秀、迷走する 2







 息せき切って長屋に戻った加代は、その足で秀の家に押しかけた。 かざり職とだけ書かれた小さな木ぎれを軒につるした戸障子をがらりと引き開け、
「秀さん居る〜??」
 秀は見慣れた位置に座り、細工に黙々と勤しんでいるところだった。 加代の汗を滲ませた顔を見あげるなり、
「開ける前に聞くもんだろうが」
ただでさえ暑苦しい部屋が、加代のおかげでますます暑苦しくなったと言わんばかり、 首にかけた手ぬぐいで顔をぬぐいながらぶつくさ言った。
「ったく八丁堀といいおめぇといい・・・」
「あっ、八丁堀来たの!?」
 ちょうどよかったと加代は食いついたが、
「水飲みに寄っただけだ。ついさっきやっと出てったぜ」
 秀はこれ以上仕事の邪魔をされるのが我慢ならないといった口ぶりである。 秀の不機嫌はもはやお約束のようなものだから、いちいち遠慮などしていられない。 八丁堀にはあとから繋ぎを取るとして、加代はまずは人捜しの件をすすめることにした。
「あのさ、あんたにちょいと尋ねたいことがあんのよ」
「おめぇな。いいかげんにしろよ!」
「なによ!八丁堀がサボリに寄ったのとあたしのコレとは関係ないでしょ!」
 草履を脱ぎ捨て板間に上がり込んだ加代は、机に両肘をついてぐったりと頭を抱える秀の目の前に、 胸元から取り出した簪をかざしてみせた。
「ねぇねえ!ちょっとこの簪を見て欲しいのよ」
 簪と聞いてのろのろと顔をあげ、 指のあいだからちらりと覗いた秀の目が、ほんのわずかの間をおいてその簪を鋭く凝視した。
「・・・・・」
「どう?」
 顔を上げ、秀は
「どうって、なにがだよ?」
無表情に加代を見返す。
「なんかさ、見覚えあるとか、誰の作ったものか分かるとかない?」
「知らねぇよ。どこにでもある安いサンゴ玉の簪じゃねぇか。・・・これがどうかしたのか?」
 とりあえず秀が尋ねてきたので、加代は三味線屋で話したのと同じ内容といきさつを物語った。 始終興味なさげに相づちも打たず聞き流している秀だったが、加代の手から無言で簪を抜き取り、 面白くもないツラでじろじろとそれを眺め回した。
「・・・ふん」
「なによ、ふんって」
「無駄足だったな。俺には誰が作ったなんてこたぁ、ぜんぜん分からねぇ」
 素っ気なく言って、加代の手にそれを押しつける。
「ええ!?そんなぁ」
 哀れなほど落胆し、加代ががくりと肩を落とす。
「だって職人でしょあんた。なんかちょっとでもこう、閃くものはないのかって訊いてんのに」
「職人だろうがなんだろうが、知らねぇもんは知らねぇんだよ。もう出てけ!」
 草履の足音も猛々しく加代が出て行った後。 静まった部屋のなかでは、何かを案ずるような厳しい表情の秀がひとり呟いていた。
「―――ゆきの・・・?」



 翌朝早く、秀は加代に気づかれないようソッと長屋を抜け出した。
 向かう場所はかつて暮らしたことのある町の裏長屋だ。家からだと早足でも半刻(一時間)近くかかるそこに、 ひとりの男を訪ねようとしている。男がまだ住んでいるのなら、簪の持ち主について何か分かるかもしれない。
 しかし長屋を目指す前に秀はふと、男の仕事場を先に訪ねてみようという気になった。 というのも、男が後ろ暗いあの世界から足を洗い、版木彫り職人としての生き方を全うしているとすれば、 仕事場にその姿をみることが出来るはずだからだ。 真面目な通い職人ならば、昼の日中に町をうろついて人さまの懐を狙うようないとまなどない。
(雄太郎・・・)
 祈るような思いで、秀は版木彫り職やおはんの仕事場に向かった。
 やおはんの親方、やすは、秀を一目見てすぐに思い出したらしい。
「なんでぇボウズ。まだこのあたりをうろついてやがったのか」
 人呼んで”おにやす”は鬼もかくやと思われる厳つい面構えを崩すことなく、 焦げ付いた鍋の底をすりこぎで擦るようなひどいだみ声で呼びかけた。 たびたび仕事中の雄太郎の様子を覗きにいっては怒鳴りつけられた、あのときの声そのままだ。 あいかわらずのおにやすに、秀が思わず相好を崩す。
「ボウズはねぇだろ、おにやすの親方」
「なあに、あいかわらず細っこいなりしやがって」
