長崎から江戸に全員が戻ってしばらく。 秀も加代もあれから連れ立って江戸を目指し、現在はまた同じ長屋の隣同士に居をかまえている。 何だかんだとここまで遠慮のないつきあいになってしまうと、江戸まで来てそこで「ハイさようなら」とはさすがになれなかったのは、 「みずくさい」と加代に泣き付かれたせいばかりではない。 明るいのと図々しいのだけが取り柄のこの情報屋は、 どうかするとすぐに素寒貧の乞食行脚にまで落ちぶれてしまう。それでも身を売ったりだけはしないというのが、 加代なりの矜持らしい。 だから目の届く範囲にいれば、せめて食えないとき飯の一杯なり分けてやれると思ったのだ。 一年ほど前に仕事人を解散後、どうしていたと訊いたところ、 あの五百両は残らず行きずりに出会った男にだまし取られたとのことだった。 貰うときには人一倍がめついくせして、大金を手にしたかと思えば爪が甘すぎてもう突っこむどころの話ではない。 憮然として黙り込んだ秀に、本人はあくまで「向こうが寄ってきたの。あたしが寄っていったんじゃないの」と言い張っていたが、 どっちにしても男の見た目や甘い言葉に惑わされて、隙をみせてしまった上での自業自得に変わりはない。救いようのないバカだ。 だが秀とても、駿府を中心に"知らぬ顔の半兵衛"という手練の仕事人と組んでまずは危なげなく暗躍していたのに、 ある晩突如隠れ屋に潜んでいた見たこともない異国の女についほだされて、 長崎くんだりまではるばる危険な旅に出ることになったのだから。 加代の愚かさばかりをあげつらうわけにはいかないと、内心で身につまされたことは否定できなかった。 その代償は結果として法外に高くついた。大阪で、裏の大元締・寅の例会に出席した三味線屋のおりくが、 仕事をわずか百両の値で落札したのは、元夫でもあった江戸の元締・鹿蔵の惨死がきっかけだ。 あれほどの仕事人が十数発もの銃弾を受けて死んだ背景には、 どうやら最近江戸を騒がせていたオランダ商館のカピタン暗殺の事件が絡んでいたらしい。 旅先でまたも昔の仲間たちと関わることになった秀も、 殺される前にカピタンが書き残した機密文書を持つ妹のマリアを守って、目的地の長崎に送り届けるため、 否応なくおりくの狙う黒幕たちとの「戦」に赴くことになったのだ。 カピタンの従者セクンデとその一味、セクンデと組んで抜け荷を扱い利権を一手に掌握する角屋宗兵衛。 残虐さにおいても比類ないケダモノたちと仕事人たちの抗争は、長崎に近づくごとに血で血を洗う陰惨な様相を呈した。 目的は真逆でも、双方が裏社会の者どもとくれば、そこに一糸の斟酌も入り込まない。 寅をはじめとして、影のように元締に従い例会を仕切っていた"仕掛の天平"、 マリアを一時的に匿ってくれた浄泉寺の妙春尼も、直視に耐えぬような凄惨な死にざまを晒すことになった。 おりくと秀はその時の負け戦で、怪我を負いながら辛くも逃げおおせたが、 共に出陣した三味線屋の勇次はその後の行方がようとして知れなかった。 あの時点でマリアと共にセクンデ一味に捕えられ、 長崎沖に停泊中の船の中で仲間の情報を吐かせるための壮絶な拷問を受けていたと知ったのは、 長崎奉行としてあらたに配属されることとなった八丁堀と連れ立って、徒歩にて長崎入りした後のことだ。 セクンデ側にひとり日本人のかしき(料理番)がいて、 それが虜のあまりに強情な忍苦を見かねて秘かにマリア共々逃がそうと動いたところから、勇次はまさに九死に一生を得た。 もっともそれには、女郎の斡旋のためにたまたま船に乗り込んでいた"棺桶の錠"との呼び名の仕事人の加勢あっての奇跡だったのだが。 敵も味方も、あまりにも沢山の血が流れすぎた。赴任は同姓同名で漢字一文字違いの別の仲村主水のほうだったと、 初出仕で判明した八丁堀は、これ以上ないという萎れようを隠すことなく、嫁と姑にいびられながらまた往路を戻っていった。 自分がおりくらの最初の依頼に応えなかったことに責任を感じていたときの、 あの鬼気せまる背中の男と同じ人物とも思えぬ惨めったらしいさまで・・・。 別れ際、 「しばらく裏の話は無しだ。あーゆうことがあったからには大人しくほとぼり冷ました方がいい。 いいか、おめぇら余計なことにこれ以上おれを巻き込むと、今度こそ叩っきるからそのつもりでいやがれ!!!」 そう捨て台詞を残したが、その言にはさすがに誰一人異論を唱える者はいなかった。 