秀は面食らった顔して少年の手を振り払おうとしたが、少年は必死に秀に取りすがる。 「おいら、このまま帰ったら・・・っ、また殴られて追い出されちまう・・・!!」 「それで俺にどうしろってんだ」 「あんちゃん・・・おいらとうちに来て、う、売り物がこんなになっちまったわけを話しておくれよ・・・っ」 「なに・・・?甘えてんじゃねえぞ、ばか。そのくれぇてめぇで親に言えるだろうが!?」 「・・・・・」 そう言われるなりパッと顔を伏せた少年の肩が、新たな嗚咽のせいでひくひくと上下し始めた。 「おとっつぁんがそんなに怖ぇのか?」 「あ・・・あいつはおいらの、おっ・・・おとっちゃんなんかじゃねえや!」 少年は涙と鼻水と泥でぐちゃぐちゃになった顔で、秀を睨み上げて叫んだ。 その激しさを受けて、秀の冷たく見下ろしていた目に、なにかの感情が動いたことを勇次はみとめた。 そのとき、裏の仕事でいままでに二、三度組んだことのあるだけの簪屋に対する、 個人的な興味がはじめて胸の底でうごめくのを感じた。 秀は少年の嗚咽を頭を掻いて眺めていたが、 「新しいおとっちゃんか・・・。そいつがおめぇを殴るんだな?」 今度ははっきりと困った顔になって、今度は少年の目線に合わせて膝を折り話しかけた。 「なぁぼうず。おめぇの辛ぇのはわかった。けどよ、俺もこれから行くところがあんだよ」 少し脹らんだ袢纏の懐を叩いてみせる。 「頼まれてた品が出来たのを、いの一番に得意先に届けなきゃならねぇ。今だってもう随分遅れてんだ」 静かな優しい声だった。少年はいったん溜まっていた激情を吐き出したら堰を切ったように嗚咽が止まらなくなった。 分かってはいるのだろう、秀の言うことに時々小さくうなづく様がいじらしい。 それでも、秀としては自分の仕事を優先させるしかない。 「一緒に行っておとっちゃんに会ってやれたらいいんだがな・・・。俺も約束を破るわけにはいかねぇ」 そのときなにかの気配を感じた秀は、一瞬のうごきで起ちあがり、さっと少年を背にして身構えた。 逆光で陰になった男が、着流しの裾を粋にさばいて近づくのを睨みつける。 そのきつい眼差しが意外な相手をみとめて驚きの表情に変わるのを、勇次は薄い笑いを浮かべ見返した。 「三味線屋・・・?」 ピンと張り詰めた空気が、知った顔を見たせいか、ふっと緩む。が、それはわずかの間で、 秀は勇次に対してたちまちのうちに突き刺すような殺気を放ってきた。 「おい、よしな。おっかねぇ真似はよ」 苦笑して勇次が声をかける。少年には秀の殺気は分からないかもしれないが、 今しがたとはまるで違う緊迫した空気だけは感じたらしい。ぴたりと泣きやむと怯えた顔で秀のうしろに隠れてしまった。 「・・・」 「おふくろの用でたまたまこの辺まで来てな」 「・・・」 「そこの辻の手前でちょいと聞き覚えのある声がしたんで覗いてみただけさ」 「・・・・・なんの用だ?」 「用?」 秀はそらっとぼけるなと言いたげに、勇次の青みがかった涼しい目をにらみ返す。 昼の日中に仕事人同士がツラ付き合わせること自体、好ましからぬ状況なのだ。 ましてふたりが会う機会は、これまで繋ぎの談合を合わせてもせいぜい両の指にも満たないほど。 互いの仕事ぶりに一目は置いているものの、仲間意識とはほど遠い感情しか抱いていなかった。 秀の警戒も判らないでもない。 勇次は内心自分でも、こうしてのこのこ出張ってきた己の行動に呆れながら、つい申し出ずにはいられなかった。 「そう、用だな。ま、いまの話はだいてぇ聞かせてもらった」 「!」 「オレがそのぼうずのうちに一緒に行ってやってもいいと思ってね」 「余計なこ―――」 「ほんと!?」 ムッとした秀がつっぱねる声におっかぶせるように、勇次の言葉に少年が大声をあげたので、 大人ふたりのほうが驚いて会話を止めた。 「おじさん、ほんとにおいらと来てくれるの?!」 いま泣いたカラスがなんとやら。少年は怖がって秀の背後に隠れたことも忘れたように、今度は勇次に駆け寄った。 「あぁ。ほんとだとも、ぼうず」 あまりに嬉しそうな顔が面はゆく、勇次もたじたじとなりながら請け合ってやる。 