秀、冬山で鬼に遭う 2









 次に気が付いたときには、暖かな囲炉裏端に寝ているということだけはもう分かっていた。
 どのくらいのあいだ眠っていたのだろう・・・。 ひたすら昏々と眠り続けていた気がする。ときどき水を飲む以外には。 そのあいだ、喉の渇きを訴えて秀がかすかに身じろぎするだけで、 時をおかずしてあの頼りになる手が首をそっと持ち上げ、椀を口元にあてがってくれたのだった。
 瞼を開けようと目玉にわずかに力を入れるだけでも眩暈はしたが、最初の酷い腫れぼったさは薄れていた。 石でも乗せられているような頭の重たさもいくらか遠のいて、いまはなんとか半眼なら開けていられそうだ。
(・・・・・)
 しかし、九死に一生を得たというありがたみは湧かなかった。 虚ろな気分で、首を動かさず見える範囲の周囲に視線を巡らせる。そう広くもない板の間の中央に囲炉裏を切り、 ただ土間があるだけの粗末な小屋にしか見えなかった。いかにも山に慣れた猟師が住んでいそうな場所ではある。
 壁に何枚もかかった大小の獣の皮を剥いだものが自分の寝かされている寝具にも使われていることは、 動けないままでも独特な匂いでわかる。その獣臭さにふと生々しい肉体の記憶を呼び起こされた。
(あし・・・)
 ずっと前のことのようにも思えるが、千切れたと思ったくらいの衝撃を足に受けた気がする。どちらの足だったか・・・。 分からないままにほんの少し体を捩ってみる。
「!っっっ―――!!」
 左の足に形容しがたい違和感と同時に体内に響くような激しい骨の痛みがはしった。 複数の骨が折れていることは疑う余地もない。 が、ほとんど動かせないのは板のようなものをあてがって布できつく固定してあるからだと気づいた。 奥歯を食い縛り深呼吸して痛みをやり過ごしながら、処置を施されていること、 遠くに両足の重たさと感覚を感じられたことは秀をひとまず安堵させた。 が、周到な救い主には多少の不気味さも感じてしまう。
(あの雪崩から・・・俺を助け出した―――?)
 山道ですらあれだけの雪で埋もれていたのに。にわかには信じられなかった。 秀は遭難したあたりからのことを回想してみようとした。 体が受けた衝撃の余波が続いているのか、頭はともすればボウと霞がかかった状態に戻りたがる。
 断片的に浮かんでくる記憶のなかで何やら恐ろしい妙なものを見た気もするが・・・。 死を目前にしてどうやら幻覚も入っていたようだ。 記憶は結局あやふやなままだったが、意識の覚醒に伴い、少なくともいま置かれている己の状況は把握出来た。
 小屋のなかはシンと静まりかえって火の燃える小さな音だけがする。 どうやらいまはこの小屋の主は留守にしているらしい。 戻って来て秀が目覚めたことが分かれば、何かしら説明を求められるかもしれない。 無謀にもこんな雪の山奥になぜ単身分け入ったのかと。 とりあえず適当な言い訳を、いまのうちに考えておく必要がありそうだ。


 この狂騒はいったいいつから始まったのだろう。何がどこからおかしくなっていったのだろう。
 それは突然に起こり、少しずつ感じるようになっていた他人への信頼をあっけなく打ち崩し、 心を開くことで覚えたささやかな日常の喜びを怒涛の如く流し去った。 混乱のどさくさに紛れて『死ぬなよ』と小声で鋭く口走った男が、 日ごろの昼行燈の皮をかなぐり捨てて本物の怒りに燃えていたのを覚えている。 秀を窮地に陥れたのがあの仕事仲間だということを、微塵も疑わない目だった。
 しかし秀自身は、その時点ですらまだ信じられなかったのだ。

―――なぜ・・・?

初めから、そのつもりで・・・・・?


