(注 * 暴力描写有り。苦手な方は冒頭を飛ばしてお読み下さい) ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 混濁する意識。 茫茫と雑音しか入らず鼓膜が破れているのかと思ったが、パチパチと泡立つような何かが弾ける音は、 たしかに近くで聞こえている。 刹那、ジュッという音と同時に背骨から脳天までを一気に貫かれる衝撃。 カッと見開いた目の前に火花が散り、真紅から奈落の闇に変じた。 遠く聞える獣じみた咆哮が己の口から出ていると分かったのは、切れた喉の奥に血の味が広がったからだ。 肉の灼ける吐き気をもよおす匂いに加え、背中から盛大に湯気が立ち昇る。痛みと灼熱の区別などとうにつかぬ衝撃に呼吸が出来ず、 天を仰ぐように大きく口を開けて息を吸い込みかけた時、もう一度同じ衝撃が襲いかかった。 ガクリと仰向けに首が落ちる。が、すぐさま髻を掴まれ引き戻されると頬を打たれた。 一言でも口を利くまで気絶させる気もなければ、一瞬たりと苦痛から遠ざけるつもりもないらしい。 関節を外されてぐんなりとした四肢は、両手足を磔にされているから力が入らなくとも倒れることはない。 さっき聞こえたのは、すぐその背後で鉄棒を焼くために焚かれている火の音だった。 そのまた向こう側で、人のものとも思えぬ野卑な鼻息や興奮した高笑いが入り乱れる。 それぞれ今の拷問のことを何やら言っているようだがまったく理解できない。 そもそも思考すらもうまとめられる自信はなくなっているから、 そこに「仲間について吐く気になったか」と日本語の冷酷な男の声が混ざってきても、なんの話だと肚のなかで呟くのがせいぜいだった。 時間の経過もどこにいるのかも、もはや考えの範疇にはない。 分かっているのは二つだけ。 いつから始まっていつ終わるのかも分からぬこの地獄に自分が堕ちてしまったこと。 この地獄を自分から終わらせるつもりは・・・ないということ。 まだ、と付け加えるならば、その時が来るのは肉を切り刻まれ臓物を引き出されて、 口を割らせる贄の役目を果たせない代物へとなり果てた時だ。 しかしこれが・・・あの噂にきく"地獄"ってところなのか・・・。地獄には閻魔がいると聞いたが、 ここはまだほんの入り口、いるのは獄卒(ざこ)ばっかりみてぇだ。 お前の今までの罪を包み隠さず告白せよではなく、別のことを吐けとしつこく強要してくる。 ・・・冗談じゃねぇ。オレの懺悔は閻魔の前に出るまで誰にも、一言だってするもんか。 いまユラリと目の前に立って薄笑いを浮かべて見下ろしてくるバカでかい鬼は、黒光りする木炭のような顔をしてる。 角が見えねぇがそのもじゃもじゃに縮れた頭に隠れてんのか・・・? その鬼が向こうに控える獄卒仲間に何か言うと、一斉に哄笑が上がり賛同する手鳴らし口笛が飛んだ。 ・・・おかしいな。言葉は通じないと思ったが、こいつの言ったことがなぜか今分かるんだ。 『喋る口さえあれば、目は要らねぇよな』 って。 男が重く項垂れた頭をぐいと持ち上げる。真っ黒い顔のなかで、白目の部分と歯だけが異様に真っ白く見えた。 それが最後に目にする光なのか。見た事ないような太い親指が、無造作にオレの目ん玉を ・ ・ ・ ・ 跳ね起きたものの、いま耳をつんざいた叫びが自分の口から出たことに、すぐには気づかなかった。 「――――――――・・・」 真暗の闇のなか、いましがた聴こえていた複数の男達の異国の話し声や雄たけびに近い絶笑が反響し、 勇次は両手で耳と頭をぎっちり抑えこむ。 激しい震えに全身がガクガク揺さぶられていた。 たまりかねて歯を食いしばり布団に突っ伏すと、まるで全力で疾走した直後のように、 心臓がけたたましく跳ね続けていた。 折り畳んだ体のせいで抑え込まれた鳩尾あたりから、悪心のような空気の塊がせり上がる。 勇次は喘ぎながら顔をあげ、手探りでその辺に散らしてあった懐紙をひっ掴むと、こみ上げたものを吐き出した。 苦い胃液しか出てこない。食事はいつものように母の前でうまそうに食ってみせたが、その後またひそかに全て吐いてしまったのだ。 