狭い裏長屋の路地は昼間の熱も冷めやらず、どぶ板の下の臭気を含む重たい夜気が、 無風の闇のなかに澱んでいた。 うだる暑さにばてているのか、どこかで犬の力のない吠え声がする。 一番奥まった部屋の主が、ほの暗い板間でその遠い声に耳を澄ませた時―――。 「・・・?」 小さく戸口を叩く音が聞こえた気がして、男は一瞬息を殺し、戸口を注視した。 「・・・雄太郎。居るか?」 「!?」 空耳かと思った小さなその音にくわえ、若い男の押し殺した低い声が自分の名を呼ぶ。 ビクッと身を起こした雄太郎は音を立てぬよう部屋の隅に後退し、 片膝立ちになって戸口を睨み付ける。胸元に差し入れた手に、隠し込んだ小柄を握りしめた。 「―――雄太郎。いるんだろ?・・・俺だ。秀だ」 「・・・・・ひで・・・」 首をかしげたが次の瞬間、雄太郎の細い目が大きく見開かれ、背中から弾かれたように土間にまろび降りた。 「ひ、秀・・・?ほ・・・ほんとにおめぇなのか!?」 あまりに久しい名乗りに途惑いながらも押し殺した声で誰何すると、 たしかに聞き覚えのある耳触りの好い笑い声が、戸口越しにかすかに聞こえた。 「ああ。ほんとに俺だ。簪屋の秀だよ」 「・・・いまさら何しに来た?」 確認後に警戒を含んだ声になったのは、秀もなにかの追っ手ではないかといぶかった為だった。 むろん、よもや秀が自分と同じ裏世界に棲む者と成り果てたことは知らずに。 「驚くのもムリはねぇ。・・・ただこないだ久しぶりにおにやすのとこに行ってみたら、 おめぇが辞めたって聞いてよ。遅くなったが気になるんで来てみたんだ」 「何もねぇよ。放っておいてくれ!」 少しの沈黙。戸口越しに秀が小さくため息を吐くのを、雄太郎は聞いた。 「ガキの頃の古いつきあいじゃねぇか・・・。ツラくらい見せてもバチはあたらねぇ」 そこまで聞いて、ようやく雄太郎は秀を中に入れる気になった。 「・・・・・待ってろ」 心張り棒を外してソッと板戸を引く。 そこには胴のひょろ長い自分の目線よりやや下から、あの懐かしい黒目がちの瞳が雄太郎を見上げていた。 「―――秀・・・」 後ろに下がると、細く開けた隙間からしなやかな黒い姿がするりとなかに入り込み、音もなく後ろ手に戸を閉めた。 「そいつもするのかい?」 問われて視線の先をみれば、心張り棒を手に持ったままだった。 「あ、いや・・・。ぅ・・・うん、そうだな」 誰も入っては来られないようにすると、二人は黙ったまま板間に上がり込んだ。 小さな灯りのもと、あらためて互いの顔を見合わせる。 「何年ぶりだろう」 「さあな。おめぇはあれからまた背が伸びたのかよ。首が痛くならぁ」 変わらない秀の口の悪さに、雄太郎はやっと相好を崩した。 「そういうおめぇこそ背だけは伸びてるがちっとも変らねえな。でも何だか猫みてぇな動きをするようになったじゃねぇか」 「・・・そうか?」 秀は曖昧に笑う。そしてふと思い出したような素振りで真顔になり、雄太郎に訊ねた。 「そんなことより雄。なんだっておめぇ、やおはんを出ちまったんだ?続いてたじゃねぇか」 「・・・いやなあ。ここまでなんとかやってきたが、 やっぱりオレには版木彫りなんて根気の要る仕事は性に合わなくってな。 親方のガミガミにもほとほと愛想が尽きちまって―――・・・」 雄太郎は苦笑いして、顎の辺りを手のひらでしきりに擦る。 それはなにか後ろめたいことや隠し事があるときによくしていた仕草だったことを、秀は思い出した。 「そうかい?親方はおめぇの仕事ぶりをかなり買ってたみたいだったぜ。引き留めたが出てっちまったとがっくりしてたよ」 「・・・・・」 ぱたりと膝に手を落とした雄太郎は、無言でうなだれ横を向いた。 その反応を見た秀は膝を詰めると、低い声でささやいた。 「なぁ、雄。ほんとのことを言えよ・・・」 「ほ、ほんとのこと?なんのこった」 細い目が落ち着きなくしばたかれる。 「・・・おめぇ、誰かに強請られてるんじゃねぇのか?・・・昔のことで」 ぎょっとして顔を上げた雄太郎が秀を見返す。秀も目を逸らさなかった。 「秀!?なんでそんなこと・・・」 「親方から話を聞いたが俺はどうも、おめぇの急な変わり身が腑に落ちなくてな。 