免 罪 3







「すまないね、秀さん」
「・・・おりくさん。医者がいるのは―――」
 俯いた顔がその答えだった。
「傷がまだ治らねぇのか?」
 おりくは曖昧にだが首を横に振った。
「いまはもう、湯屋にもふつうに行ってるよ。・・・ひとが少ない時間を見てだけど」
 秀の鳩尾がスッと冷え込む。生傷は塞がったということだろうが、 いざ湯船に浸かってしまえば分からなくても、脱衣所や洗い場ではその体は人目を引きすぎるのだと、後の一言が示している。
「・・・一見して変わりなく過ごしてるようで、前より随分痩せてしまってね。 それに・・・毎晩のように酷くうなされて―――。でも何でもないって自分じゃ言うばかりで」
「そんな状態で、どうやってこっちに帰って来れたんだ?」
 様子を見にすら行かなかった自分が、そんなことを訊ねる資格はないと、口を滑らせた後で気が付いた。
 しかし気まずさに目を逸らした秀の様子にも今日のおりくは気がつかないようで、 ぬるい湯で口を湿らせ、膝に戻した両の掌で湯呑を囲いながらぽつぽつと語りだした。 その声からはいつもの張りが失われ、心細くさえ聞こえた。
 いつまでも仕事をした土地にとどまっていると、どこから足がつくか分からない。 だから各々、一刻も早く長崎を離れる必要があった。
 死んだ与市の施術のおかげか、いったんは昏倒して周囲の気をもませた勇次も、 数日の内にはどうにか起きて歩けるようになった。 錠との別れ際には笑顔で軽口を交わしていた息子の強靭な回復ぶりには、母のおりくさえ舌を巻いたが、 その後の道中ではたびたび高熱を出して宿に倒れ込むこともあったそうだ。
 ムリもない。全身に受けた傷が生癒えの状態で、それを忍(おし)ての強行軍だ。 疲れを解こうにも旅の湯に全身浸かることも出来ず、さりとて消毒しないわけにもいかない。 それでも勇次は、母に荷を持たせようとももっと休みながら帰ろうとも、自分から言い出すことは一切なかったという。
「まあ、勇さんのそういう剛毅なところは今にはじまったことじゃないけどね」
「・・・」
「傷は乾いたからもう大丈夫だと言ってからは、あたしに着替えを手伝わすことさえなくなったのさ」
 苦笑しながらもどこか寂し気な口調だった。深く傷つき弱っているのは明らかに目に見えているのに、 ここまで辛苦を共にした母の情さえも寄せ付けない息子を誇りに思う反面で、もどかしさも感じているのだろう。
「・・・あいつなりに、これ以上おりくさんに心配かけたくねぇ一心なんじゃねぇか」
 分かりきったことしか言えなかった。 本人の口から語られなくとも、その体が勇次の身に起きたことの壮絶さをより生々しく物語っていたことだろう。 傷口の治療が必要な間は仕方ないとしても、その後勇次が母に傷痕が刻まれた肌を見せたくない気持ちは、 同じく傷痕を隠して生きる秀にはさすがによく分かった。
「そう・・・。そのとおりだね」
 過去の己の経験でも拷問や痛めつけられたことは何度もあったが、傷が癒えてのちまでその体験が長く尾を引くことはなかった。 それが単に自分が運が良かっただけだと、加代の話やいまのおりくの沈鬱な表情から今さらにして気づかされる。
 あれからかれこれ、ふた月近くは経とうとしている。 勇次をいまだに捕らえて離さないどころか、より一層闇を深くしている苦悩は、 身近にいながら黙って見守るしかない女の心にも暗い影を落としているのだ。 そこでようやく秀の脳裏に、おりくが訪ねてきたそもそもの目的が浮上した。
「じゃあ、医者を探して何を頼むつもりなんだい?」
 真剣に見開かれた黒目がちの瞳に間近に捉えられて、おりくの方が今度は気まずそうな笑みを浮かべた。
「薬を処方してもらおうかと・・・」
「―――薬?」
「ああ。強い眠り薬とか気鬱に効く薬とかさ」
 知らず眉根を寄せていたことに秀は気づかずに、強い視線を避けようとするおりくの顔を覗き込んでさらに問うた。
「あいつが頼んだのか?」