もうずっと、何を食べても味が分からない。食べたいともそう感じない。 それだけでなく、様々な欲求を感じる感覚がいまの自分から抜け落ちていることを自覚しないわけにはいかなかった。 はぁっ・・・はっはっ・・・と肩ごと揺らして短く呼吸を繰り返し、鼓動が落ち着くのを待つ。 耳のなかでガンガンと鳴り響いていた心音が少しずつ遠のくにつれて、鼓膜の奥から眉間にかけてが深く疼いた。 静まり返った闇は秋の初めというにはもったりと重く澱んで肌にまとわりつく。 片手で払いのけようとして、それが自分の掻いた汗だと知った。 顏と言わず首と言わず、手の甲、はだけた胸にまで全身が汗にまみれていた。 さらさらしたそれではなく、べっとりとした脂汗だ。 「・・・」 あらたな懐紙でとりあえず出ている部分の汗を吸い取っていると、何かの気配を感じてふと手を止めた。 閉め切った襖の向こうでささやかな衣づれがしたかと思うと、 「勇さん」 低く母の声が囁きかけた。 「勇さん?大丈夫かい?」 「あ―――。悪ぃな、起こしちまった。何でもねぇよ」 勇次はわざと決まり悪げな明るい声で答えた。襖の向こうは沈黙している。やがて控えめにもう一声かけてきた。 「―――入ってもいいかい?」 「・・・いや、おっかさん。ほんとに何でもねぇんだ。どうか気にしねぇでくれ」 「・・・。分かったよ」 そう言いながら、それでも母はしばしその場から動く様子がなかった。勇次もまた動きを止めて無言でいる。 そのうちやっと気配が薄れ、自室の襖を滑らせる静かな音がした。 勇次は乾いてひび割れた唇から、長く細い息を吐いた。 加代を追い出した数日後。珍しいお客の訪れが、秀を心底驚かせた。 「―――おり…くさん―――」 「いやだね、幽霊でも見たような顔しちゃってさ」 「い、いや!そういうんじゃねぇけどよ」 慌てて秀は、狭いが明るい縁側に持ち出した細工机の前から立ち上がると、開け放した戸口に立つ女と土間を挟んで向き合った。 「・・・その。お久しぶりです」 顔つきも口ぶりも神妙になった秀に、おりくが微笑む。 「長崎以来だね。元気そうでよかった」 「おりくさんも。・・・怪我のほうは?」 おりくも秀と同様に軽傷ながら傷を負っていたのを思い出して尋ねると、一瞬目を泳がせたおりくは、 自分のことを訊かれたと気づいたらしく、直ぐに表情をあらためてうなづいてみせた。 「ああ、あたしはもうすっかり―――。あんたも見たところぴんぴんしてるね」 「俺は大丈夫ですよ」 曖昧に笑って答えたあと、妙な間がふたりの間に落ちた。秀は自分から訊ねることにした。 「あの、今日は・・・?」 救われたようにおりくが応じる。 「それがお加代ちゃんに用があって来たんだけど、留守みたいでね」 「加代ならお使いの仕事にありついたって昨日出かけたよ。ここ三、四日は戻って来ねぇぜ」 「そうかい・・・」 表情は変わらずとも、白い貌に陰りが射したのを見てとった秀は、戸口を離れかけたおりくを思わず呼び止めた。 「あいつでなきゃ出来ねぇ用なのか?」 振り向いたおりくが、小さく笑って首をかしげる。 「どうだろうね。医者に心当たりがないか訊こうと思って来たんだけど」 「医者?」 今度は秀が首をひねる番だった。医者ならわざわざ加代に訊くまでもない。しかしすぐにハタと思いついた。 おりくが云うくらいの医者といえば、その筋の秘密を共有できる特別な医者のことを意味しているのだと。 「・・・おりくさん。ちょっとそこの戸を閉めてくれねぇか」 声の調子が低く変わった秀に、おりくがちらと目を向けると黙って言われた通りにした。 今日は出歩くには陽ざしがまだ強いらしい。閉じた日傘を土間に立て掛けると、 淡く縦縞の入った白練地を流水に見立てて紅葉を散らした小紋の腰を折り、上がりかまちに浅く腰かける。 それを見届け、秀は湯呑みに鉄瓶の湯冷ましを注いで差し出した。 小説部屋topに戻る
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