一度ここに来てみたが・・・おめぇは留守だった」 「・・・・・」 「それでもう一度おめぇにほんとのとこを訊きてぇと思って、こんな夜遅くに来たんだ」 雄太郎は秀の追求に逃げられないと観念したようだった。何度かごくりと喉を鳴らすと、掠れた声で呟いた。 「おめぇ・・・どうしてそれを―――」 「おめぇだけじゃねえ。ゆきのも同じ目に遭ってるんじゃねぇのか・・・?」 「!!!」 細い目を恐怖に見開いて雄太郎が秀を直視する。雄太郎が何か口を利く前に、 秀が膝の上に固く握り込まれた雄太郎の拳に、素早く手を置いて続けた。 「驚かせて悪かったな。俺もほんとに偶然、そのことを知ったんだ」 自分の住む長屋の隣人が何でも屋で、ある店の女房の人捜しを頼まれたこと。 女が残して出て行った簪をなにか分からないかと持ち込まれ、 その時ゆきののものだと気づいたこと・・・。おにやすに話したのと同じような説明を雄太郎にも物語った。 「俺は、なんでも屋にはまったく分からねぇと言っておいた。それでまずおめぇに会って話を聞こうと思ったんだ」 「・・・・・そうか・・・」 雄太郎は苦しげに喉で嗤った。 「よりによっておめぇに見つかっちまうとはな。やっぱりあの簪は特別だったんだ・・・」 「・・・それでゆきのは今、どこにいるんだ?」 「秀・・・・・!」 誰にも言えず苦しんでいたところに最愛の妹の安否を問われた雄太郎は、 そこから堰を切ったように旧知の友にことの顛末を吐き出した。 雄太郎の語ったところは、先刻聞いた加代の説明の不足をほぼ埋める内容だった。 懸念どおり、ゆきのは松蔵の屋敷に軟禁されているという。 兄と妹は引き離されず屋敷の奥座敷の同じ場所に寝起きすることを許されているのが、不幸中の幸いといえた。 というのも、死んだ親分の遺児に対する仕打ちに、松蔵のような悪人でも多少なりと恩情を与えたものとみえる。 とはいえ、ゆきのを見る松蔵の舐めるような目つきは、 いずれそうした堰をも越えて無体を加えかねない危惧と不安とを、兄妹に与えていた。 「オレとゆきのは、おめぇがこの長屋を出てからもしばらくは一緒に住んでいた。 あっちの稼業は親父が近づくなと止めてくれたおかげで、オレたちは何とか平和に暮らしてたよ・・・。 だが親父が卒中で死んじまってから、いろんなことが変わり始めた―――」 おにやすの元で十代半ばから修行を積んでいた雄太郎は、父の死を潮時に裏社会から完全に足を洗い、 かたぎの版木彫り職人として生きてゆくことを決意した。 またゆきのも、通いの女中奉公の口を探してきて、そこで熱心に働くようになったのだ。 「ゆきのが奉公先の旦那に見初められたと聞いたときは驚きよりも嬉しかったぜ。 大げさじゃなくって、天にも昇る気持ちってのはこういうもんかなぁと・・・」 「・・・・・」 野の屋は丁稚と番頭、女中をひとりずつ置く程度の、ほんの小さな商いの小間物屋ではある。 それでも雄太郎やゆきのにとっては、 これでふたりお天道様のした大手を振って歩けるようになったと手を取り合って喜んだのだった。 ゆきのは旦那には、生き別れの兄がいるだけの天涯孤独の身の上だと説明し、 それ以上のことは何も訊かずにいてくれることを条件に、二十近く歳の離れた男の妻になった。 しかし旦那はゆきのをそれは大切にし、雄太郎もこれでもう何も心配いらないと安堵しきっていたのだった。 「オレはゆきのに、長屋を訪ねるのはもうこれきりにしろと言い聞かせた。 ゆきのはずいぶん寂しがったが、それぞれのささやかな仕合わせを守り抜くほうが大事だと思ったんだ。 それでゆきのとは春が二回巡るあいだ、一度も会わずにいた・・・」 状況に異変が起きたのは今年の、菖蒲の花が咲き揃う時節だった。 「松蔵の使いだという岡っ引きがある日オレを訪ねて来やがった・・・」 長五郎と名乗る蛇のような目つきの目明かしは、懐に隠し持った十手をちらつかせて、 昔の話を聞かせてもらおうかと雄太郎に迫ったという。 その際、自分とゆきのの名を長五郎に教えたのが松蔵という男だと聞かされたときから、 雄太郎の地獄は始まったのだ。 