なぜ、いまここにその諸悪の根源がいて自分を介抱しているのか。 江戸に暮らしていたはずの男がなぜ、こんな山奥の猟師小屋を住み慣れた自宅のように使っているのか。まるで筋が通らない。 肩を軽く抑えたまま無表情に見下ろしている白い美貌を、秀は一瞬怒りも忘れて呆然と見上げた。 自分の身に起きていることは、秀の理解も想像の域もとうに超えていた。 見れば笠と蓑をとった勇次は見覚えある着物姿で、 山暮らしにはおよそ似つかわしくない端正な風情が、周囲の状況とあまりにもそぐわず混乱をより深くする。 ・・・――――俺は夢でも見てるのか―――? ぼんやりと思ったとき、靄のかかった記憶の底からフッと浮かび上がったものがある。 雪に埋もれ死を待っているさなか、どこかで雪を踏む乱れた足音を聞いた気がしたのだ。 周囲をガサガサと何かの動く音がしていたから、狼がもう血の匂いを嗅ぎつけてやって来たかと思った。 いよいよ終わりだと、半死半生で喰われる恐怖に辛うじて歯の根を食い締めたそのとき。 体にかかっていた雪の重力から秀は不意に解放されていた。 脇を支えにすっぽりと抜き取られ、軽々と宙に浮いた様な感覚があった。 何度か揺すられてやっとのことで重い瞼を開けば、そこには黄色い色の・・・何かが目の前にあったのだ。 ごく近くで見ているものが、生きた巨きな目玉だとようやくわかったのは、 異様に飛び出たそれがぎょろりと動いたからだ。 はじめこれが狼かと思ったが、やや視野が広がるとその下に見えてきた毛のない肉色した肌に、ギョッとした。 そのまま目線を下げてゆけば、鼻孔が横に広がった潰れた鼻とあまりに大きい口が霞む視界に入ってくる・・・。 得体の知れない恐怖に秀がヒュッとかすかに喉を鳴らすと、それに応えるようにはぁはぁという獣めいた息遣いが激しくなり、 おぞましく醜いその貌がくぐもった笑い声のような咆哮を上げた。 大きく開いた赤い口からずらりと並んだ歯列が覗く。そして両端の上下からは尖ってひときわ太い牙が剥きだしになった。 それを呆然と見つめているうちに気が遠くなったのだ。 そしてこの耳で確かに聞いたとは云いがたいが、朦朧とした意識のなか人間の言葉で「待っていたぞ・・・」と。 ・・・・・やっぱりそうか ―――死んでたんだ・・・俺、、、、、 あのときの恐ろしい光景を思い出し、 秀は自分はとっくに死んでいてこれは夢を見ているのに違いないと、ようやく合点がいった。 そうでなければ何もかもおかしすぎる。 人ならざるモノを見たいうことは・・・、あれが生死の境目で自分は死んでしまったのだろう。 夢だから思い通りに事が進まないのだ。夢だから奇妙でつじつまが合わないのだ。 どうせ夢ならば、痛みや苦しさを感じない夢であって欲しかったが。 これも生前重ねてきた罪に対する報いというやつなのだろうか。 ――――なんだ・・・ 心配して損しちまった・・・ 八丁堀 にも加代にも 会えねぇんだな そしてもう、この恨みを晴らすことも出来ない。 そう思ったとたん口惜しさと虚しさで目の前がぼやけ、無意識に涙が溢れ出ていた。 泣くことに無駄な力を遣うくらいなら、その分怒りに転化させて行動を伴わせるのが秀の生き方だった。 しかしここはもうシャバではないのだ。すでに彼岸に渡った者に出来ることはない。 ぼろぼろになるまで体を酷使し意地も張り尽くして疲れ果ててしまった自分を、正直に認めてしまうことくらいしか。 だったらせいぜいみっともなく泣いて泣き続けてやる。この行き場のない痛みが少しでも癒されるものならば・・・。 秀はもう何も見たくなく感じたくもなかった。 目の前に見えている幻覚を遮断するように瞼を閉じると、ただ声もなく茫茫と涙の流れるに任せた。 一方、見下ろしていた勇次は秀の涙を見るなり、白い頬をぴくりと痙攣させた。 切れ長の目を見開いたままその様に釘付けになっていたが、やがてそっと秀のうえに屈み込んだ。 聞きなれた低い声が秀に囁く。 「泣くな」 「・・・・・」 秀はもちろん返事もしなければ目も開けようとしなかったが、しばらくの静寂を経て、 温かな手の甲が濡れた頬をしきりに拭おうとしていることに気が付いた。 「一体ぇどこまでタチの悪ぃ夢なんだ・・・?ばかばかしいにも程があるぜ」 ほとんど泣き笑いしそうな心境だった。 秀は痛む首を無理に振ってそれを振り払う仕草をすると、今度は目を開いて自らを声に出してあざけった。 諸悪の根源に死んでから泣くなと慰められる夢とは。