 まあ座れと勧められた秀が、版木の積まれた仕事場の上がり口に腰を下ろしてさりげなく奥を覗くと、 それぞれ年齢の違うらしい三人の男たちが黙々と作業中だった。
(いない・・・)
 秀は軽い失望を隠せなかった。自分の作業机から立ってきたおにやすは、片足を重たげにひきずっている。 その老いた様子に内心秀は驚いていた。よくみればごま塩だった頭はすっかり禿げあがり、 わずかに残った鬢の毛や眉毛も、白くひからびているように見える。
(そうか・・・。あれから何年も経ったんだ)
 秀と同じくらい若年の雄太郎が、 おにやすにしごかれてもう辞めてぇと毎日のように愚痴っていたのが、はるか昔のことのようだ。
 おにやすの老けように、時の流れをいまさらながら感じさせられた秀だったが、
「ときにおめぇ、いま時分なんの用があって来た?」
単刀直入に訊かれ、真顔で居住まいを正し切り出した。
「親方。訊きてぇことがあるんだ。ここに・・・、雄太郎はまだいるのかい?」
 その名を聞いたとたん、おにやすの赤ら顔がまだらに変化したように見えた。
「おい秀。なんだっていきなりヤツの名が出てくるんだ。おめぇ何か知ってんのか?」
 おにやすの反応の早さに、秀はやはり何かあったのだと即座に察した。
「いや。じつは・・・」
 秀は知り合いの何でも屋から、簪を見せられた話をおにやすに聞かせた。 もちろん加代の名やその他知られてはまずいことなどを巧みに伏せながら。
 例のサンゴ玉の簪は、当時この町のとある貧乏長屋に住んでいた秀がまだ職人として修行中の頃、 同じ長屋に住む雄太郎に頼まれ、同居する妹ゆきののために手がけたものだったのだ。
 一見するとたしかにどこにでもある平凡な簪である。 しかし秀が、かなり使い込まれたそれが自分の手になるものだとすぐに気づいたのには、理由がある。 そのサンゴ玉には、最初からわずかなヒビがあり、そこには砂の黒い筋が入り込んでいるのだった。
 簪を頼まれ、雄太郎が秀の用意した玉のなかからよりによってその疵物(きずもの)を選んだときには、 さすがに引き留めた。しかし雄太郎は、笑ってこれにすると言い張ったのだ。
『こういう珍しいもののほうがいい。どこで失くそうと、絶対他の簪と間違わねぇだろ』
 もちろん秀は黒い筋のほうを下向きにして、 よく見なければ分からない位置にもってきて作ったのだったが。加代からあれを見せられた瞬間、 雄太郎の言ったとおり見間違ようもなく、それがゆきのの簪だと分かったのだ。
「親方。俺ももうあの長屋からはとうに出た身だ。雄太郎やゆきのちゃんにも、 あれから一度も逢っていねぇ。だからゆきのちゃんの簪だとわかった時・・・、 あんたのとこに行けば雄太郎に会えるんじゃねぇかと来てみたのさ」
 苦虫を噛み潰した顔でシミだらけの逞しい腕を組んで話に耳を傾けていたおにやすが、 ぎろりと秀の目を睨んで一言言った。
「雄太郎のやつはちょっと前にいきなりうちを辞めやがった」
「・・・なんだって」
「まだひと月と経ってねぇよ。でも解せねぇことが多すぎてな」
「解せねぇこと?」
 秀の何気ない合いの手に釣り込まれたように、おにやすはムムと唸って答える。
「それまで雄のやつは、他の職人たちの誰よりも熱入れて仕事してたからなぁ。 それがいつの頃からかよからぬ風体のチンピラまがいの十手持ちが訪ねて来ちゃ、 途中で脱けてどこかに出たっきり戻らなかったり、仕事に遅れてきたりってことが出てきたんだ」
「雄太郎には問いただしてみたのかい?」
「あたぼうよ。だがよ、やつは何があったと締め上げられてもぜったい答えねぇ。 あんまり強情なもんで、次に勝手に休んだら今度こそクビだ!って怒鳴りつけてやった矢先だぜ。 てめぇのほうから辞めるって言いだしやがった」
「・・・・・」
「まさか売り言葉に買い言葉になるとはな。なんでいきなりそんなこと、何も自棄になるこたねぇって、 オレもこのツラで後からずいぶん宥めたりすかしたりして引き留めたんだぜ」
「・・・・・」
「だがよ、雄太郎は親方あいすみません、どうかなにも訊かねぇでおくんなさいの一点張りでよ。 最後の給金も、取りに来ねぇままに消えちまった・・・」