「あの野郎は―――松蔵は、親父のしたにいる時分からもう、 隙あらば親父を出し抜いててめぇがのし上がることを考えてるような男だった」 父親の突然の死を機に空中分解を遂げた一家だったが、飢狼のような松蔵がその後金貸しへと転身し、 悪辣な腕をふるっていると噂に聞いても、雄太郎はさもありなんという感想しかなかった。 「あの野郎なら、どんなあこぎな手を使ってでも欲しいものは手に入れる・・・。 案外地道なつとめになる掏摸を続けるより、濡れ手に粟の金貸し稼業はお似合いだと思ったよ」 ところが、長五郎を通じて居場所を突き止めた松蔵は、 それからたびたび長五郎を使いに寄越し、雄太郎を自分のもとに呼び寄せようとし始めた。 最初の頃こそ、このチンピラまがいの目明かしに幾らかの銭を握らせて帰したり、 もうそっちの世界とは無関係だとすごんでみたりもしたが、次第に松蔵の恐喝は執拗になってゆく。 「そのうちおにやすのところにも長五郎が顔を出すようになってよ。ただでさえあのガミガミに、 おめぇいったいあのチンピラとどういう付き合いなんだって散々責められるし・・・」 松蔵の招きにいつまでも逃げ回ることが出来ないと観念した雄太郎が、ある日ついに松蔵の店を訪ねてゆくと、 「・・・驚くじゃねぇか、店の奥の屋敷んなかで、なんとゆきのが青い顔して松蔵の後ろに座ってるんだからな」 雄太郎は、ゆきのの元にも松蔵の手が及んでいたことを今になって知り、 自分に降りかかる火の粉を払うのに精一杯で、妹の身を案ずるのをすっかり失念していた己を心の底から呪った。 ゆきのも度重なる長五郎の脅迫に怯え、 旦那やお店に迷惑がかかることを懼れてみずから松蔵の元に来ることを決めたのだった。 「松蔵の言うにはほんのいっときだけ、昔の手業を自分のために役立てて欲しいと、そう言うのさ。 大奥に貸し付けるまとまった金子が必要になったから、そいつを集めるあいだだけ協力しろと―――」 目標額を稼ぐまでは、松蔵の家から出ることは許されない。しかし雄太郎はやおはんを辞め、 長屋を引き払うという口実のもと、うちに戻ることを一時的に許されているのだった。 ただしゆきのは、雄太郎が逃げ出さぬよう、松蔵宅に留め置かれている。 「オレはゆきのを見捨てててめぇひとり逃げおおせようなんざ、毛の先ほども考えちゃいねぇ。 だが・・・このまんまじゃオレたちはまた元の世界に引き戻されちまう」 「・・・」 「長五郎の監視つきで幾つかの縁日に出かけて、何度かもう仕事をさせられたんだ」 「!」 秀の視線を逸らすように顔を背けながら、雄太郎は悔しげに声を絞り出す。 「オレもゆきのも、仕事するのはほんとに何年ぶりだってくらい久しぶりだったってのによ・・・。 この体が、手が、しっかり仕事を覚えていやがった・・・・・!」 ふたりは短時間のうちに見事なまでの成果をあげ、手妻のような鮮やかな手口に見張りの長五郎さえ舌を巻いた。 「オレたちにしてみりゃ、松蔵のいう金子をとっとと狩り集めてここから出たい一心だったんだ。 だが松蔵は・・・。だんだんとオレたちを子飼いにする腹づもりを隠そうとしなくなった」 長五郎が捜し当ててきた元掏摸仲間は、他にふたりいて、 そのふたりは今でも現役の掏摸を続けていたため、松蔵からの誘いには一も二もなくやって来た。 「オレとゆきのはいま、松蔵の家で針のむしろに座らされてる・・・。誰も松蔵に楯突くやつはいねぇし、 あのチンピラ目明かしが用心棒がわりについてりゃ、オレたちが逃げだしたところで、 あっという間にお縄になるだけだ」 そうすれば、やおはんや野の屋にも多大な迷惑をかけることになる。 いわば恩人である両者に世間の目が向けられるような真似は、雄太郎もゆきのもぜったいにしたくなかった。 「そうだったのか―――」 ひょろ長い胴体を丸めた雄太郎は、細い目を糸のように寂しく笑わせて秀を見た。 「オレたちが黙って元の黙阿弥に戻れば、いつかは親方も野の屋の旦那も諦める・・・しかないよな・・・? 所詮、かなわぬ夢を見たオレたちがバカだったのさ・・・」 「雄太郎」 秀の低いがよく通る声に呼ばれ、雄太郎が憔悴しきった顔をのろのろと上げる。 