梅雨空のいましもまた泣き出しそうな江戸の町を、洗いざらした袢纏を着た若い職人が早足に歩いてゆく。 長身で細身だが無駄なく引き締まった敏捷そうな体躯に、髷も結わない切りっぱなしの頭髪姿。 軽く日焼けした顔立ちは精悍というより、スッと伸びた鼻梁やふくらみのある形のいい唇、すんなりした顎の線のおかげか、 若さの滲む野性味の陰によく見ればハッとするようなたおやかさも散見される。 少年がそのまま成長したような男がそれでも子供っぽくは見えないのは、 癖のある前髪の下に揺れる生真面目で犬を思わせるような黒目がちの瞳の、 どこか寂しげで孤独の影をひきずっている点だった。 道行く娘がたまたま男にふと目をとめ、その憂いのある横顔をそっと振り返ってみることある。 が、男は懐手にして黙々と長い足を前に運ぶことのみに集中していて、周囲を顧みることもない。 加えてこの男はいつも無表情かあるいは不機嫌か、のどちらの顔つきしかしていない。 まるで誰にも声をかけてくれるな、と無言の威嚇をしているようなものだ。 宝の持ち腐れとはこのことよねぇと、隣人である何でも屋の加代などにからかわれるが、 職人に愛想なんぞいるか、要は根気と技だとすげなく切り返されれば、 さすがのお喋り屋も肩をすくめて口を噤むしかないのだった。 簪屋の秀はこうして今日も、無暗に不機嫌な面構えを崩すことなく、とある場所を指して急いでいるのである。 やって来たのは同心の組屋敷が並ぶ界隈。 誰もすれ違う者がいない時を見計らってあらわれた秀だが、 念のため、さも頼まれた細工物を届けに来たように胸元の品を確かめる素振りをみせてから、 そっと中村と書かれた表札の門をくぐる。とはいえ、訪いを呼びかけるわけではない。 二日後のだいたいこの時間には訪ねてゆくと、前もって八丁堀とは約してある。 果たして、開け放たれた玄関先からは複数の家人の暮らす生活の気配が、 植え込みの陰に身を隠した秀のもとにまで伝わってきていた。 が、それにしてはなにやら奥が騒々しい。小さく女の悲鳴さえ聞こえる。 (なんなんだいったい・・・?) 秀が不穏を感じ、そっと玄関を覗き込もうとしたとき、 「ぎゃぁぁぁぁ!!!」 甲高いが、透明感のない濁った女の叫び声が奥のほうから響き渡り、秀をビクッとさせた。 続けてどたどたと駆け回る音。 「母上ぇ!!そ、そっちに一匹、いえ二匹行きましたわよ!!」 「あわわわ!!りつっ、はやくっはやく追い払って!!!」 「そ、そんなこと言われてもわたくしだって猫は怖くて・・・ひぃぃぃぃ!! ここにもいたぁ!!」 (猫・・・?) 「婿殿!!!婿殿はどこに行ったのです!?こんな非常事態にっっっ」 「あなたぁ!!!あなたっっはやくっはやく助けて!!!」 ぎゃあぎゃあと化け物のごとく騒ぎ立てる妻りつとその母せん。 噂というか八丁堀の愚痴でうんざりするほど聞き知っていたものの、こういう場に行き会わせてみれば、 それは聞きしに勝る凄まじさ、騒々しさである。 「あなたぁぁぁあああ!!!」 「はいはいはい!ここにおりますよ〜」 すっとぼけた昼行灯の声がようやく聞こえた。 面倒くさいので、しばらくどこかに居留守を決め込んでいたらしい。 「何事ですかふたりともさっきから騒々しい―――」 「何事どころじゃありませんよ!!縁の下で迷い猫が仔を生んだのです!!」 「はぁ・・・、猫だって子供くらい産むでしょうよ」 例によって暖簾に腕押しの受け答え。これでは化け物ふたりがますます猛り狂うのもムリもないと思える。 「わたくしたちが猫がだいだいだいっっっ嫌いってこと、あなたもご存じでしょう!?」 りつが金切り声で喰ってかかった。 「はやくその仔猫たちを全部処分してきてくださいませっっっ」 「処分ったって・・・。私にどうしろと言うんです?こいつらみんな捕まえて殺せとでも?・・・」 うんざりと疲れ切ったような八丁堀の声。対照的な反応に秀はくすりと含み笑いを漏らす。 「なんでもいいからはやくっっっ」 「この家から一匹残らず追っ払って、二度と戻って来られないようにしてきてちょうだい!!!」 酷な頼みだ、と秀は笑いの陰にも思わずにいられなかった。 仕事で悪人を殺るのと、無抵抗な仔猫を殺すのとでは話が違う。 