝晩の詠唱を欠かさなくなった。
 不思議な穏やかさと安らかな日々が冬のあいだ続いた。いまではゆうじと秀はひとつ布団で身を寄せ合って眠っている。
 雪解け水が沢を流れる音が夜通し聞こえるようになったある明け方。 背を向けて寝入ったゆうじの白い首筋に、音もなく起き上がった秀は静かな目を向けた。
(左様ならだ。ゆうじ)


 気の早いフキノトウが顔を出す残雪の下の土を苦心して堀り下げ、憐れな鬼をそこに埋めてやった。 小さな塚にした上にまだ蕾も固い桜の一枝を差すと、秀はしばらく動けずにいた。
 ゆうじは愛した女を誰かに取られたり裏切られるくらいなら、腹に収めてひとつになればよかったのだと言っていた。 女を信じられなかったからこそ、ゆうじは喰らうしかなかったのだ。信じ切ることが出来ずにゆうじは鬼になったのだ。 たとえひとつになれたとしても、それはあまりに哀しい。
 鬼に命を助けられ、そこで図らずも知ることになった自分自身の心。勇次は・・・。簡単に死ぬような男ではない。 何か告げたい真実があれば、きっと生き延びて自分を待っているはずだ。 必ずどこかでまた会えると信じている。そして勇次の心も。・・・だから鬼にはならない。
 ゆっくりと立ち上がると、秀は再び非情の世界へ戻るために深い山を下っていった。





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