念がいったことには熱も感触もしっかりとある。 これも罰だとすれば、地獄の閻魔はかなり陰湿なやり方で秀の心の裂傷をさらに広げようとしているとしか思えない。 「なぜ泣く?」 振り払われた手を宙に浮かしたまま枕元で秀を覗き込んでいる男が、尋ねる。 真剣に宥めるようなその情のこもった囁きに、憤怒のあまり秀は息が詰まりそうになった。 涙に濡れた目を凝らしてあらん限りの憎しみを込めてねめつけた。 「だ―――、誰のっせいだとっ・・・思ってやがる・・・、俺の―――そばに寄るなっ。触るんじゃねぇ・・・!」 ふたりはしばらく無言で睨み合っていたが、先に視線を外したのは勇次だった。 「・・・それほどまでに憎い相手なのか?お前がうわ言で繰り返してたその、ゆうじ・・・って男は」 フッと小さく溜息をつくと、切れ長の目元を伏せたままこれまた意味の分からない問いかけをしてくる。 「――――・・・」 体の痛みよりも、いまや心の痛みのほうが勝っていた。報復もなにも、体が言うことを聞かないのだから仕方ない。 いまさら叶わぬ相手に怒鳴る愚に気付くと、秀は必死で気を静め、 生きていたときには云えなかった恨みを、夢で相手にぶちまけてやるつもりで地を這うような声を出した。 「身に覚えがねぇと言うつもりか、この期に及んで・・・。俺はもう死んだんだ。死んでまでおめぇに陥れられるのかよ」 「そうじゃない。お前は死んでいないぞ」 目をあげてこちらを見た憎い男の口からさらりと出た言葉を、耳と頭が理解するまで、しばらくの間があった。 「・・・。・・・っ」 ウソだと言いかける秀を青みがかった水鏡の瞳が制する。 秀の動揺に理解を示すように頷いてみせて、さらに謎の言葉を口にした。 「そしてこのオレはだな・・・、そのゆうじ本人じゃない。これは借りものの姿だ」 「――――は??意味がわからねぇ。てめぇ、さっきからなに訳わかんねぇこと言ってんだよ・・・!?」 そこに居る当人の口から借りものの姿だと言われ、思わずきょとんと見開いた瞳から、 一転して険しいまなざしに変じた秀の視線を受け止め、勇次が肩をすくめて答えた。 「わからなくてもお前も見ただろう、醜い・・・鬼の姿を。あれは、このオレだ」 ・・・・・・ 理解の範疇を超えたためなんの反応も出来ずにいる秀を、艶やかな瞳が捉える。 目の奥をジッと覗き込まれた途端、秀の体がビクンと硬直し金縛りにあった。動けない秀の耳に落ち着いた声が入ってくる。 「オレはこの山奥に隠れ住んでいる鬼だ。お前が谷に落ちていくのを見つけて、拾いに行ったんだ。 雪に埋まって死にかけてるお前を掘り出して運んで来た。・・・ここは鬼の住処だ」 あまりに突拍子もない話を、ただ勇次を凝視して聞かされる他ない。 口を半開きにしたまま、ようやく動き始めた頭の中であのときの光景があらためて浮かび上がった。 雪の重力から解放され抱き上げられた感覚、聞いたかもしれない呟き・・・。 「・・・う・・・うそ・・・だろ―――?おに、なんてそんな・・・。お、鬼が、、、おにが人を助けたりするはずが」 うめくように声を絞り出すのが精一杯だった。 が、それを聞いた勇次の鋭い目の光が和らいだと思ったら、次の瞬間金縛りは解けていた。 「なぜそう思う?」 「なぜって・・・」 穏やかに問われて思わず首を捻り、痛てっと秀は声を上げた。 「・・・鬼は・・・鬼だ。人をとって喰うか害を為すか・・・どっちかだろ」 「ならばオレは鬼ではないということか。言っておくが鬼にも色々いるぞ。オレはもう人など喰う気はない」 自嘲気味に笑った勇次を秀は用心深く睨みながら言った。 「―――くだらねぇ嘘はそのくらいしてくれ。殺るならさっさと殺れよ、勇次・・・。俺は立てねぇうえに、丸腰だ」 「なぜ信じない?お前はオレの姿を一目見て気を失ったんじゃないか。アレを、もう一度見たいのか・・・?」 そう問う勇次の端正な顔がほんの少し歪んだ気がした。目の錯覚かと秀はハッとする。しかし錯覚ではなかった。 珍奇な見世物小屋でも見たことがない手妻のように、勇次の目玉が飛び出し口が両耳のほうに大きく広がった。 口の端から隠せないとがった犬歯が剥きだしになり、にゅっと牙のように伸びた。 自分の口から悲鳴が飛び出すかと思ったが、辛うじてそうならなかったのは、叫ぶにはからからの喉から声が出なかったせいと、 勇次、いやこの鬼のいう通り一度その姿を目の当たりにしていたからだった。 「いっっっ、いやいいっ!!わ、わ分かったっ!!