「―――。そうじゃないからこうしてこっそり探して、 いっそお茶かお酒にでも混ぜて、知らぬうちに服用(の)ませちまおうかと思うんじゃないか。・・・親バカだと笑っとくれ、秀さん」
 ひと息に言い切ると、まるで酒のように湯呑をあおる。 なるほど女の加代にならば、そんな気休めめいた思い付きであっても相談しやすかっただろう。
 秀は無言で目を逸らすと、ふたりの女から聞き知った限りでの勇次のいまの状態を想像する。 おそらく勇次自身、そこまでその影響を引き摺ることになろうとは思っていなかったのだ。 だからこそ現状に足掻く自分を見せたくなくて、心配する母に対しても壁を築いてしまっているのではないだろうか。
 錠が連れ戻った瀕死の態の勇次を豚小屋に匿い、応急の手当てにあたった整体師の与市と、仕事の前に一度だけ密会した。 それがあの鹿蔵の養子という与市にまみえた最後の機会だったが、 その際与市は、勇次自身から頼まれてかなりの荒治療をしたことを秀に語った。大した野郎だ、と呆れた様子で笑いながら。
 この状態ではさすがに死ぬかもしれないと止めたものの、 死んでもいいから治してみてくれと凄まじい気迫で懇願されたそうだ。 腕一本動くようになりさえすれば仕事にかかわれる、と。
 これは仕事じゃねぇ、戦だとあんたが言ったじゃねぇか、と血反吐を吐きながらもまったく引く気のない声で言われて与一は思った。 止めたところで這ってでも、途中死んでもこの男ならば行くだろう。 それが三味線屋の勇次という男、ひとりの仕事人が決めた己のための戦でもあるのだ。
 それでも、脇にひかえて色を失いつつもグッと平静を保ってそのやりとりを見ている母親の手前、 やってやろうとすぐには答えられずにいた。
 私からもお願いします、と短い間をおいて与市の迷いを断ち切るように頭を下げてきたのは、いま目の前にいる女の方だった。

「・・・おりくさん。俺は、あんたのあいつを想う気持ちを笑う気なんか、これっぽっちもねぇよ」
「―――」
 しばらくしてようやく秀の発した言葉に、おりくが切れ長の瞳を上げてこちらを見つめる。
「でもな、ひとつだけ訊かせて欲しい―――。あんたはあん時、何を信じたんだ?与市の腕か? それとも・・・あいつの、勇次の運の強さをか?」
 息子よりも若い、生真面目な顔つきをした男が発した問いかけに、 おりくがその当時のことを思い出すように、やや視線を宙にさ迷わせる。少しの沈黙。
「・・・。ちがう・・・」
 やがてゆっくりと言葉を紡ぎだした。
「あたしは―――。あたしの心を信じただけだった。あの子が自分を信じて自分のためにすることなら間違いないって」
「・・・それでし―――じまったら・・・?」
 ほとんど呼気だけで訊き返す。いまここに居ない話題の中心の人物と、それぞれの立場でそれぞれの関係を深く結んでいる、 ふたりの仕事人の視線が交差する。
「・・・それでもあたしは、自分の信じたことを後悔したりしない」
 強い光に射貫かれて、思わず秀は戦慄する。わが身にその状況を置き換えてみると、 自分がその時その場にいたとして同じことが言えただろうか。そこまでの勇次の決死の願いを聞きながら、 身内の立場でなくとも、仲間として何か言うことが出来ただろうか。
(・・・ムリだ、俺には)
 仲間としてですらない。ひとつしかない命を差し出してまで貫かねばならぬ意志など、認めてやるわけにはいかない。 自分が心にかけた存在が、この世から消えてしまうかも知れないのに。
 それは離れて生きるよりも秀にとっては何にも代えがたい恐怖だった。
 だから拷問死しかけた勇次の姿をこの目で見る勇気が、どうしても出なかった。 いま、この仕事を完遂させるために動いている最中、もしそれを見てしまえばきっと自分はぐらついてしまう。 敵に対する恐れではもちろんない。そうではなくて、この男を失うかもしれないと懼れる心が弱さに繋がることを、 秀自身が予感していた。