 胸のつかえを一気に吐き出すようなだみ声に、おにやすの愛弟子に対する無念の想いが滲む。 子供に男子のいないおにやすは、いずれ雄太郎を跡に据えたいと考えていたのかも知れない。 やけに老け込んだおにやすの深い皺顔を見ながら、秀はふと思った。
「話はわかったぜ、親方」
「・・・秀?おめぇいってぇどうするつもりだ?」
 腰を上げた秀を訝しげに見上げる。秀は苦笑して首を横にふった。
「いや。どうするもなにも。ゆきのちゃんに続けて雄太郎が消えたとなりゃ、俺にも探しようがねえや」
「オレも探し回ろうにも、この足が言うことを聞きゃしねぇ・・・。 しかしゆき坊までどこに消えちまったんだろう。・・・まさかあのふたり、 なにかよくねぇことに巻き込まれたんじゃ」
「よしなよ、親方」
 やんわりと秀は遮った。
「俺たちみてぇな素っ町人があれこれ考えたってどうにもならねぇ。おかしなことがあれば町方が出てくるさ」
「ま、そりゃそうだが・・・」
「ひょっとして、二人して急に江戸を出ようと決めたのかもしれねぇじゃねえか」
「バカ言え。大川の水で育ったもんがそうそう他所(よそ)に住めるかってんだ」
「いや、案外わからねぇよ?もしかするとどこかに遠い身内でも居て、そこを頼るような子細が急に出来たのかもしれねぇ」
「あのろくでもねぇ十手持ちにつきまとわれたのもその所為なのか?」
 案外鋭いことを言うおにやすに、二人の素性を知る秀のほうがギクリとするも、さぁてと困った顔で頭を捻ってみせた。 「そんなの俺に分かるわけねぇよ。そいつが雄太郎を探して怒鳴り込んで来たかい?」
「いや・・・、そういやあれっきり、野郎もぱったり見なくなったな・・・」
 おにやすの疑心暗鬼を逸らそうと口をついて出たでまかせだったが、秀ははたと思い当たった。
そうだ。あの掏摸(すり)の兄妹は、江戸に居づらい何らかの事情に見舞われ、 こうして示し合わせたように行方をくらましたのかもしれない。
 とりあえず、長屋には行ってみようと思う。もしそこもすでに引き払っていたとしたら、 もう秀にふたりの足跡を追う手づるはなくなる。それで追跡はしまいだ。
(裏の仕事じゃあるめぇし・・・)
 秀はいつのまにかすっかり探索の姿勢に入っている自分に、我ながらうんざりとした。 雄太郎たちの真の稼業を知ったのは本当の偶然だったが、当時秀は血の繋がった父親を持つふたりをひそかに羨む反面 掏摸の一味を率いる父親の元を離れて裏長屋にひっそりと暮らす兄妹のすがたに、やりきれないものを感じた。
『三つ子の魂百まで。とはよく言ったもんだぜ』
 雄太郎が秀に言ったことがある。
『オレたちはほんのガキの時分からずっと、当たり前ぇのように掏摸の手業を遊びみてぇにして育ったんだ。 オレたちにとっちゃ毎日のおまんま喰うのと同じくれぇ、ひと様の懐を探ることは自然なことなんだよ・・・』
 いつも笑ってるような一重の細い目に何の感慨も浮かべず淡々と語る雄太郎の言葉に、 秀は背筋に冷たいものを浴びせられた気がした。
『とくにあいつは、ゆきのは、親父も舌を巻くような才がある。親父はオレたちに一味を継げとは言わねぇ。 むしろべつの生き方をして欲しいと願ってるくれぇなんだ。 だからこうしてオレたちは家を出て二人きりでここに住んで、オレはおにやすのしごきにも何とか耐えてる・・・ってわけさ』
『抜けたいってんなら―――、だったらそうすればいいだけじゃねぇか』
 その頃まさか自分が裏の世界に足を踏み入れることになるとは知らない秀が、素直な感想を漏らすと、 雄太郎は哀しいようなどこか秀の無邪気を愛おしむような目で秀を見つめると、 嗤って首を横に振った。
『親父やオレたちがどんなにそこから抜け出してぇと思っても・・・、 一度裏の水に浸かった者はそう簡単には足抜けさせてくれねぇのさ。本人より、・・・周りのやつらがな』
 あのとき理解が及ばなかった雄太郎の言葉が、いまの秀には身を切られるほどの鋭さで胸に蘇る。
(雄太郎。おめぇの気持ちが・・・いまなら俺にもよく分かるぜ)
 残念だとか何とか適当な挨拶をしてやおはんを出ると、秀は照りつける陽に顔を伏せるようにして、長屋へと足を急がせた。





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