「おじさんがおとっちゃんたちにちゃぁんと話をつけてやるから、安心しな」 「余計なことすんな、三味線野郎」 突っ立ったままの秀がふいに押し殺した声を投げ掛けた。勇次は黙って秀の凛とした目を見返す。 その眼差しにはしかし、あからさまな反感が浮かんでいる。 介入されることを好まない一匹狼の秀は、どんなときにも己以外のだれかに頼ることをしたくないらしい。 「だがおめぇさんも、さっきぼうずに言ってたろ?一緒に行ってやりたいが、ってな」 ピクッとまた、秀の眉間の縦じわが深くなる。一言なにか言うごとに、歩み寄りとは真逆の恨みを買うはめになりそうだ。 勇次はそのまま見過ごして帰らなかったことをあらためて後悔したが、すでに後の祭りだった。仕方なく、もう一押ししてみる。 「オレはもうあとはうちに戻るだけだ。少し遠回りして帰るだけさ」 「・・・あんたが余計な手をだせば、こいつはまた同じように助(す)けてもらいてぇと思うようになるだろ。 甘えさせるとロクなことにならねぇぜ」 「そいつはおめぇにそっくり進呈してぇな、簪屋さんよ」 「なに!?」 「ぼうずを庇ってやったのはどこのどいつだ。オレは端から見過ごすつもりでいたんだがな」 その一言で、ことの始まりから勇次に全部見られていたと知った秀の顔色が変わった。 はね除けるような険しい表情が色を無くし、かわりに正直なとまどいと含羞とがサッとその頬に浮かぶ。 軽く嬲ってやるつもりだった勇次の心蔵も、同時に一瞬脈打っていた。 無愛想な鉄面皮の下に、こんな可愛げのある素顔を隠していたとは・・・。 これはオレの知らない簪屋だ。秀は勇次から目を逸らしてそっぽを向いたが、 その横顔はさっき垣間見た無防備な笑顔と同じでちょっと幼く、そしてどこか哀しげに見えた。 (もう一度見たい) 思ったときには、すでに秀の顔はいつもの無表情に戻っていた。 「あんちゃん?」 心配そうにこっちを見上げている少年の視線に気づいた秀は眉をしかめ、 「勝手にしやがれ」 一言言い捨てるとフイとふたりに背を向ける。 「ありがと!!ありがとー!あんちゃーん!!」 少年の声があとを追っても、振り返りもしなければ歩みをとめることもない。 「おじさん・・・、あんちゃんどうして怒ったの?」 春の日ざしの下では妙に儚くにみえる細身の後ろ姿をじっと見送っていた勇次は、 少年の心配そうな声に我にかえると、笑って首を振った。 「いや、怒ってなんざいねぇよ。気にするなぼうず。あんちゃんはな、たぶん・・・照れてんのさ」 言ったあとで、そんなことが子供にわかるはずがないと苦笑する。 この先どのくらいのつきあいになるかは分からないが、 命を張る仕事をするうえで、一緒に組まされることの多いあいつの一面をかいま見れたのは収穫だった―――。 つい余計な手出しをしてしまった自分への言いわけがましさも若干感じつつ、勇次はそこは深く考えないことにして、 つい無料で引き受けた仕事(?)をこなすべく、少年と連れだって歩き出した。 それから数日後。勇次が三味の糸を張り替えていると、ふっと覚えのある気配を感じて顔を上げた。 店の入り口の障子ごし、長身の黒い影がほんの少しのぞいている。 「開いてるぜ」 一声かけると、やや時間をおいて障子を開けたのは、思ったとおり簪屋だった。 細い隙間から猫のようなしなやかさでするりと中に入り込み、音もなく後ろ手に障子を閉める。 一連の動きを、勇次は何一つ見過ごさない眼差しで見守った。 「座らねぇのかい?」 すすめたみたが、秀は煩わしそうに軽く頭をふって無視し、黒光りする柱に背をもたせかけ腕組みした。 畳に座す勇次からは、秀の横顔が逆光になって見えている。思いの外、繊細で整った曲線にはじめて気づく。 先だって、秀の後ろ姿を見送ったときのどことない儚さをいまも感じた。 自分の胸が不自然に波打つ振動を、勇次はかすかに察知した。 「・・・で、珍客が今日はなんの用だ?」 軽い動揺をごまかすべく勇次が揶揄ると、秀はちらっとこちらを睨みまた目をそらすと、 「・・・造作かけちまったな」 ぼそりと呟いた。 「なんのことだい?」 「振り売りのぼうずだ」 分かってるくせにと言いたげな口調だった。 「ああ」 「あれからどうした?」 