 もういい。やめてくれ。死に急がないでくれ。俺の希望を奪わないでくれ。お前が思うほど、俺は強くも勇ましくもない。 独りで生きるのが好きなわけでもない。お前を失くすの怖さに、お前に目の前で死なれること怖さに、 俺はお前から逃げたのに―――
 裏の仲間としてのかかわりだけのはずが、ひとりの人間として固有の名をもつ "勇次" という存在が、秀の孤独な心にいつしか入り込み、 分かちがたく結びついてしまっていた。「つきあいは短い方がたのしいぜ」と捨て台詞を残して去った半兵衛の言はもっともで、 秀の奥底にある本来の飢えを見抜いたうえで突き放したのだろうと、後になってあの急な別れの真意を理解した。
 そうだ。半兵衛のように完全に己を孤絶させることで己の弱さに繋がる要素を注意深く切り捨て、生きていけたらどんなにいいだろう。 しかし自分は・・・そんなふうにはなれない。 マリアのこともそうだが、情が弱さに繋がると分かっていながら、どうしてもその時に揺れ動く心を切り離せない。 それなのに、同時にいつか失われることを恐れて、心を開いた存在に対して臆病になってしまう。
 無条件で相手を愛し、何があろうとその愛に殉じてゆけるほど、己の心を信じられたことが秀にはなかった。
 己を信じることはたしかに、思う以上の力を引き出しもする。神仏や何かの対象を中心に据えると言い訳にも出来るが、 己自身にはそれが出来ないからだ。
 おりくは勇次が消息を絶っている間も、一言たりと息子の安否について触れはしなかったが、 心の中で最愛の息子の死をちらとでも思い描かなかったとは思えない。 そんな折にようやく、夢にまで見た息子が辛くも生還したのだから、 もう仕事のことも他の犠牲になった仲間のことさえすべて忘れて、 自分が生きることに専念して欲しいと願わずにはいられなかった筈だ。生きていたと加代からの知らせで聞いた秀ですら、 心底そう願ったように。
 しかしおりくは、何の希望も自分の外側に求めなかった。 閉じ込めるなどして無理にでも戦線離脱させれば、息子の命は守られるかもしれない。 だが、ひとりの仕事人として生をまっとうすることを望む勇次に、 止める代わりにおりくは究極の愛をもって殉じたのだ。自分の心を信じるというただそれだけの祈りで―――。
「・・・どうやったらそんな風にいられるんだろうな」
 いつの間にか正座した両膝のうえで固く拳を握ったままで、秀がぽつりと呟く。ため息と共に吐き出した。
「俺は、失くすのが怖いんだ・・・。―――あいつを」
 伏し目になった瞼をゆっくりとあげて、おりくがこっちを静かに見つめているのが分かる。 いまの秀に後悔はなかった。むしろ、勇次に言えぬことをおりくの前で口に出してみたことで、 江戸に戻ってからもずっと避け続けてきた自己の問題と、ようやく向き合える気がした。
 いつの頃からか他人よりも、迷いの尽きない己をこそ信じられなくなっていた。 目で見たことはないが、もしひとりひとりに魂というものがあるとすれば、 会うごとにそれが共振し合うのが分かるほどに存在自体惹かれてしまった、それが勇次だった。 そんな心を、魂の震えを、自分たちが闇の世界の住人として出会ったせいだと、 迷妄によるいっとき限りの現実逃避に過ぎないと断じることで、勇次からそして己自身からも逃げ回っていたのだ。
「・・・そうだったのかい・・・」
 秀と同じく呟くように、おりくが口を開いた。
「ありがとう、秀さん」
「―――」
 秀は戸惑いながら、微笑んでいる女の白い貌を振り返った。
「―――え?な…なんで礼なんか―――」
「当たり前さ、嬉しいんだもの」
「・・・?」
「あの子をそんな風にまで思ってくれて、こんなに嬉しくってありがたいことはないよ」
 おりくの言った言葉の意味は分かったものの、思ってもみないことを言われて、秀は顔面から火を噴きそうになった。 慌てて首をふるふる横に振り、その笑顔を遮る。
「ち―――違っ・・・!だっ、だってよ、あんたがさっき言ったことと真逆じゃねぇか俺は・・・!」
