秀はほとほと困っていた。 困るだけではない。自分自身にかなり苛立ってもいる。 独り住まいの裏長屋の一間、目を上げた視線の先にはあのもぞもぞ動く毛玉があった。 仔猫は秀が仕方なく与えた米粒をどろどろに潰した粥を、ひと舐めふた舐めしただけで、 あとは口元に皿をいくら近づけても食べようとしない。 やはり母猫の乳でないと駄目なのか。 啼き声もほとんどあげることがないのは、 隣に住む耳ざとい加代にも気づかれずに済むのでそこは安心したものの、 仔猫は敷いてやった一掴みの藁の寝床のうえで、力なく丸くなっているばかりだった。 これからこいつをどうしたらいいんだろう、と秀の悩みはこの一昼夜すべてそこに戻っていってしまう。 このまま置いていても、いつか衰弱して死んでしまうかもしれない。 それならそれで、こいつの生きる力の限界であり仕方のないことといえる。 しかし秀のなかでは、こいつはたった一匹の生き残りだということがひどく引っかかっていた。 八丁堀が他の兄弟猫たちを皆殺しにしたが、たまたま秀の足下に逃げ込んでいたこいつだけが、 見つからずに生き延びたのだ。あのまま放っていたら、他の仔猫と同様、消されていただろう。 とはいうものの、秀が最初から命の恩人というわけでもなかった。 秀とてこの猫を厄介払いしたくって、一度は処分しようとしたのだ。 八丁堀の役宅を出たあのあと、 秀はつい仔猫をねじ込んだまま出てきてしまった軽率さを深く悔やんだが、あとの祭りだった。 ぱらつく梅雨の雨のなか、懐のその塊がある辺りだけがやけに温かい、 それがまた秀の気持ちを苛立たせる。 清洲町の橋を渡るとき、ふと立ち止まって川の流れを覗き込んだ。連日の雨で水かさの増した川は、 ごうごうと音をたてている。この茶色く濁った流れにこれを放り込めば、あっという間に問題は片付くのだ。 秀は懐から仔猫をひっぱりだすと、広げた手の上に受けた。 掌だけで十分乗せられるほどの小さな毛玉は、我が身の置かれた状況に気づく様子もなく、 秀の手の上でちんまりと丸くなっている。 周囲をちらちらと伺うが、強まり出した雨に誰もが駆け足で行きすぎるだけで、 秀の所業に気をとめる者などいない。 「・・・・・」 秀は仔猫を乗せた右手を、橋の欄干の外側にまっすぐにのばした。 あとは手を真下に裏返せばいいだけ・・・。たったそれだけだ。 これで終わる。 ・・・これで一瞬に・・・簡単に・・・・・ 「―――――クソッ!!」 雨は全身を濡らそうとしていた。秀は煙りを立てて降り注ぐ雨のなか大声でわめくと、 仔猫を再びふところにねじ入れ、全力で駆け出した。 木製の三味線の看板が揺れる店のなかからは、楽しげに笑いさんざめく女たちの声が漏れ聞こえてくる。 「先生ときたら、ほんとにシッポを掴ませない方なんですから」 下世話な物言いのなかほんの少し責めるような因果を含めたのは、 袋物を商う中堅のお店(たな)のおかみである。 「お房さんの言うとおり。いつ何を尋ねてもそうして涼しい目で笑うばっかりで」 尻馬に乗ったのは、おかみと仲のよい糀屋の後妻お峰だった。 二人はおりくが自分たちの娘に三味線を手ほどきしていることを口実に、ときおり店に顔を出す。 目当てはもちろん、倅の勇次のほうである。 「うちの娘(こ)がもう少し年が上だったらねぇ。先生とぜひ娶せたいところだけど」 お房の娘はまだ少女といえる年頃の、気前好いまでにころころ太った娘だ。 いくらなんでも厚かましさもいいところなのだが、 ふたりの年増女は目の前の色男の微苦笑にはほとんど気づいてもいないらしい。 「おや、うちの子だってそれが出来たら苦労はないよ」 と、お峰のほうがやや控えめに言った。 というのも、前妻の残した娘はお房のとこよりかは年上だが色の浅黒いやせっぽちで、 年頃になるのに器量のぞみで貰いたいという嫁の申し出が来ないと、いつも嘆いているのだった。 「―――ねぇ、先生は身を固めたいと思ったことないんですか?」 お房に頼まれた三味線の手直しをしていた勇次は、女たちのこの手のぶしつけな質問には慣れているようで、 手元に目を落としたまま軽く笑って答える。 「・・・残念ながら、いまだそんな気にさせられるお人と出逢ったことはありませんね」 「でも、だからといってちょぃと気になるひとくらいはいたりするんでしょ・・・?」 そこで勇次は切れ長の目をすいとあげて、無言で二人の女を見た。 青みがかった白目に黒い瞳の持つ、なにか言いしれぬ静かな迫力に気圧されて、お房もお峰も思わず喧しい詮索の口をつぐんだ。 「さ、これで直りましたよ」 穏やかに勇次は言って、仕上がった三味線を押しやった。 二人のおかみがややぎくしゃくした面持ちで恐縮しながら帰っていった後。 勇次は細く開けておいた通りに面した格子の窓の外をみやり、軽く首を捻ると裾をさばいて腰をあげた。 その白い頬には、くすぐったいような笑いが浮かんでいる。 外はあいかわらずの曇り空だったが、雨自体は上がっていた。 泥のたまった水たまりを盛大に跳ね返して走ってくる大八車や籠かきを器用に避けつつ、 「おい」 スッと手を伸ばして行き交う人混みのなかのひとりの袖をとらえる。秀がハッとして顔をあげた。 「さっきからなんだい。もう三度目だぜ、おめぇがオレの店の前を通るのは」 秀はムッとした表情であさっての方を向いたが、この天の邪鬼にしては珍しく、 一言の憎まれ口もなかった。おや、というように勇次の目元がすがめられる。 「なにか用なら、さっさと入ってきたほうがいい」 「・・・・・」 秀は袖をとらえた勇次の手を振り払うと、黙ったままみずから先に立って三味線屋向けて歩き出す。 やや遅れてついてゆく勇次の顔を、もしさっきのおかみたちが見たならば、驚いて顔を見合わせるに違いない。 美しいが熱の籠もらない微笑しか知らない者たちには、 勇次がこんな風に自然に頬を弛めているところなぞ、想像もつかないはずだから。 続
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