 三味線屋の勇次。
 裏の仕事人として共につとめを果たす仲間でありながら、密かに恋仲でもあった男に、突然裏切られた。 それが起きたのがいまから何日前のことになるのか、昏睡状態にあった秀にはすでに分からなくなっている。
 ある日、朝のうちに加代のもとに持ち込まれた八丁堀からの伝言で、 外側に書かれた『ゆうじ』を名乗る何者かの手で、番屋に仕事人の告発をする投げ文があったと伝えられた。 仕事人の名は錺職人の秀として、長屋の場所まで記してあったという。
 折しも秀は、とある依頼を引き受けて仕事の算段を仲間と進めているところだった。 近々仲間全員と隠れ屋で落ち合い、金を分配するところまでいっていた。 それとは別にゆうべ遅く秀は、家の者に届けて欲しいと依頼主から頼まれていた大金四十両が入った包みを、 こっそりとその家に投げ込みに行っている。
 投げ文によると、依頼人から預かり一度は届けてやったものの金が後から惜しくなり、 あべこべに一家の宅に押し込み殺しを働くだろうとの旨。 出勤早々八丁堀は、上司の田中からその投げ文を見せられた。 この投げ文の真偽を確かめるため、早速田中の後に従いその家に急行すると、すでに沢山の人だかりが出来ていたのだ。
 一家は高利貸しからの取り立てを受けていたようで、 どうやら死んだ依頼人は自らの命と引き換えに手にしたこの金を、故あって長年会う事も出来なかった家族に渡すつもりで、 秀に頼んだらしい。 朝も早くから押しかけた借金取りの声にも応じないため、業を煮やして踏み込んだ取り立ての男が死体の第一発見者となった。
 寝ているあいだに一人ずつ始末されたとみえ、年寄りから子供まで五人が布団のなかで死んでいた。 投げ込んだとされる金子は影も形もなく、さらに全員が首や額の真ん中を鋭利な凶器で刺し貫かれているのも、すべて告発通り。 その場で直ちに錺職人の秀の捕縛の命が、田中の口から八丁堀に下った。
 八丁堀は隙を見て伝文を書きなぐると、近くにいた野次馬の小僧にでも銭を掴ませて加代の長屋へと走らせたのだろう。 知らせを一読するなり加代は「畜生!あンのクソ野郎!!!」青ざめた顔で秀にそれを突き付けると、 巻き込まれるのだけは勘弁とばかり、即座に手荷物をまとめ脱兎のごとく遁走した。
 秀はその伝言の内容がまるで信じられなかった。日ごろ口喧嘩ばかりしている八丁堀の仕掛けた悪い冗談に違いないと思ったほどだ。 第一、『ゆうじ』と名乗る人物だからといって、それがあの三味線屋だという確証はどこにもない。 投げ文の内容が内輪でしか知らないネタであることすら、秀の勇次への信頼を完全には覆すことはなかった。
 ここ最近なかったほど取り乱し混乱に陥った頭で、勇次の店に走って本人にたしかめるのが先だなどと迷ったがために、 ハッと我に返ったときには完全に逃げ遅れてしまっていた。
 時遅く、奉行所からの捕り手たちが不穏な足音と共に狭い長屋の通路になだれ込んできた。 すでに空となった隣室の加代の部屋に逃げ込み、二階に潜んだが見つけ出されるのは時間の問題でしかなかった。
 突如として聞き馴れた胴間声が、あっちに怪しいやつが逃げたぞ!と下で叫んだ。 八丁堀のとっさの機転がなければ間違いなく捕縛されていただろう。八丁堀が味方を攪乱しているあいだに秀はなんとか窮地を脱し、 命からがら駆けてその場は逃げおおせたのだった。

