秀、冬山で鬼に遭う 1









 も、、、

 ダメ・・だ・・・




 息も出来ないほどの怒涛の圧迫を全身に受け、しまったと思ったときには手遅れだった。 押し寄せる雪崩の巨大な力に巻き込まれ押し流される一瞬の空白の後―――、気が付いてまずそれを悟った。
 山の恐ろしさもかえりみず、なけなしの意地だけで前に進もうとしたがゆえの致命的な過ち。 動かそうにもまるで自分の意思が体に伝わらないことが分かると、秀の意識はまた急速に遠のき始める。 冷たさも痛みも、もうほとんど感じない。
 限界に達していた体の声を無視してでも、出来るだけ江戸近郊から逃れる必要が秀にはあった。 人目を避けた逃避行のさなか、里山の奥まで踏み込むうちいつの間にか迷うように深い渓谷のある山に入り込んでいた。 街道ですら厳しい冬の道を、完全に人の足の途絶えた峠を引き返すことも出来ずに越える途中、 膝上まで埋まった雪のせいで道を踏み外し、急な斜面を谷底向けて滑り落ちてしまったのだ。
 とっさに掴んだ枯れ枝に手を弾かれ、その反動で積もった雪がまとめて落ちると、それは恐ろしい雪崩をあっけなく引き起こした。 雪崩と共に運ばれて行ったので岩や朽ちた灌木に身をずたずたにされることは回避できたものの、 上も下もまったく分からないほどの雪の威力に巻き込まれ引きずられてゆく。
 途中弾かれるような衝撃が左足を襲い、千切れたと思ったとたん、ほどなくして背中がガンッと一度固いものの上にぶつけられた。 大きく撥ね上げられたあと、雪のなかに埋まって体は止まっていた。

・・・やっち・・まったな・・・―――――

なん―――に・・も・・・出来ねぇ・・や・・・

 とりあえず細く呼吸しながら辛うじて意識を保つためにわざわざ分かり切ったことを肚のなかで呟くと、 しばらくしてなぜかかすかな笑いのようなものが沸き上がる。
 自分がこんな見知らぬ土地の雪山で遭難したことを、この世で誰ひとり知る者はいない。 いつかは惨めな死にざまを晒す日がくる、間違いなくロクな死に方はしないだろうと自分でも思ってはいたが、 この展開は想像してなかった。
 まさか人に殺されるのでなく、自ら遭難して死ぬことになるとは。
 いや。
 本来ならば罠に嵌められた時点で、死は確定していた。 仕事人狩りの捕縛を死に物狂いで掻いくぐり逃げおおせなかったらば、 今ごろ獄中で拷問を受け獄門台に晒されるのを待つ身だったろう。

 捕まるより・・このほうがマシだ・・・

これで・・・終わる・・・。――――みんな・・・・・

 寒さのおかげでほとんど何も感じないのが幸いだった。痛覚が戻ってくる前に早いところ死んじまったほうがいい。 咳き込みたいが、体の芯が抜けてしまったのか力が入らない。
 ごぼっと不意に喉の奥から血が逆流してきた。 口の中に広がる生暖かい鉄の味を薄く開いた唇の端からも鼻からも力なく垂れ流しながら、 秀はなすすべもなくただ死の訪れを待った。
 こうなる前のことなどもはやどうでもよくなっていた。 わが身を燃やし尽くすのではないかと思うほどの悔しさの力を借りて、ここまで生き延びてきたというのに。
 諦めきれずにいたことが、何の意味も為さなかったことに今になって気付く。 足掻いたところで、信じたところで何にもならなかった。 むしろ初めて他人を信じようとしたが為に、一つしかない命を落とす羽目になった。

