免 罪 4







 船宿の奥の間で、ふたりは久方ぶりに酒を酌み交わしていた。 いや、酒云々よりも会う事自体が長崎の地以来だ。
 さらに八丁堀たちと組んでいた徒党を解散して秀が江戸を離れたときから考えると、 1年あまりこうして膝を交える距離にいることがなかった。
 そのわりに、示し合わせたように同じ時間に店を目指しているところを、 最後の一本道に出る手前の辻でばったり鉢合わせしたふたりは、 決まり悪さに目を逸らす代わりに、互いの顔を見るなり思わず噴き出してしまっていた。
 会わずにいた時間の空白は、それだけであっけなく埋められた。 照れ笑いを即座に収めて先に立って歩き出すと、勇次も黙って少し離れて付いてくる。 今見たばかりの勇次のまなざしを背中にも感じ、秀の胸の奥で小さな熱の塊が息を吹き返し始めていた。
 銚子を何本かと簡単な肴が届くと、まだ他に客のいない二階の個室は急にシンとした沈黙に包まれた。 岸に打ち寄せる水の音が、障子ごしにはっきりと聴こえるほどだ。
 秀は銚子を手にし、行灯の元であぐらをかく男に差し出した。 盆のうえの盃をとって勇次がそれを受ける。続いて同じことをし返そうとする動きを制し、自分の盃にも酒を注ぐ。
 下ばかり向いていた秀がようやく瞳をあげて無言で顔を見ると、
「ああ」
勇次も懐かしい切れ長の目元を軽く細めて応じた。あとは各々手酌で勝手にやるのは、これまで通りの流れだった。
 それきり、しばし黙々と酒を呑む。時おりちらと勇次がこっちを見るのには気づいているが、 秀もどうして良いか分からず、飲むことでひとしきり時を稼いだ。 静けさが息苦しくなり半分開けた窓の向こう、たまに船の灯が反射する暗い川面ばかりに目をやっていた。
 おりくには請け合ったものの、会って勇次と何を話すのかなどと事前に考えていたわけではない。 ただあの時には、迷いから抜け出た心が自らすすんでそう言わせていた。 あれから二日をおいて、問屋の帰りをよそおい立ち寄った三味線屋で、 表戸からひょいと顔だけを覗かせて時間と場所のみ一方的に告げると、返事さえ待たずにそそくさと立ち去った秀だった。
 格子越しの横顔はこれまでの記憶と寸分たがわぬように見えたが、 不意打ちに呆気にとられてこっちを見ていた勇次の顏は白というより蒼褪めて、頬が明らかにやつれていた。 こうして灯りに照らし出されるとその削げた部分がより濃い影を集め、そもそもの造形が美しいだけに凄みを増す。
 しかし会った時から勇次の表情だけは、これまでと変わりなく平静に落ち着き払っていた。 かつて、河原で仲間たちとそれぞれの今後を選択し別れたときと同じく、まるで何事もなかったかのように。 夜毎うなされているとおりくに聞かなければ、何かに心を苛まれているせいとは気づかなかったかもしれない。
「―――そういやたしかここの女将は、若ぇ頃おふくろに三味線を習ったんじゃなかったかな」
 秀の知る由もない、しかしかなりどうでもいいことを言いながら、こちらの気持ちなど知らぬげに盃を重ねている。
 会うまでにあんなに逡巡する時間を経てきたのに。心の隅で片時も忘れることの出来なかった相手なのに。 いざ手を伸ばせば触れられるほどに近くにいると、俺はいったい何をしようとしているんだという気持ちがまたぞろ沸いてくる。
 八丁堀もいる前で江戸を出ることを宣言しただけで、 面と向かい合うこともふたりだけの状況で話をすることもなく、逃げるように背を向けてしまった。 鹿蔵の一件がなければ、今またこうして自分たちが再会する可能性は万に一つもなかったかも知れないのだ。
 そうやって勇次に自分の意思を示さず、何の答えも残さずに振り切っておいて、 のこのこと再び近づいた身勝手さを今さらながら思い返すと、以前と変わらぬ目を向けてくる男の顔がまっすぐに見られない。
「・・・その。おりくさんといえば・・・。今日俺と会うって話したのか?」
「言ったよ。何かまずかったかい?」
「いや、べつに」