 ―――それからの数日、秀は日中は河原などに潜み夜に移動する形で喰うや喰わずでどうにか江戸近郊に逃げた。 簪ひとつの身で背に腹は代えられず、旅人を待ち伏せして顔を見られないよう殴り倒し昏倒したところを、 金品を強奪して衣類をはぎ身なりを変えた。 罪を重ねて冬の逃避行に耐えうる装備をどうにか仕立て、街道を避けるために危険な山越えに踏み切ったのだ。
 まともな思考を働かせる一瞬のすき間さえない言語を絶する孤軍奮闘のせいで、 はじめはとうてい信じられなかった勇次の裏切りへの疑惑は確信となり、 秀の骨の髄まであの男に対する恨み憎しみが染みつくことになった。



 今ごろ八丁堀はどうしているだろうか?いち早く動いた加代はすでに江戸を離れただろうからいいとして、 あいつは逃げようがない。
 こうして冷静さが戻ってくると、罪のない者が五人も仕事人の手にかかって死んだ事実もさることながら、 残してきた事後の重大さに秀は愕然として、煤光りする黒い梁を見つめた。
 なぜヤツは自分だけを売ったのか。 四十両の金子だけが目的とは思えなかった。 それを奪うために忍び込んで五人刺し殺すよりも、金を手にしたいならばもっと簡単な方法はいくらでもある。 むしろ秀が大金を預かっているという状況が、あの男に今回の計画を思いつかせたと考えるほうが自然ではないか。
 共に三味線屋を営んでいた母親のおりくは、今年の春先にふっと掻き消すように姿を消して以来、見ることがなかった。 勇次の口から仲間に語った話では、特別な仔細があるわけでなく、あの女(ひと)は元々そういう人なんだということだった。 根っからの旅鴉(からす)なんだと秀にも後から酒の合間にぽつりと漏らしていたが、 その時の勇次の様子は、母の好きなようにすればいいと端から諦めている口調のわりに、 苦笑する白い横顔がやや寂しそうにすら見えていたのだ。
 これまで出会った仕事人たちの中でもほとんど随一ともいえるほどに、 裏稼業の筋を通すことに関して気骨稜々たるおりくの姿勢と、今回の企みの陰険さとは、秀の中ではまるで結びつかない。 あの女が仲間を売る外道の顔を持つとはどうしても思われない。 それはただの直感に過ぎなかったが、おりくの不在を踏まえた上での勇次単独による謀略だと、最初から信じて疑わなかった。
 過去の一切を呑み下し傍目には眩いくらいに仲睦まじく見えても、 血の繋がりを持たない親子の間には、結局埋められぬ深くて昏い溝が存在したということか。 それはあの母子にしか分かり得ないことであっても、 勇次がひとりになり魔が射したという可能性は否定出来ない。 胸の奥底にはやはり、粛清された父譲りの餓狼の性根と、 父を殺した仕事人の女に対する恨み憎しみとを隠し込んでいただけだとすれば――――。
 闇色に沈んだ脳内に割れた器の欠片がただ浮遊しているだけだったのが、そうと仮定すれば少しずつ形を作り始める。 加代は直接殺しを手掛けない情報屋だ。仲間が居なければひとりでは何も出来ないからこそ、脅威にはなりにくい。 もともと臆病で日和見的な行動の多い加代ならば、 むしろ泳がせておいてもこの先抱込むことが出来ると踏んでいるのかもしれない。
 一方で単身でも戦える秀を罠にかけたのは、自分の存在がなにかの目的の邪魔になるからなのは云うまでもない。 思い通りにならないと端から分かっていて、邪魔になるから消そうとした。 それも自らが対峙するのでなく濡れ衣を着せ世間に追わせるという汚い手口で・・・。