どっちがよけいに、というような比較ではない。そも生んだ母猫もそれが畜生の性(さが)ならば、 産み落とされた仔猫たちもただ自然の流れに依って母猫の腹から出てきただけだ。 (厭なときに来ちまったぜ・・・) 騒ぎはすぐに収まる様子もなく、諦めて出直そうかどうかと秀が思案していると、 潜んだ植え込みの足先にふにゃっとした柔らかいものが触れた。 「?」 足下に目を落とすと、白地に茶が少々混じった毛玉のような塊があった。 もぞもぞとかすかに動いている。 「!!」 逃げ出した仔猫が一匹、植え込みの根本に隠れていたのだ。 思わず秀は一歩後ずさった。それでもその小さな小さな塊から、どうしても目が離せない。 生まれてからそう日の経っていない仔猫は、体毛こそ生えそろってはいたが、 躯はいままで見たことないほどにおそろしく小さかった。 (なんだ?こいつ弱ってんのか・・・?) 鳴き声ひとつ上げることなくもぞもぞと蠢くだけの毛玉が気になり、足先でちょいとつついてみる。 が、思いの外頼りないそれは、勢いあまってコロンと反対側に転がってしまった。 (しまった!) ついつい秀は膝を折り、慌ててその塊に手を添えると首のうしろとおぼしい場所を指先で摘んで、 そっと目の高さまで持ち上げてみた。 「・・・・・」 仔猫は目を閉じたまま、なぜかぶるぶると震えている。ほんとに弱っているのか痛かったのか、 それとも怖がっているのか・・・。親指と人差し指二本で軽々と持ち上がる空気のような軽さに、 秀は胸にぐっと堪えるものを感じた。 (いけねぇ。こんなもん見るじゃなかったぜ) 秀は頭を大きく振りかぶると、元の場所に仔猫を戻そうとした。そこへ、 「おい、待たせたな」 小声で鋭い声が背中に飛び、ぎくりとして反射的に立ち上がった。 「秀、どこだ?」 八丁堀が玄関から降りてくる。とっさに秀は袢纏のふところに仔猫をねじ込んでしまった。 「お、そこにいたのか」 スッと顔を覗かせると、仕事向けの険しい顔がこっちを怪訝そうに振り返る。 「もう帰っちまったかと思ったぜ」 「なわけねぇだろ。こっちも暇じゃねえんだ」 八丁堀の長いツラを見た途端、来がけの不満が蘇り、秀は無愛想に吐き捨てた。 「裏を取るのに丸二日足を棒にしたぜ。ただでやるには割に合わねぇ仕事だ」 「まあまあ。おめぇと見込んで頼まれてやってくれよ」 さも悪いなという口ぶりで調子を合わせたものの、だからといって手間賃を出すとはけっして言わない吝嗇(けち)なのだ。 「それで野郎の潜伏先はわかったんだな」 「ああ。それが・・・」 つい釣り込まれて調べのついたことを要領よく話してゆく。妙に口早になってしまうのは、 ふところにねじ込んだ毛玉が、その小ささに比して驚くほどの熱を発していたせいかもしれない。 自分の話す内容とはまるで別次元で、勝手に息をして存在するいのち・・・・・。 「なるほどな。たいがいの事ぁこれで分かったぜ。ところで、秀よ」 「なんだよ?」 ひととおり話合いを終えたあと、八丁堀が軽く顔をかたむけて秀の顔を覗き込もうとする。 「?なにしてんだ?」 「いんや。おめぇなんかみょうに顔が赤くねぇか?熱でもあるようなツラぁしてるぜ」 秀はふところの熱さを移されたように息が上がりかけていたので、 鋭い八丁堀の指摘にギクリとして顔を背けた。 「余計な世話だ!あんたこそ女房と鬼婆に振り回されて寝込んじまわねぇようにな」 気がつけば奥の騒ぎはしずまり、先ほどとはうって変わった落ち着きを取り戻している。 猫はどうしたんだろう、とそのときはじめて秀は気づいた。 「オレか?それこそ余計な世話だ。このくれぇのことは日常茶飯事、まだまだ序の口よ」 猫騒ぎを秀が聞いていたと知っていて、にやりと嗤う。 ということは八丁堀は女房と姑の望みのままに、 仔猫たちを『二度とここに戻って来られない』ように”処分”したのだろう。 のほほんとした半眼で立つ目の前の男に言いしれぬ怖気と嫌悪を覚えた秀は、 表情を変えないようにグッと歯を噛み締めながら踵を返すと、外の様子を素早く伺ったうえで姿を消した。 背中に八丁堀の張り付く視線を感じながら・・・・・ 続
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