 三味線屋に立ち寄った時には、おりくの姿はなかった。 出先から戻ってきて、元仕事仲間が誘いに来た話を聞いたとすれば、どんな反応をしたのかがさすがにちょっと気になった。 盃の陰から上目遣いをしている秀を見て一瞬動きが止まったのでギクリとしたが、勇次は笑っただけだった。
「お加代ちゃんには会ってるけど、秀さんも元気そうで何よりだねってさ。顏を見たいと言ってたぜ」
 何食わぬふりで驚いてみせたであろうおりくの演技を想像すると、やはりその場に居合わせなくて良かった。
「・・・そうだな。俺もおりくさんには色々と世話になったし。またそのうち挨拶に行くよ」
「おめぇにしちゃ殊勝らしいな。おふくろはおめぇの話をしたら何だか嬉しそうだったが―――」
 愛想なしで通っている自分がそんなことを言い出すとは、たしかに勇次が不思議がるのも無理はない。 秀は曖昧に相槌を打つ。
 違う。こんな話をしたいんじゃない。もっとこいつに訊かねばならないことがあるのに。 話の接ぎ穂を考えているうちに、外の闇に目を向けたまま、勇次がぽつりと言った。
「オレは。江戸におめぇが戻ってくるとは思わなかったよ」
 窓辺に寄った勇次の手元から盃が離れていた。片膝立てた足に片手をあずけ、こっちを振り返る。
 その一言と視線とに前触れなく核心を掴まれた秀は、絶句したままあらたな銚子を取り上げ畳の上に置かれた空の器に近づけた。 勇次の手がそれを制し、そっと銚子ごと掴んできた。ひやりと冷たいが、やはり大きな手だった。
「何があったんだ、秀?」
「―――え?」
「急に会う気になったわけさ」
 さすがに鋭い、と皮肉めいて片側の口角が上がったのを間近で見ながら思う。 おりくと会ったことを白状するつもりは毛頭なかった。 それに何もおりくに言われたからこうしているのでもない。
 たしかに母親としてのおりくの本心を垣間見て、胸に迫るものはあった。 だが、自分がこうしてこの男に会おうと思ったのはそのためではない。秀は勇次の目を見返すときっぱりと答えた。
「わけなんてねぇ」
「・・・」
「俺がおめぇに会いたかっただけだ」
 秀に重なっていた手の力がふと緩む。手を引いた勇次は、なぜか目を逸らしまた外の闇に顔を向けようとする。 秀は銚子を戻した盆を脇に押しやると、今度は自分が勇次の腕に手をかけた。
「―――勇次。お…おめぇの体の傷―――。俺に見せてくれねぇのか?」
 秀の言葉に驚いた顔の勇次が振り返る。無意識に引こうとする腕を掴む指先にグッと力を込め、 秀は下から掬い上げるように勇次の瞳に自分を映り込ませて、再度繰り返した。
「いつも。おめぇはいつも・・・俺の傷痕見て触ってたじゃねぇかよ―――」
「―――・・・。そうだな」
 呆然としたまなざしを秀に捉えられている勇次が、不明瞭に口ごもる。 そのとき秀は、この男に自分がいま出来ることが何かを分かった気がした。
「だろ・・・?だから今度は―――、俺におめぇの傷痕(きず)を見せろ」


 こちらに背を向けて立ち帯を解いた勇次は、腕を抜いた単衣ごと衝立に放ると下帯1枚の姿になり、 無言で秀の前にあぐらをかいた。
 やや投げやりな所作に勇次の苛立ちが見てとれた。 とりあえずは塞がったとはいえ、いまだ生々しさも消え失せない傷痕。動かない背中を見て思った。 勇次は恥じているのだ。そんな自分を見られることに。
 ちらちらと揺らぐ灯りを受けて目の前にさらけ出されたズタズタの背中を一瞥しただけで、 鉄の拳で頭を思い切り殴りつけられたような衝撃に襲われた。話で聞くのと実際に目の当たりにするのとでは、印象はまるで違う。 動悸が激しくなり、急な血液の上昇のせいか耳の奥でガンガンと鳴り響く。
 秀の記憶に残っているのは、幅広い肩から下に行くにつれて引き締まってゆく過不足なく筋肉のついた、 悠々として美しい背中だった。 そうまじまじと見ていたわけでもないが、情事の後に自分が付けた引っ掻き傷をその滑らかな肌に見つけたときには、 ちょっとした小気味よさに加えて淡い所有欲をも満たされたものだ。
