猫を拾ったのは、秀 3







「待ってな。いまお茶でも」
 なにか込み入った仕事の話かと勇次が店じまいをしようとすると、先に中に入っていた秀が口早に遮った。
「要らねぇ。勇次、折り入って頼みがある・・・。裏の話とは関係ねぇ」
「―――・・・」
 振り向いた勇次が無言で秀を見つめるが、頼みと言いながら秀は顔を上げようともせず、 さっきから袢纏の懐に差し込んだままの右手に視線をおとした。
「?なんだい、そこになにかまずいものでも隠してんのか?」
 冗談のつもりで言ったのだが、秀はちらっと上目遣いに勇次を見ると、そっと懐から手を抜きだした。
「!?なんだこいつは・・・」
 秀の差し出した右手の掌には、柔らかそうな毛玉がひとかたまり。 しかもよく見ればそれは、もぞもぞと自ら動いている。
「犬・・・いや、猫、か?ひょっとして・・・」
「ひょっとしなくっても、猫だよ」
 黙りこくっていた秀が、低い声で答えた。
「どうしたんだ、こいつは?」
「どうもこうもねえ。八丁堀んとこに繋ぎに行ったら、足下に落ちていやがった」
 思わず勇次は声に出して笑いそうになったが、すんでで飲み込み仔猫を覗き込むふりをした。 秀の不本意極まりないといった口調が堪らなく可笑しかったのだが、 面と向かって笑ってやるには気の毒なくらい、本人は暗い表情をしていたからだ。
「こう、ちょいと貸してくれ」
 勇次が手を出すと、秀が広げた手の上にそのまま転がすようにして仔猫を移してきた。 二人の手が少しのあいだ触れあう。ずっと懐に入れていたせいで、秀の手はひどく熱かった。
「・・・ふうん。ずいぶんとまた小せぇ仔猫だ」
 勇次の広い掌のなかで、仔猫はさらに小さく見える。 長い指を折るようにして柔らかい毛並みをくすぐってやると、意外にはっきりした反応がかえってきた。
「おめぇが猫好きとは知らなかったぜ、秀」
「ばっ・・・、好きで拾ったんじゃねぇよ! あの種なしカボチャが女房と鬼婆の言いなりんなって猫を皆殺しにしやがった。だから」
 皆殺し、という言葉だけが一瞬生臭いにおいを浮き立たせた。 加代が子種のない八丁堀を揶揄るときの品のない呼び名を秀が真似るということは、 それだけ八丁堀の仕業に気に入らないものを感じているらしい。
『あいつはああしてるが、根っこのとこじゃ情が深ぇ』
 いつぞや一仕事済んだあと、おりくを見舞って訪ねてきた八丁堀が、秀について言った言葉をふと思い出した。
『仕事に余計な情を挾まねぇように、おめぇも付き合い方には十分気をつけてな』
 釘を刺すような一言に、余計な世話だと怒りも湧いたが、 こと秀自身については八丁堀の危惧も、あながち用心深さから来る老婆心ばかりとは言えないかもしれない。
(ま、こいつは仕事とは関係ねぇ話だからな)
 勇次はたとえ腹のなかでだけであっても、秀の仕事に対する姿勢を疑うことはしたくないと思った。 仕事の段取りを詰めてゆくなかで、互いの姿勢は否応なくあぶり出されてくる。 依頼に対する考え方もときに対立することがある。 そのとき秀が情に走るようなことがあれば、勇次も躊躇なく秀を非難するつもりだ。
 だがいまは、八丁堀の言葉に自分の目を曇らせることはしたくない。 いま勇次に見えている秀は、仕事とは関係のないところで、 ぎりぎり生き残った小さな命を守りたがっている。それが解っただけで十分だった。