 どぎまぎしつつ言い募る。いまさらだがなんて恥ずかしい、さもしい考えを口走ってしまったのか。 大の男が、それにこんな稼業を続けている者が、決して考えてはならないことなのに。
「真逆じゃないよ」
 自分で言って自分でうろたえている秀を優しくなだめる声で、おりくは言った。
「それがあたしにとっても、本心だから」
 ハッとして女の顏を見返すと、その時ばかりは完全な母親としての素顔をさらしたおりくの瞳が、うっすらと潤んでいる。
「それが勇次に云えたらいいけど―――。齢でいけばずっと上の母親のあたしが・・・倅にそんな事を言うわけにいかないじゃないか」
「―――・・・」
「冷静に見えて案外無謀なところもあるからねぇ・・・。生き急ぐあの子にこそ・・・、 失くすことの怖さを知ってるひとが本当に必要なのさ。―――ね?秀さん」

 秀が裏の仕事で利き腕を負傷し、居合わせた勇次が手を貸した夜が契機となって、 ふたりはある時期から身を繋げ合う仲となった。
 その関係が始まったときには長旅に出ていて不在だったおりくが、その後ふたたび勇次と暮らすようになっても、 ふたりの間に何かこれまでと違う変化を感じ取っていたようには見えなかった。 もちろん自分たちもそれに関しては慎重だったし、加代や八丁堀もいまだ何も気づいてはいないはずだ。
 だが、今回の鹿蔵の死に始まった一連の出来事を通じて、秀は三味線屋のおりくという女をこれまでよりも身近に感じるようになっていた。 身近といっても馴れ合いという意味ではない。 一見して秀には及びもつかない非情に徹することの出来る理由として、 勇次というかけがえない存在がいるからなのだと、語らずの背中に接していて気づいたからだった。
 失くすことの怖さから一度は逃げ出した自分だが、おりくは己の内側にもあるその怖れを常に意識しながらも、 それと共存することで独自の強さを身に付けていったのだと。 自分はそんな風になれるだろうか。いつの日にか、逃げずに自分の心に正直に向き合い、信じきれるときが来るだろうか。
 今はまだ分からない。おりくの言ってくれた言葉には面映ゆいながらも救われた気持ちになったのは本当だが、 果たしてそんな弱さを持ちながら、自分はいつまでこの仕事人として生き延びてゆけるだろう。
 ただひとつだけ、昨日の自分とは違うとすれば、それはあの男に、勇次に自分から会う決心がついたことだ。
 心身に深すぎる傷痕を刻み込んだ勇次に、こんな弱い自分が向き合えるという勇気がこれまでなかった。 しかし、勇次の現在の苦悩を引き起こしているのもまた未知の恐怖であり弱さであるとすれば、 それらを分かち合うことの出来るのは、ひょっとしたら自分のような人間かもしれない・・・。
「おりくさん。医者のことだが―――」
 また出直そうと腰を上げたおりくに、秀は呼びかけた。 自分の右腕の縫合をした例のあの酔いどれ医師ならば、繋ぎをとれないこともない。 下品で口汚いしついでに金にも汚い野郎だが、その減点要素が多い分だけ、突出して出来る分野があるのは内心で認めている。 おりくの話を聞けば、たとえ気休めに過ぎないにしても、何か処方薬や対策を授けてくれるはずだ。
 しかし。
「加代が戻ってくる前に・・・、俺が・・・勇次と会ってみようと思う―――」
 振り向いたおりくが、あからさまに驚いた表情を浮かべたので、秀はまたちょっと決まり悪くなった。 突っ立ったまま頭をがしがし掻きながら、それ以上に何も付け加えることも思い浮かばずに下を向く。
「―――そうかい。今日は本当に色々とありがとう、秀さん」
 唄うような声の調子からもスッと背筋の伸びきった美しい立ち姿からも、 ここに来た時まとっていた沈鬱な空気はだいぶ分散されていた。
「べつに。礼には及ばねぇ。お…俺が、てめぇでそうしたいって思っただけだから・・・」
「ふふ。あやしげな薬より秀さんと会うほうが、勇さんにはいい効き目があるかもね―――」
 穿ったような深い意味を含んでいたわけではないだろうに、おりくの言葉につい秀のほうがうっすらと顔を赤らめた。




小説部屋topに戻る