諸悪の元をひとり残らず始末して、仕掛ける最後の最後で狙撃された鹿蔵の養子"名倉堂与市"の弔いを済ませると、 あとはマリアと錠が長崎からオランダ領バタヴィアに旅立つのを見届けるだけだった。 三味線屋親子は勇次の傷がどうにか旅に耐えうるまでに回復したら、錠に直接会って仕事料を渡し別れを告げるつもりだと聞いたが、 秀と加代はとある海岸から、遠洋にむけて遠ざかる船影を見送った。 出島の迎賓館で大勢が殺された大変事の数日後とは思えぬほど、出航にふさわしい空とおだやかな潮騒を背景にして、 異国の十字架をかたどった首飾りが秀の手元で空しく揺れている。 実際、マリアとは名前以外になんの会話も交わしていない。 にも関わらず、秀はこの日本国のなかで自分以外に頼れる者のいないマリアにこそ、 同情とも庇護欲ともつかない切ない感情を抱いてしまった。 それが加代の言うように、恋だったのかはいまでも分からない。ただ赤い髪の女のくれた首飾りが、 金目のものではなく彼女にとっての肌守りだったことだけは、言葉は通じなくとも伝わっていた。 ご禁制の品であることには変わりないから、身に付けていて安全なものではない。 それに今回の出来ることならば忘れてしまいたい様々な事々が、見るたびに甦るのも厭だった。 しかしせめて、この長旅が終わるまでは。 江戸に戻って表向きだけでも日常というものを取り戻すまでは。 (俺も何とか生きる。だからマリア・・・、兄貴の分までお前も元気で幸せに暮らすんだぜ) 秀は道中の護符として、再び外からは見えない胸の内側にそれを吊るすのだった。 「なんだかさぁ、ちょっと気になるんだよね〜」 暇にあかせて細工仕事の邪魔をしにやって来た加代が、デカい声を急にひそめたので、嫌な予感がした。 ちょうど三味線屋に顔を出してきたとの話を始めたところだったからだ。 あれ以来、あの母子には一度も会っていない。加代は江戸に居をかまえると時をおかずして自分から訪ねていったが、 秀はどんな顏して会いにゆけばいいかも、また口実らしきものも思い浮かばぬまま、日にちだけが過ぎ去った。 江戸に自分も戻ってきたことは、もちろん加代から聞いているはずだから、互いの情報は会わずとも筒抜けである。 いまはまたしがない定廻り同心として、不貞腐れた顏で埃っぽい市中を歩き回っている二本差しの馬面も、 遠目に見かけたと聞いたが、加代もさすがに近づいて声をかけることまではしなかったようだ。 しかし、同じ町人の三味線屋には遠慮なくしばしば顔を出しているのだった。 「・・・気になるって、なにが」 何か思う様にそこで言葉をとめたままの加代に、秀も仕方なく反応する。勇次のことが気になっていないわけじゃない。 むしろその逆だ。だが自分から口に出せば、妙に不自然な言い方になりそうな気がして今まで黙っていた。 「うん。勇さんの顔色があんまり良くなかったの」 秀は細工に顔を近づけるふりして表情を隠した。つとめて怪我のことを遠ざけるように、何でもないふうに呟く。 「風邪でもひいたんじゃねぇのか。このところ急に冷え込む日があるからな」 しかし加代は、即座にそれを打ち消した。 「違うよ。顔色の悪さとやつれ方が、前に行ったときよりも酷くなったんだもん」 「けどよ。おりくさんが居るんだからほんとに様子がヘンなら、あいつに何とか言いそうなもんだろ?」 「それがさ・・・」 加代の懸念は勇次のみならずおりくにも向いていると知って、秀は思わず手をとめて加代の顔を見返した。 「おりくさんも、勇さんが何でもないように振る舞っているのに、何も言えずにいるような感じなんだよね・・・。なんで?」 「知るかよ、俺がそんなこと。大体ぇ、おめぇの言う『ような感じ』ってのは何だよ。証拠でもあるってのか?」 曖昧な物言いに苛立って問いただすと、加代は思案顔で腕組みしたままその時にあった些細な出来事を口にした。 撥を取っておくれと母に言われた勇次がそれを手渡そうとした時、するりと手元から撥が滑り落ちたというのだ。 「そんなこと誰だってやるじゃねぇか。ボッとしてて手元が狂うことくらい俺にだってあらぁ」 「ほら、だからよ」 秀の言葉尻を捕らえて加代が真顔で切り返した。 「あの勇さんに限って、うわの空でいたことって今まであたしが知る限りほぼ無いと思うんだよなぁ」 「・・・」 「現にさ。