俺は―――やっぱり・・馬鹿だった・・・

 ・・・・・ほんと、大馬鹿だ―――・・・・・


 嗤えよ・・・勇・・じ

・・どこかで俺を・・・

嗤ってればいい―――・・・

 意識を手放す直前、あの美しくも凄みのある切れ長の瞳をちらと思い浮かべたが、不思議と憎しみはもう感じなかった。




 またしんしんと降り始めた雪に埋もれていたところ、何者かが秀を雪の中で探し当てた。
そいつは最初から、秀が遭難するところを見ていたのだった。秀が入ってはならぬ枯れた沢の方角に進んでゆくのも、 あるはずのない道を雪のうえから踏んでアッと言う間に斜面を滑り落ちたところも、すべて初めから見ていた。
 そこら一帯を巻き込んだ雪崩を、そいつの黄色っぽい目玉はいち早く察して、自分は安全なところにサッと移っていた。 そのくせ目は、相変わらず雪崩に巻き込まれて谷底に落ちて行く旅人の独楽のように弾け飛ぶ姿を追っている。
 地鳴りが止んで、やがて何事もなかったように峠に不気味な静けさが戻ると、そいつは飛ぶような足取りで、 凍った滝のようになだれ落ちている急斜面を駆け下りてゆく。くん、と潰れた鼻先で旅人の血の匂いを嗅ぎ取り、 方向をすばやく返す。ぼろ布のように最後の崖の突き出した岩に引っかかって止まっている塊りを見つけて、 はあはあと興奮したような息遣いが漏れた。
 雪のうえ牡丹の花びらのように紅い色を散らしている蒼白の顔の表面を露わにすると、 笠を被った何者かはしばらく秀に屈み込み、様子を伺っていた。 やがてその顔も定かでない笠の下でくぐもった呻きのようなものが上がる。なぜか狂喜に近い笑いにも聞こえる。
 その者は秀の周辺の雪を指まで黒い毛の密集した茶色の素手で掘り起こし、 やがて脇の辺りに手を差し入れて易々とその体を抱き上げた。


 半濁した意識のなか大きく二、三度揺さぶられてのろのろと目を開けた秀は、 気怠そうに一度閉じかけた瞼をもう一度なんとか押し上げた。 いま自分の瞳が映しているのが何なのか分からないようだ。 すぐ目の前にある巨きな怖ろしく飛び出た黄色い目玉を、不思議そうにまじまじと見た。
 やがてそれが、人とはとうてい思えない容貌・・・、醜い鬼のごときモノだと分かったのか、 開きっぱなしの血だらけの口元からヒュッと小さな喘ぎがこぼれる。濡れた睫毛が震えわずかに瞬きを繰り返した。
 しかしそれ以上の反応を返すには、秀はすでに意識の限界に達していた。 自分より一回り大きな異形の顔をぼんやりと捉えていた黒目がちの瞳がぐるんと不意に白目を剥き、秀はそのまま昏倒した。






 枯れ枝が爆ぜて燃えるパチパチいう音。暖かさの伝わるその音を聞きながら、薄ぼんやりと目を開ける。
 視界は真っ暗ではないが灰色がかってよく見えない。重い瞼がなかなか持ち上がらないのだ。 ひどく腫れぼったい感じがする。頭を少し持ち上げようとしたが、 首の後ろに力を入れただけでずぅんと体全体に重たい激痛が奔り、すぐに力が抜けてしまった。 それでもいまの秀は前後の記憶があやふやで、思考はなに一つ働かない。
(・・・み、ず・・)
 浮かんだのは強烈な渇きをどうにかしたいという欲求だった。
(みず・・・)
 起き上がることはもちろんもがくことも出来ず開けにくい瞼で苦心して真上を睨んでいるうち、 ようやく焦点が合ってきた。黒光りする梁がまず目に入り、 その奥に薄暗い屋根裏が見えた。
「・・・――――ず・・」
 やっとのことでカサカサに干からびた舌が動き、秀は喘ぐように口にした。
「・・・み―――み、ずが・・・」
 そこに誰かがいると知っていたわけではない。ただ焼け付くような喉を一刻も早く癒したい一心で声を絞り出した。 どこかで水を掬う音がした。と思うまもなく、みしりと床を踏みしめる音と共にすぐ傍に誰かが膝をつく。
「・・・」
 その誰かは無言で屈み込むと秀の首の後ろに掌を入れて軽く持ち上げる。そして口元に何かをあてがった。 それが縁のやや欠けた椀だと分かったとたん、秀は口を開けて流し込まれる液体を受け止めた。 あまりに急ぎすぎてむせかけたが、それだけで全身が軋むように痛む。
「ぅう」
 秀は呻き、痛みのあまり瞼も伏せてしまった。それでも水だけは欲しくて懸命に椀に唇を押し当てる。 支える温かく大きな手がもう少しだけ首を抱き起こす。飲みやすいように少しずつ椀を傾けてくれたおかげで、 秀はなんとか気の済むまで飲み干すことが出来た。
「・・・まだ要るか?」
 低い男の声が訊ねる。
「・・・――――」
 秀は目を閉じたまま、気持ちの上ではかすかに首を横に振り意思表示する。 耳にするりと入ってきたその声にどこか懐かしい響きを聞き取っているうち、ふたたび寝かされた。 首の後ろから手が抜き取られ、口の端から零れ落ちた水を温い手の甲がスッと拭ってゆく。 秀は何も考えずに安心しきって身を委ねていた。




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