わ、わからねぇがもうやめてくれっっ、も、見なくていい!!!」 痛みも忘れて掠れた悲鳴を上げ、恐慌を来しそうな秀の慌てように、勇次に化けた鬼は頷いた。 避けることも閉じることも出来ない目の前で、目玉は引っ込み牙は消えて元の美しい貌に戻る。 秀は衝撃と恐怖で強張ったまま凍り付いていた。 「オレもこの方が話しやすい。またお前に気を失われちゃ困るからな」 冷静に諭され、意識せずに自分の体が小刻みに震えているのを秀は感じたが、 それが異形の存在に対する生理的な嫌悪からなのか、 むりやりこの現実を受け入れようとする武者震いなのか自分でもよく判らなかった。 「―――あん、・・・あんた。だからその、す、姿に化けて?・・・るのか?」 「まあそうだ。人間は誰でもオレの姿を見て、即座に気を失うか悲鳴を上げて腰を抜かす。ふつうに話も出来ん」 「・・・・・」 たしか鬼というのは、人間を脅かし恐れさせてなんぼというものじゃなかったのか。 どうやら本気で呆れているらしい鬼らしからぬ言葉を聞くと、秀はおずおずと切り出した。 「そ・・・そりゃあ仕方ねぇだろ。鬼なんて―――ほんとに居るとは俺も知らなかった・・・」 鬼といったら、御伽草子とか読み本や芝居の怪談話のなかに出てくる子供だましの妖怪、 もしくは坊さんがあの世の説法で脅かすために持ち出してくる地獄絵図のアレだとばかり思っていた。 そういうのに出てくる鬼とそっくり、いやそれ以上におぞましいモノを直接見てしまったのだ。 畳みかけるような衝撃をなんとか後方に流してしまうと、 秀はこの信じがたい状況に置かれている恐ろしさを通り越して、目の前の人ならざる存在をむしろ感心して注視していた。 鬼に遭遇したのは、自分が初めてではない。 誰かが本物の鬼に遭い、描いたものだということが分かったのだ。そう思うと今さらながらゾッとするが。 「にしたって、・・・・・なにもその姿に化けなくてもいいだろ」 はたと我に返れば、見慣れた姿に安心している自分に気づく。 むらむらと怒りがこみ上げてきて、思い出したようにまた勇次を睨みつけたが、 「オレが選んだんじゃない。人の心の奥の最も深くに棲まう相手の姿に、オレが変化 (へんげ) するだけだぞ」 大真面目に返され、秀は張り手を喰らわされたような面食らった表情を浮かべた。 怒った顔で目だけで反対側にそっぽを向く。目の縁に残っていた最後のひとしずくがポロリと落ちた。 「・・・―――なあ。さっき・・・あんた、人はもう喰わないとか言ってたけど。それ・・・、ホントか?」 しばらくの間をおいて急に話を変えるように秀が尋ね、鬼にそっと疑わし気な視線を向けた。 「ああ」 と鬼が応える。 「喰うつもりなら掘り出したときにそうしている。お前は全身を強く打っていて血まみれの上、左足は折れていたが、 まだ虫の息はあったから連れて来たんだ」 「・・・そ―――そうだったのか・・・あ、ありがとよ。助かったぜ・・・」 「・・・・・」 「そんで・・・。ついでにと言っちゃ厚かましいがそれって・・・、 う――動けるようになるまで居てもいいって意味かい?」 伏し目がちになりながら訊ねたあと、妙な沈黙に耐えかねてちらっと眼をあげた秀と鬼の目がぶつかった。 勇次の顔で静かに微笑んでこっちを見ている姿にドキリとする。 「もちろん。そのつもりだ。いつまででも居てくれ」 「いや、とんでもねぇ。治るまででいいよ・・・。あんたもその成りをずっと続けるのはしんどいだろ」 「そんなことはない」 「・・・あんたじゃなくて俺が耐えられそうにねぇや。・・・じゃあ悪いがしばらく世話になるぜ・・・」 またちょっとの沈黙のあと、秀が訊こうかどうか迷ったことを、鬼が先に訊いてきた。 「お前の名は」 「俺は秀だ。・・・あんたは?」 「ゆうじ」 カッと頬に朱を走らせて秀が遮る。 「違うだろっ。あんたの名前だよ」 「鬼に名があるものか。お前の好きな名で呼べばいい。なんなら鬼でも」 「・・・・・」 「どうした、秀?」 「畜生―――。腹は立つが、命の恩人を鬼呼ばわりするのも後味が悪ぃ」 「仕方ないだろう、鬼なんだから」 鬼が勇次の顔で笑う。 「ちぇっ。・・・分かったよ。あんたのことは、その・・・ゆ、ゆうじって呼ぶことにするからな」 憎い男の顔を見ながら鬼と呼ぶと、己の声や目つきまで鋭くなりそうだ。 それに結局、慣れ親しんだその名がうっかり口をついて出てしまうかもしれないと思うと、そっちのほうがやり切れない。 続
小説部屋topに戻る
|