「よく聞けよ。・・・俺がおめぇたちを、松蔵の家から連れ出してやる」 「!!?」 「二日後の夜、芝増上寺の鐘が鳴り終わる頃におめぇとゆきのの部屋に俺が忍んでゆくから、 それまで必ず――二人で離れずにいるんだぜ」 「―――お、おい秀?いきなりおめぇ何を言い出すんだ!?」 雄太郎が面食らった、というより呆気に取られて困惑した声を上げた。 この勝気な性格の昔なじみが、怒りのあまり突然気がふれたのではと驚いたのだ。 「松蔵の店なら誰だって入れるぜ。だがその裏の屋敷には、縁者以外は誰も入れねぇんだ」 雄太郎はまるで秀が、正面切ってふたりを解放しろと、 松蔵および長五郎に掛け合いに来るとでも思っているようだった。 癇性気味にくっくっと肩を震わせる雄太郎のひそめた笑いが灯火を揺らす。 「・・・バっカだなぁ秀よ。素っ堅気のおめぇみたいなやつが押しかけたところで、 あいつら洟もひっかけやしねえよ。逆に叩き出されて痛ぇ思いをするのが関の山だ」 「・・・」 「それどころか、長五郎によけいな目を付けられちまう心配があるぜ。 オレたちのことはもう忘れてくれ。あの世界に戻れば・・・、これでもかなり重宝がられるんだぜ。 松蔵がうまくやるあいだは見つかる心配もねぇ。 オレもゆきのも、言いなりになってりゃ命まで取られる気遣いはねぇんだから」 秀は喉元まで、自分の秘密を打ち明けかけた。 説明が出来たらどれほど手間が省けるだろう。しかし仕事人の鉄の掟を思い出しすんでで堪えた。ひとつ、 仕事を見たものは誰であろうと生かしてはおけない・・・。そして自分はいま、 もうひとつの禁を破ろうとしている。仲間は残らず始末するという掟を。 「いいから黙って聞けよ、雄太郎。俺はどうにかして、おめぇたちの部屋まで辿り着く。 屋敷内の詳しい間取りと出入りの面子を教えてくれ」 「秀・・・?さっきからおめぇは一体ぇ何を言ってるんだ・・・?」 「俺のことはいいんだ。いまは何も訊かねぇでくれ。―――頼む」 不意に頭まで下げられ、雄太郎が当惑した顔のまま口を噤んだ。 「・・・秀―――」 「もう一度、自由になるんだ。・・・おめぇとゆきのだけは」 そう言った直後、秀は素早い動きで無言で振り向くと、何かの気配を察したように息を殺した。 ギョッとして固まる雄太郎を尻目に、まったくの音も立てず土間へ飛び降り、腰高障子のすぐ下にひたと身を屈める。 「・・・お、おいひで」 「シッ!」 しばらく息を潜めて、外の気配を伺う。 「・・・・・・・」 気のせいか、と秀はようやく警戒を解いて身を起こした。ほんの一瞬だが、 なにか知っている気配を感じた気がしたのだったが。あるいは気が張り詰めすぎて、 疑心暗鬼になっているのかもしれない。 振り返り板間に目をやると、雄太郎が恐ろしいものでも見るかのような目で、 こちらを凝視していることに気づいた。 「・・・すまねぇ、気のせいだ」 「―――秀・・・・・おめぇいったい、何者だ?」 秀は黙って雄太郎を見つめた。 「い、いや違う。おめぇは何者になっちまったんだよ・・・?秀・・・」 「なにも訊くなと言ったはずだぜ、雄太郎」 板間に足をあげると、雄太郎の蒼白の顔が強ばる。それは無邪気な時代の記憶を共有した友を見る目ではすでになく、 素性の知れない他人を警戒するそれへと変じていた。秀の胸の奥が音を立てて軋んだ。とはいえ、 それはほんのわずかの間のことだった。秀の瞳からわずかな感傷の色も消え、代わりに獲物を狙う猛禽の怜悧さが浮かび上がる。 「悪いようにはしねぇ。俺と松蔵と、どっちを信じるか、おめぇが選べよ、雄太郎・・・」 盥に汲んだ水のなかで、秀は一本の簪を念入りに磨いている。 ふつうの簪にもよくあるように、先端には煌めく板飾りが揺れている。 が、先端に向かうほど女の髪に挿すだけにしてはあまりにも鋭利すぎるそれは、 簪を模した秀仕様の仕事の道具であった。 「・・・・・」 水を弾き冷たく光るその切っ先を、目の高さにかかげて秀は見つめた。 数えきれぬほどの悪党どもの命を屠ってきたこの獲物だが、 大切な友が本当の自由を得るために遣うことが、果たして出来るのか―――。 