簪屋、三味線屋に目撃される







 ある日の出稽古のあと、勇次はその足で母に頼まれた用のある町へと向かった。 大川沿いの霞をまとったようだった桜並木も、ようやく葉桜へと変わりつつあり、 咲き残りの花に混じって目にもさわやかな緑の枝葉をそよ風に揺らしている。
 春爛漫のお江戸は誰もが浮き足立って生活しているようだ、と勇次は思う。 浮かれているのはなにもお店(たな)の旦那衆や芸者衆ばかりではない。 年中貧しい暮らしに変わりはないものを、こと花の季節に限っては、 髪振り乱した長屋のかみさん連中、夜泣きそば屋やぼてふり物乞いにいたるまで、 だれもがどこか浮き浮きと明るい表情に見えるのは毎年不思議なことだった。
 勇次自身もこの季節はけっして嫌いではないのだが、 やれ花見だ桜祭りだと浮かれさわぐには、いまひとつ気持ちが醒めてしまっている。 いましがた稽古をつけた深川の芸者たちに、師匠も遊んでいってとずいぶん袖をひかれたが、 勇次は苦笑しつつもさらりとかわして、昼間からにぎわう色町をあとにした。
 浮き世の華やぎの裏側には、それに見合うだけの重さの闇がそっくり張り付いている。 仕事人という裏の顔でこの世を眺めるとき、勇次にはすべての物事の白黒が反転してみえてしまうのだった。