「一緒にいって、てておやにも会ってきたぜ。ま、てておやっていうより飲んだくれのヒモみてぇな屑だったがな」 秀がひそかに眉を顰めるのが、ここからでも分かった。 「心配しねぇでも、ぼうずが殴られねぇように万事計らったから安心しろ」 「心配なんざしていねぇ」 芝居がかった勇次の物言いに即座に言い返す秀だったが、なにか引っかかったらしい。 「三味線屋。おめぇ、銭で話をつけたんじゃねぇだろうな?」 はじめてまともにこっちを見据えられ、勇次はほらおいでなすったとばかり、にやりとして涼しい目を秀に向けた。 「おふくろがちょうど夕餉のお菜にもうひと品のせたがってたからな」 売り物にならない野菜を押しつけてきたのは、厚顔の血の繋がらない父親のほうだった。 見るからに強慾で怠け者で、子供を食いものに己ばかりがラクをしようという腐りきった性根がそのまま人型をとったような男だ。 無意識に嫌悪とどす黒い殺意が腹の底に湧き上がるのを、勇次はむりに抑え込んだ。 そしてもし簪屋がここに来ていたら、と何となくぞっとしない思いがしたのだった。 桜咲く季節の華やぎさえも斜に眺めてしまう自分とは異なり、あの男は卑劣な真似を許しはしない。 仕事人としての裏の顔でなく表のそれであっても、秀は弱い者をいたぶり搾り取るような相手には、 容赦なく立ち向かってゆくのだろう。 少なくともあの父親を、しばらくは少年に暴力をふるう気にならない程度に脅しつけてやることくらいは。 たぶんそれは、秀の本来の性分なのだ。 「・・・まったくよ」 多くを語らず口の端を引き上げたままの勇次に、秀は小さく舌打ちして、無造作な切りっぱなしの髪をがしがし掻きむしった。 「おせっかいのお人好しが。見損なったぜ、三味線屋」 「秀よ、おめぇこそ」 はじめて名前で呼ばれ、秀は一瞬途惑った目で勇次を見た。 「いいじゃあねぇか。裏の仕事と違ってオレは気持ちよかったぜ」 「へっ。ガキに礼を言われたのがそんなに気分いいかよ」 「なんとでもいいな。あのぼうず、あんちゃんにお礼を言っておくれだとさ」 「うるせえや」 秀は凭れていた柱から背を起こすと、おもむろに戸口に向かった。そのいつになく脱力した背中に、勇次は呼びかける。 「秀、おめぇに頼まれて欲しい仕事がある」 「知るか」 「表の仕事だぜ?簪を女にひとつ・・・出来るか?」 無言で肩越しに秀が勇次を見やる。出来るかなどと訊ねるなとその目が語っていた。 「竜胆の意匠に―――、そうだ。燕がいいな」 「竜胆・・・燕?なんでぇそれは。やけに色気がねぇな」 いぶかしげに首をひねられ、勇次は苦笑して慌てて取り繕った。 「だろ?優しげな色気には欠けるし愛想もねぇが、きりりと筋の通った好い女だよ」 とっさに浮かんだ架空の女の姿には、なぜか秀の印象が投影されていた。 裏の仕事以外にこの男と関わるきっかけがないかと思った勇次が、とっさに吐いたウソだった。 そうとは知らない秀は、 「ふん。色男の酔狂か」 くだらねぇとばかり鼻を鳴らしたが、それでも律儀に確認をとってきた。 「造ることは造ってやってもいいが、俺はしばらく頼まれものが続いてるからな」 「いいんだ。そいつはちっともかまわねぇ。おめぇの仕事の口が干上がりそうなときに思い出したら造ってくれりゃぁ」 「バカ言ってんじゃねぇ。俺の仕事が干上がるか!」 切りつけるようにそれだけ言うと、秀はサッと障子を開けるが早いか、一瞬にして姿を消した。 ひとり残されたのは勇次―――。 (なかなかおもしれぇ奴だな、あいつ) 今しがたのやりとりを思いかえして、ふつふつと沸き上がる笑いの止まらない勇次だった。 裏の仕事が入れば、いずれ会うことにもなるだろう。だが、あの頑固ともいえる簪職人とは、べつの口実を作ってでも会ってみたくなる。 今までも幾人もの仕事人と組んでは仕事してきた。しかしこんなふうに個人的な興味を抱いたのは、秀がはじめてだ。 なぜだろうと手を休めて宙に視線を泳がせたとき、ふと勇次の脳裏を、あのとき見た無防備な幾つかの表情がよぎった。 了
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