  ・・・・・あいつの狙いは俺じゃねぇ。――――八丁堀・・・だ


 かなり確信的な答えが己のなかに閃くように浮かんだ。仲間全部を一度に売ったところで得にはならない。 利用価値があるからこそ、この機会を見逃さなかったのだ。まずは自分たち三人をそれぞれ孤立させるという。
 秀はその罠の周到さに、寝たきりで軋む背すじが冷える思いがした。 あくまで想像の域は超えないがそれが仮に当たっているとすれば、八丁堀は告発は免れるだろう。 そのかわり・・・。
 奉行所の詮議にかからないよう、裏の仕事が自分にとって都合よくやりやすいよう、八丁堀を脅しつつ主導権を握る。 公儀の内部に精通した同心をひとり抱込めたならば、仕事人にとってこれほどの強みはない。 いざという時にも、己の裏の顔をバラされるわけにはいかない八丁堀は、どこまでも勇次の盾になって働くより他はない。
 あの男が必要とするのは仲間ではない。 それぞれが意志を持ち納得のうえで協力し合う対等な力関係ではなく、意のままに動かせられる配下が欲しいのだ。 投げ文にわざわざ名を記したわけもそれで説明がつく。 目的は八丁堀を今後も脅かすことだ。 仲間と離れ孤立した男に脅威は近くにあると知らせて、じわじわと追い詰めるため・・・。
 自由にならない弱りきった体では、冷静に思考しているつもりで疑心暗鬼に落ちてゆくばかりだった。 それが憶測ばかりの極論だと踏みとどまる心の余裕もなく、いまの秀にはその筋書きがほとんど事実であるかのように思われた。


はじめから、、、
いつかは裏切る気でいたんだ・・・

俺たち全員を陥れるつもりで・・・


 場当たり的な事情もあって、一時的な協力から固定の仕事仲間となった三味線屋の色男の参入に否定的で、 何かと云えばその言動を疑っていたのは自分だった。 そんな自分が勇次にいつしか身も心も開かされて、誰よりも篭絡されてしまっていたとは・・・。

・・・・・信用させるために俺のことも・・・

 力を入れるとあちこちに痛みが出ることを知りつつも、屈辱と口惜しさに唇が震え、無意識に奥歯をキリキリと噛みしめてしまう。 これまでに重ねた逢瀬のなかで交わしたやりとりも、 嘘や気休めとも思えない真摯な言葉がその口から出たことに内心驚き、 笑ってはぐらかすつもりがつい無言で俯いてしまった記憶も・・・、 出来るものなら一切合切、頭からも心からも削り取って捨ててしまいたい。
 いったんどこかに身を隠せる場所を見つけて落ち着いて、ほとぼりを冷ましたのちあらためて江戸に舞い戻り、 勇次を探し出して殺す。草の根分けてでも、その痕跡を追って見つけ出してみせる。
 そう固く決意して、それだけを心の糧にしてここまで耐え忍んできたのだ。




 そのとき、深い雪を踏みしめる足音がしたかと思うと建て付けの悪い戸口をガタガタと開けて、 誰かが入って来た。枯れ枝を調達したらしく重そうな背負子を土間に下ろす音がした。 雪を払いながら蓑と笠とを脱いでいる気配がする。
 あらかたの物音が止んだとき、首は動かさずに目だけを向けて、こちらを振り向いたその顔を覗き見た途端。
秀は反射的に胸の内側に仕込んだ裏の仕事に使う簪を掴み取り飛び起きようとした。 が、それはもちろん気持ちのうえだけでしかなかった。
「―――――っ!?」
 全身を激痛が貫き、直ぐ弾かれたように胸をのけ反らせる。 そのとき、自分の上半身が裸であったことに秀ははじめて気が付いた。 ただ、裸は裸でも脇腹や首に布が巻いて固定してある。けがの治療だと分かった。
 男は秀の反応がおかしいとすぐに気づいたようだった。 枯れ枝を土間に投げ出すと枕元に飛んできて暴れる秀の肩を抑え込もうとする。
「っく・・・っっ、は・・はなっっ放・・・・っ!!!」
 秀は激しく抵抗する。痛みよりも全身の血が逆流するような衝動に駆られていた。

 なぜならば目の前の男こそ、秀を陥れこの境遇へと突き落とした張本人だったからだ。





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