 用事を済ませてそそくさと帰路を辿っていた勇次は、 橋に抜ける手前の辻で、ちょっとした喧噪を耳にし足を止めた。
 声のする狭い路地をひょいと覗くと、男の子がひとり半泣きの形相で駆けてくるのが見えた。 そのあとを複数の少年たちが怒鳴り声を上げて追っかけている。
 陽に焼けた少年たちはいずれも振り売りの恰好をしていた。 追われる少年もご同業と見え、肩にかついだ天秤棒の籠から、小芋や青菜のたぐいをぼろぼろと落としていた。 どうやら知らぬ町に振り売りにきて、地元の連中に因縁をつけられたものとみえる。
 どうしようか、と勇次は一瞬迷った。 ここで捕まったが最後、少年は売り物を取り上げられたうえ袋だたきの目に遭わされてしまうだろう。
 よそにはよそにそれぞれの仕事する縄張りというものがある。店を構えた商いならともかく、 品を背負って売り歩く振り商いの縄張りに対する線引きは、想像を超えて厳しい。 見たところ新参者らしき少年は、まだその辺のことが分からずに境界線を踏み越えてしまい、 連中の怒りを買ってしまったようだ。
 しかしそういった語らずの決まり事というのは、何度か痛い目をみなければ身につかないものである。 可哀相と言えばそれまでだが、ここで助けてしまうのがいいとは限らない。
(仕方ねぇよな)
 勇次は数秒のあいだにそれだけを判断すると、路地へ向けて伸ばしていた首をひっこめて立ち去りかけた。
「おい、おめぇらちょっと待て!」
 そのとき、なぜかはっきりと聞き覚えのある声が、狭い路地を鋭く引き裂いた。 ハッとして振り返ると、脇の路地からスイと出てきた職人姿の男が、 追っ手の少年たちを通せんぼするように立ちはだかっている。 その背後ではついに転んでしまった少年が、空の籠と共に湿った土のうえにつっぷしていた。
「なんだよおめえ!?」
「邪魔すんじゃねえや!」
 口々にわめくガキどもをじろりとひと睨みして、男は低いがよく通る声で言い返した。
「おめぇら、自分がなにやってるか分かってんのか?おめぇらよりちっこいヤツを寄ってたかって追い回してよ」
 勇次は思わず呆気にとられてその背中を見つめた。平素知る彼は仕事人仲間の誰よりも疑い深く、 必要以上に他人と関わったり情けをかけたりすることを嫌っている。 簪職人の秀。抜き身の小柄にも似て細身だが鍛え抜かれた後ろ姿とどこか切りつけるようなあの物言いに、見間違いはない。
(こいつはおもしれぇみものだぜ・・・)
 口の端を引き上げた勇次は辻の角に身を寄せ、なりゆきを見届けることにした。
「あんちゃんにはかんけーねぇだろぉ!」
 よく日焼けした大柄の少年が早速いきり立ってわめき返す。
「そーだどけよっ」
「あいつは盗っ人だぞ!!」
 その言葉を聞きとがめた秀は、言った少年の方に首を回して聞き返した。
「盗っ人?」
「そうだ!こいつは俺たちの縄張りを荒らして、客を盗もうとしやがった―――だから・・・」
 険しい秀の目つきが少年を怯えさせているのだろう、訴えながらも語尾がやや震え声になってしまっている。
「そいつは盗っ人とはいわねぇだろ。人のものを勝手に拝借したら盗っ人っていうんだ。 客はおめぇらのものじゃねえ。こいつは何にもしらねぇでおめぇらの縄張りで商売しちまっただけだ」
「でも・・・」
「こいつから何か買った客を見たってのかよ?」
「・・・・・」
「だったらいいじゃねぇか。おめぇらの客は誰1人こいつに盗まれてねぇんだ」
 少年たちは不服そうにうなって顔を見合わせたが、秀の顔を見上げて一様に黙ってしまった。
(なにやってんだか)
 勇次の口元が思わず緩む。いくら鼻っ柱のつよいガキどもとはいえ、せいぜい10をいくつか超えた程度なのだ。 あの剥き出しの剣呑さで立ち向かえば、小便ちびるくらい怖がらせることくらい分かりそうなものを。 もちろん殺気とはまるで違うものだが、よってたかって弱い者を追い詰めるという行為に対する秀の怒りは、 ここにいる勇次にも気配で伝わっていた。
「・・・ちぇっ、わかったよ!」
 一番体の大きい少年が、ようやく一声吐き捨てるとクルッと秀に背を向けた。 が、やおら振り返ると秀の体の脇からパッと背後を覗きこみ、倒れたまま動かない少年の背に向かって怒鳴りつける。
「二度とこのあたりで商売してみろ!こん次は容赦しねぇからな!覚えてやがれ!!」
「見かけたときは今度こそ逃がさねぇからな!」
「覚悟してろよ、バーカ」
 異口同音に威嚇したが、最後のバーカのときは何となく秀の顔を見て言っていたようで、それも勇次の笑みを誘った。 秀は黙って睨みをきかせたままで、渋々と少年たちが出てきた路地の方向へと去ってゆくのを見届けていた。
 少年たちの姿が消えるとはじめて秀は振り返り、 なんとか上半身を起こしてうなだれている小柄な少年の脇に片膝ついて声をかけた。
「おい、大丈夫か?」
 少年は黙って鼻を啜って小さく頷いている。秀は泥まみれの着物をはたいてやったが、あまり効果はなさそうだ。それでも、
「どっか痛むか?歩けるか?」
訊ねる声音は、さきほど少年たちに向かっている時と違って存外柔らかだった。
「おめぇな、口がきけねぇわけじゃねぇんだろ」
「・・・ん」
「だったらうんとかすんとか返事くれぇしろよ。ええ?てめぇで立てるかって訊いてんだ」
「・・・だ。大丈夫。立てる・・・」
 すり切れた袖口で洟をこすると、少年はようやく頭をもたげて覗き込む秀の顔を見上げた。 秀のいつも不機嫌に結ばれた口元に淡い笑みが浮かぶのを、勇次の目は見逃さなかった。 笑うと思いの外、幼く見える。ふだん見ることもないぶん、それは花がほころんだように眩しく映った。
「ほら、手ぇかせ」
 秀が少年の腕をひっぱって立ち上がるのを助けてやり、二人してそこらに転がっていた天秤棒や籠、 転がった野菜をいくらか拾ってまわった。とはいえ、踏み荒らされてほとんどそれは商売にはならぬ代物に成り果てていたのだが。
「だいてえ、おめぇも悪ぃんだぜ。なんだってここに来た?」
「・・・いつものとこを回る振り売りが出てきて、おいらのお客とっちまったから・・・」
「・・・おめぇと同じくれぇのガキか?」
 少年は黙って首を横に振った。秀の表情がかすかに曇る。 大人か、さっきのガキどものようにこの少年よりは年長の者にうまく立ち回られたら、たしかにこの子に勝ち目はない。 しかし、この厳しさのなかで藻掻きながらなんとか自分が潜り込めるしたたかさを身につけていく以外に、 生き残るすべはないのだった。
「―――じゃ、まあ。つぎは気をつけるんだな」
 少しのあいだ黙って少年の顔を見下ろしていた秀だったが、思い切るようにぶっきらぼうに言った。 その頬についたままの泥を乱暴に手のひらで拭ってやると、ふいと踵を返す。 ところがそのとき、うなだれて突っ立ったままだった少年が、つと手をのばして秀の浅葱色した袢纏の裾を引っ張った。
「なんだ?」
 驚いて秀が振り向く。
「・・・来て」
「あ?」
「お、おいらと一緒に来てくんねぇ・・・おねがいだよ」
「はぁ?なに言ってんだおめぇ」



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