取り落とした勇さんもだけど、おりくさんも急にハッとした顔つきになっちゃって、あたし慌てて目を逸らしちゃった」 この不躾な加代を焦らせるほどに、その場の空気はぎこちないものに変わったらしい。 それで加代は、勇次がおりくに対しても、自分は変わりないように振る舞っているのではないかと瞬時に疑ったというわけだった。 「・・・それで何が言いてぇんだよ、おめぇは。あいつが何かひとりで隠し事してるとでもいうのか?」 「たぶん。きっと"あの時"のことが、まだ勇さんを苦しめてるような気がするの、あたし―――」 「・・・」 "あの時"とわざわざ区切るような言い方をした加代は、正直に無言でその顔を凝視してしまった秀に、眉をひそめつつ続けた。 「秀さんは見てないけど、あたしは仕事が終わったあと、勇さんの様子を見にいったから言うんだけどね、 ・・・ほんとによくこんなにまでされて耐えてたな・・・仕事したなと思ったよ・・・」 その大きな目にみるみるうちにいっぱいに溜まった涙に、秀のほうが慌てた。 「おい、何いまさら泣いてんだよ!」 「だって・・・、だってさ、ほんとに死人かってくらいな顔色で・・・。 おりくさんの方もおんなじくらい真っ青になって付き添ってた・・・」 自分が勇次と大阪以降に顔を合わせたのは、最後の仕事に赴くときだった。 やれるのかと危ぶんでいたがやって来た勇次は、あくまでもいつもの三味線屋らしく蜉蝣のような羽織を纏い、 痛みなどどこにも感じていないといった平静な顏をしていた。 迎賓館に出島の外側から錠の用意した小舟で侵入したあと、囃子芸者に扮しておりくと共に先に宴の席に入り込んでいた加代が、 場を混乱させるための爆竹を秘かに届けてきた。 箱に入ったそれを互いに懐に詰め込みながら、秀はふと、目の前の勇次を見た。 勇次の視線は下を向いていたが、いつもの白い肌が間近でみればむしろ蝋色をしていてギョッとしたことと、 こめかみから首にかけてびっしょりと水を被ったような脂汗に覆われていたことを思い出した。 天才的な整体術を持つ与市から、荒治療を受けてどうにか仕事が出来るように仕立てて貰ったとは聞いていたが、 死人に近い顔色の勇次からは、秀も歯の根が合わなくなりそうなほどの殺気が漲っていた。 一度はもう会えないと諦めていた男。それが生還し、あまつさえ満身創痍の身を休めることすら拒み、 己のすべてを賭けていま自分と共にこの決戦に挑もうとしている。あごからポトリと流れ落ちた汗のしずくをみて思った。 俺が一人でも多くの敵を倒してやる、と。 秀は死に物狂いで戦った。煙と火の充満する館から自分は海に飛び込んで脱出したから、その後のことは知らない。 加代の話によれば、勇次はそれから気を失って錠に抱えられ舟で運ばれたとのことだ。 長崎からの加代との道中でも、起きたことについては互いに口を閉ざしてバカ話ばかりしていた。 自分たちが江戸であらたな住いを見つけて落ち着いたところに少し遅れて、 張りかえ処がのれんを出していたと加代が息を弾ませ駆け込んで来た時には、内心心底ホッとしたものだが。 それからひと月近くが経とうという今になって、こんな話を聞くことになるとは思いもよらなかった。 「―――傷が治ってねぇのなら・・・、なんでおりくさんに隠す必要があるんだ」 いつの間にか道具を投げ出し、片膝のうえに置いた右手の爪を噛みながら絞り出した秀の低い呟きに、 加代が小さく鼻をすすって答えた。 「体だけじゃないんだよ、勇さんが受けた傷は」 秀はまるで自分が分からず屋と責められた気になって、キッと加代をかえりみた。 「あいつも仕事人なら、捕まろうと何が起きようと覚悟の上のはずだ。どうなろうと俺たちが気にすることじゃねぇ。違うか!?」 「冷たいねぇ。勇さんが口を割らなかったからこそ、あたしらこうして今いられるんだよ。忘れた?」 「っっっ!忘れてねぇよ馬鹿野郎!でも、だからって・・・どーしろってんだよ!!ありがとうとでも言やいいのか!?」 激昂する秀の剣幕に、加代が呆れた目を向けた。 「誰もそんなこと言ってないじゃない。ただあたしは勇さんのことが心配で・・・」 「―――だったら勝手に自分でしてな。おめぇが妙なこと言い出すからだぜ、加代・・・」 「秀・・・」 「もう出てけ。俺の邪魔しねぇでくれ」 小説部屋topに戻る
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