「ときにおめぇは猫を飼ったことがあるのかい?秀」
 上がりかまちに腰掛けて猫をかまいながら勇次が問う。少し離れて座りそれを眺めていた錺職人は、 とんでもねぇと言うようにかぶりを振った。
「俺ぁ生き物なんざ飼ったこともねぇ。・・・これからだって飼いたいとも思わねぇ」
 あとの言葉は押し殺すような独り言に聞こえた。
「・・・それでこいつをここに持ってきたってことは?オレにこいつを押しつけようって肚かい」
 ちょっと嬲ってやりたくなる。 長屋で猫を飼うことそのものがいい顔をされないことくらい、勇次にも分かっている。 まして近所には長屋の洟垂れガキ共が、何かおもしろい遊びがないかといつだって探し求めている。 こんな小さな仔猫を見つけた日にはよってたかって弄り回した挙げ句、弱らせて死なせてしまうだろう。 猫が見つかるのは時間の問題で、その秀とて表と裏の仕事で出歩くことも多い。 稼ぎを得るために、いつまでも猫の番をしているわけにはいかないのだ。
「・・・・・」
 揶揄されても、秀は抗弁しなかった。横顔の憂いが深くなる。
(ちっときつくあたりすぎちまったか)
 思わぬ反応に勇次が軽い後悔を覚えたとき、
「―――ればよかった・・・」
手元に目を落としたままの秀がぽつりと呟いた。
「え?」
「あんとき、やっぱり橋のうえから落としてやるのがよかったんだ・・・」
 その呟きで勇次は、秀がここにやって来るまでに、猫の処遇についてひとり葛藤を繰り返していたことを知った。
「―――そんなふうに自分を責めるもんじゃねぇ」
 嬲ろうとしたのは自分だったくせに、と勇次は内心で苦笑しつつも秀を穏やかになだめた。
「おめぇがもしそうしてたら・・・、きっと今ごろ、もっと辛ぇ思いをしてるに違えねぇ」
「・・・・・」
 秀は無反応で、その整った横顔にも一見して変化は見られなかったが、 こちらの言うことにジッと耳を傾けていることは、気配だけでよくわかった。
「心配するな、秀。オレもおふくろも猫は嫌いじゃねぇ。 つい先だっても、貰い猫の話が舞い込んでたところさ」
 それは秀のためについた真っ赤な嘘というわけではなかった。 裏の仕事を少し休むことにしたおりくが、なにか気持ちの張りがなくなったというようなことを言い始め、 生き物でも飼ってみたらどうだろう、と提案してみたところだったのだ。
『殺しのかわりに生き物を飼うってのも、ずいぶん筋の通らない話だね』
 おりくは勇次の提案に最初いい顔をしなかったが、やはり急に倒れて死にかけた経験は、 気丈すぎるおりくのなかにも、何かしら心境の変化をもたらしたものらしい。 稽古先の家の腹ぼての猫に仔猫が生まれたら、どれか一匹貰う約束をしてきた。しかし母猫が軒下で昼寝中、 入り込んできた野良犬に噛み殺されてしまい、結局話は宙に浮いてしまっていたのだった。
「うちはどちらかひとりははたいてい店にいるから、 猫ひとり・・・いや、一匹にすることはほとんどねぇし、ガキのお客さんはまず来ねぇからな」
 勇次が請け合うと、やや間があって、
「・・・・・恩にきるぜ」
 ちらと視線を合わせながら礼らしきものを口にした秀の口元を、照れくさそうな笑みが掠めた。 それは以前ただ一度だけ勇次が目にしたことのある、秀の自然で無防備な表情だった。 そのときには通りすがりに助けた少年に向けていた笑みが、いまは自分に対して向けられている。 そしてそれが、ほんの一瞬で消えてしまう儚いものだということも、勇次は知っていた。
「―――・・・」
 惜しむように秀の頬に手を伸ばしそうになり、すんでで拳を握り締めた。
「?勇次・・・?」
「礼にはおよばねぇ」
 いぶかった秀を笑って誤魔化すと、 膝の上ですっかりくつろいでいた仔猫を目の高さにまでつまみ上げ話しかける。
「チビすけ。おめぇのおかげでいいもの見せてもらったよ」
 勇次の言葉を聞いても、秀はそれはどういう意味だと問い返しはしなかった。 陽の翳った部屋のなか、ふと沈黙が降りる。それは不思議と気詰まりな静寂ではなかった。 互いの顔を無言で見合わせる。見交わした目が離せなかった。
 仔猫がほんの小さくニィー、と甘えた声で啼く。その声に我にかえった二人は、 話がすでに終わっているということにようやく気がついた。
「・・・それじゃ。帰る」
 秀はそういうと、勇次の前をすり抜けて戸口へと向かった。勇次は引き留める口実もなく、 切ない目でその痩せた背中を追った。

「秀」
 引き戸に手をかけたその時、低いがはっきりした声で後ろから呼び止められた。 無言で肩越しに振り向くと、
「言っておくが、このチビはあくまでおめぇから預かるだけだ」
「なんだって!?」
秀が呆れた声をあげる。
「そっちにやった猫なんだから、煮るなり焼くなりおめぇの好きにすりゃいいだろ!」
 勇次がにやりと人の悪い笑みを返す。嫌な予感がした。
「そうはいかねえ。おめぇの救った猫だから、こいつにとってはおめぇが親、 うちは里親に過ぎねぇのさ。・・・だからこれからも責任持って、チビの様子を見に通ってくるんだな」
 まるで強請るような言い方だ。秀はムッとしたが、 にやにやとこっちを見ている三味線屋にまんまとのせられたことに気づいたときは、時すでに遅しだった。
「くそ。来るんじゃなかったぜ」
「おめぇがやっと自分から出向いてきてくれたと思ったら、 用が猫ってぇとこが、なんだか間が抜けてて脱力したよ」
「ぬかせ。おめぇんとこならいずれ三味の皮に出来るだろうと思ってわざわざ届けてやったんだ」
 いつもの調子が戻ってきた秀のぶった切るような強がりが、勇次にはやけにいじらしく聞こえた。
 仔猫を見捨てられず連れ帰ってしまった秀。邪魔になるからと殺そうとしてもどうしても出来ず、 そもそも救えないものを拾ってしまった自分を責める秀。 悩んだあげく、ついに勇次を頼ってきた秀。 自分自身のことならば、けっして他人を頼ることなどしないはずの一匹狼が、 たかだか死に損ないの仔猫一匹のために、自分の則(のり)を曲げてでもその命を護ろうとして・・・。
 帰り際、たった一昼夜を共に過ごしただけの仔猫を一瞥した秀の、 ちょっと淋しげな目が忘れられずにいた。 今ごろ秀は長屋に戻り、猫の食べ残しや寝床のあとをみて、なにを想うのだろう。
『俺ぁ生き物なんざ飼ったこともねぇ。・・・これからだって飼いたいとも思わねぇ』
 秀のような不器用な男にとって、庇護しなければ生きてゆけない存在を身内に受け入れるという行為は、 たしかに致命的な危険であるかもしれない。それと知って秀は後ろ髪ひかれつつも、 自分にこの小さな命を託したのだろうか。

 ・・・惹かれていると認めるにはまだ迷いがある。 自分の中の何かが大きく崩されてしまいそうだからだ。 それでも秀が、自分を少しは信頼してくれていたらしいと知ったことで、 勇次は内面にこれまでにない葛藤を抱え込むことになった。
(秀・・・。おめぇのことを知れば知るほど―――。オレは自分が分からなくなる)
 仔猫が小さく伸びをして、勇次の膝のうえに柔らかく爪をたてた。





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