仕事人たちが動く前に、二人だけはどうあってもあの屋敷から救い出さねばならない。 加代たちの決行がいつなのか、それは秀にも分からなかったが、時間に猶予がないことだけははっきりしている。 今夜、秀は単身で松蔵の屋敷に忍び込み、雄太郎から詳しく聞いたとおり二人の居室へと向かう。 強面の長五郎が出入りしている分、逃げられる心配はないと枕を高くしているのか、 部屋の前に見張りなどはついていないというから、 どうしても通らねばならない別の部屋の前を無事切り抜けられるかだけが、目下気になるところだ。 今回は殺しが目的ではない。まして雄太郎たちのいる前で仕事を見せるわけにはいかなかった。 出来るかぎり秘密裏に脱出させることだけを目指すのだ。 それでも万が一見つかったときになんらかの乱闘は・・・・・ (いや。考えたって仕方ねえ。雄太郎には俺がいなくても逃げる手はずは授けたんだ) 事前に逃亡用の小舟を、近くの古びた渡し場の葦の陰に、路銀や少しの身の回りの品を入れて隠しておいた。 二人がそこに辿り着くまでの少しの間だけ、自分が金庫の金目当てに押し込んだ強盗を装って、 追っ手の追跡を攪乱し食い止められさえすれば良い。 二人には江戸を出て別天地を探せと言ってある。そこで新たな生活をはじめればいいのだ。 二度と会うことはあるまい。 秀はかすかに胴震いをし、もう来るところまで来てしまった、と思った。後には退けない。 どっちにしろ、自分はあと数日の命だ。いまさら思い残すことなど・・・。 そのとき、盥の水の揺らめきになぜかふと、ひとりの男の静謐な眼差しを連想した。 練達の技を駆使して血の一滴もみずに確実に息の根を止めてゆく勇次の、 迷い雑念の一切を排した水鏡のように美しい黒い瞳。 虚空にぽつんと浮かぶ冬の月にも似て冷たくも、どこか哀しく見えるあの瞳が自分の心を確実に捉え始めたのは、 いつからだったのだろう。 見た目通りの冷笑的でいけ好かない色男かと思っていたが、 印象とはかなりの温度差があることを、少しずつの関わりのなかで知るようになっていった。 売り物にならない野菜を振り売りの少年から買ってやったり、育ての親の大事にうろたえたり、 あげくに秀が拾ってしまった猫の里親さえ引き受けた、そして――――・・・ 『オレは・・・。どうやら惚れちまったみてぇだ・・・おめぇに』 少し前、勇次が突然自分に告げたあの告白を、 あのときの眼差しや声の調子まで秀はまざまざと覚えている。 自分と同じ男から、そんなことを言われたのは初めてだった。それだけではない。 誰かに想いを告げられて、ここまで烈しく心乱され不意に突き上げてきた感情に胸を焦がしたことはなかった。 (・・・まったく、おめぇもとんでもねぇ物好きだぜ。俺もひとのことは言えねぇけどな・・・・・) 長屋に戻りたくなくて、千々に乱れる物思いに身を委ねて数日あてどなく近郊を彷徨っていた。 その間幾度となく、あの時の自らも苦し気に囁いた勇次の声を、触れそうになった指先を、 秀は思い返しては眠れぬ夜を過ごしたのだ。 女に贈る簪を依頼したその口で、秀を真顔で口説いてくる男の真意は、もはや分からぬままになったが、 知ったところで仕事人の男ふたりが仕合わせになれようはずもない。 その現実だけは、やっと今になって己の胸に落ち着かせることが出来た。 (きっとこれで良かったんだ・・・。おめぇと出逢ったのは間違いだった、勇次―――) 今夜の首尾がたまさかうまくいったとしても、 自分の仕業であることはまもなく八丁堀たちも知るところとなるだろう。 仕事人の禁を犯した者には、同業の者による制裁、粛清が待ち受けている。 単独で死闘を演じ、終いには八丁堀の白刃に一刀両断にされるのか、おりくに喉を裂かれ息絶えるのか・・・。 (どっちでもいいが、おめぇの手にかかるのも悪かねぇ・・・) 秀はなんだか自分でも不思議に死の恐れが遠のくのを感じ、ちょっと笑って懐に簪を滑り込ませた。 続
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