 しかし今の勇次の背中のどこに、痕を付けられるというのか。 焼けただれた火傷の痕は、横一文字にでたらめに折り重なり全体をむごたらしく覆っている。無傷な皮膚はほぼ見当たらず、 火傷の上からも繰り返された暴力の苛烈さを、息を詰めて愕然と見つめるしかない秀に物語っていた。 それだけではない。背後から見える範囲ですら、 全身を失血死しない程度の浅さで嬲るように刻まれた、裂傷や刺し傷の痕が認められた。
「―――・・・」
 自分の全身が熱病にかかったように震えているのに気づく。憤怒のあまり無意識に秀は奥歯を軋らせ、 爪が食い込むほど固く両拳を握り締めていた。
「―――見たくもねぇだろう、こんな体」
 やがて勇次が静かに口を開く。嗤いを含むその低い声の何と遠くに聞こえることだろう。秀は音を立てずに固唾を呑むと、 見えていないと知りつつ首を横に振った。膝立ちになりそっともう少し背後に近づく。
「なんでそんなこと言う?見せろと言ったのは俺だぜ」
「・・・」
 答えない勇次に、それ以上かける言葉も浮かばず、秀はおずおずと手を伸ばすと手のひらをそっとその背中に押し当てる。 わずかな身じろぎ。しかし勇次も、今度は自分が触れる側だという秀の言い分を容れたのか、避けはしなかった。
 秀はそのまま顔を近づけ、肌の匂いを確かめる。 忘れていた、もうとうに自分のものではなくなったと思っていた匂いを鼻孔に吸い込んだとき、 今夜会ったときから胸の奥で少しずつ張り詰めながら大きく膨らんでいた熱の塊りが、ふいに弾けた。
 これまで抑えつけていた諸々の想いが、己の内側にドッと堰を切って迸り全身に血液のように広がってゆくのを秀は感じた。 自分では触(さわ)れない場所を掻きむしりたくて出来ないもどかしさ。 それでいてこの物狂おしさは、忘れることの出来ない甘美さをも含んでいる。
 物理的に遠く離れてからも、独り寝の床でふと元仲間の三味線屋を思い出すとき、たびたび甦る切なくも懐かしい感覚だった。 かつてとは見違える様になってもこうして目の前で息づいている男の背中に、今すぐにどうしようもなく縋りつきたくなった。 これは、この傷痕は俺のものだ、と。
「勇次」
「・・・ん?」
「おめぇまだ・・・。まだ俺のこと―――、だ…抱けるか・・・?」
 押し殺した声で問いかける。 押し当てた手のひらを通して、一瞬息を止めた勇次の体の熱が伝わってくる。それは双方の熱を孕んで少しずつ上昇していた。
「―――。あぁ」
「・・・そうか。そんなら抱いてくれ、いまここで。この体ですぐ」
「・・・」
 振り向こうとする肩口に、秀は素早く頭を押し付けた。動きが止まる。 右腕を勇次の脇腹から深く腹の前にまで回して、グッと抱き寄せる。いま口にした言葉の真剣さを伝えたい一心で。
「―――抱いていいのか?いまのオレが、おめぇを」
「うん。いまのおめぇがいい。いまのおめぇの体が・・・俺は欲しいんだ―――」
 自分でもこんな言葉が溢れるように口をついて出て来ることが信じられない。 だがおりくの前で勇次を失くすことが怖いと告白したあのときと同じで、秀に後悔はなかった。
 何があったかを訊き出して、勇次の傷を掘りかえし再び血を噴きださせることに何の意味もない。 そんなことを訊くよりも、いまは口下手であっても精一杯の心を短い言葉に込めて伝えたかった。
 別れる前に本当に言いたかったこと。勇次に知っていて欲しいとずっと願っていたこと。 勇次と出会って関わり合い、否応なく己と向き合わされた濃密な時間と、 自分でも分からないほど深いところでこの男を求めていたと気づくまでの長い迷い。
 そのすべてがいまの言葉に集約されていると秀自身が思えたからだ。
「・・・オレも、おめぇが欲しいよ・・・秀」
 やがて秀の腕に裸の腕を重ねた勇次も、囁くようにそう答えてくれた。




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