数日の行方知れずののち、何でも屋の加代が隣人の不在をそろそろ気にし始めた頃。 蒸し暑さに寝付けずにいた加代の耳に、夜も更けた時分、 裏長屋の隣の戸障子を開ける小さな音が聞こえた。 「・・・秀さん?」 がばと跳ね起きると、寝間着用のすり切れた単衣一枚というあられもない恰好で、 土間へ裸足で駆け下りる。自分とこの入口を引き開けて隣をみれば、 すでに家主の姿はみえず内側から戸が閉じかけていた。 「ちょっと!待ちなさいってばっ!」 加代は草履を片足だけつっかけたまま飛び出すと、はしっと掴んでそれを阻止した。 寝静まる隣近所に一応はばかったつもりだが、小声の誰何が鋭くなるのは致し方ない。 「ちょ、ちょ、ちょっとあんた!秀さんでしょ!?」 「・・・」 ちらと振り向いた顔が不機嫌にこっちを睨んでいるのが、 闇のなかにも関わらず加代にははっきり見て取れた。 まったく、やっと戻ってきたと思ったらこの男あいかわらずだ。 「あんたいったいどこに雲隠れしてたのよっ」 返事などするはずがないことは結句承知だが、言わずにはいられない。 のっそりと、しかし音もたてずに板間に上がり、手探りで明かりを灯す痩せた背中に浴びせかける。 「ふつうに出かけたと思ってたらそのまま帰ってこないんだもん。 いつ出てったかあたしも全然気づかなかったから、心配したじゃないか!」 「・・・」 「なにがあったの?ま、訊いても言うはずないとは思うけどさ」 「・・・夜中に押しかけていちいちうるせぇんだよ」 腕組みをして土間に仁王立ちしている加代に背を向けたまま、煩わしそうに秀が呟いた。 「俺が何日か留守にするくらいべつに珍しいことでもねぇだろ」 秀のむかつく物言いに慣れっこになっている加代には、 それはこの男が気まずさを感じているときの態度だということが何となく伝わっていた。 本気で苛立っているときには、秀は一言も口を利かないからだ。 「そりゃそーだけどあたしだってね、これでも気にしてやってたのよ! ここんとこあんた、ときどきボーッとして考えごとしてるみたいだったし、 仕事しててもなんだか様子がへんだったから―――」 秀の部屋から聞こえてくる細工の小槌を遣う音が、軽快で単調ないつものそれと異なり、 乱れたり途中で止まったりしているのを、聞き馴染んだ加代はなんとなく落ち着かなく感じていたのだった。 「ちょっと、あんた聞いてる?」 加代の指摘に、秀は一瞬呼吸を止めたかにみえた。 やや間があって、秀が喉の奥でひそかに嗤ったのが背中越しに聞こえた。 「秀さん?」 「・・・そいつはすまねぇな。けど、もう何でもねぇんだ。―――悪ぃがひとりにしてくれ」 小声で発した秀らしからぬしおらしい言葉に、加代は絶句した。 「だからあ、ほんっと腹立つめんどくさいやつなんですよ、あいつってば」 朝顔の繁る葉が真夏の日差しをさえぎり、軒に吊した風鈴の音がいっときの涼を呼びこむ三味線屋の店先。 中では上がりかまちに腰掛けた加代が団扇を盛大に使いながら、おりくを相手に隣人の愚痴をぶち上げていた。 「勝手にいなくなったりされちゃ仕事が舞い込んだとき困るから、 あたしも心配して言ってんのに、なんで急にいなくなったのか訊いてもぜっったいに口を割らないんだから」 「まあまあ加代ちゃん。秀さんには秀さんの事情ってもんがあるんだよ。 言いたくないのをムリに暴こうとするのはかえってよくないよ。 それにもう秀さん戻って来たんだから、いいじゃないか」 おりくが鷹揚にとりなすが、加代は日頃の不満が溜まっていたのか、不服顔で冷茶に手を伸ばした。 「そりゃあたしだってね、大の男がどこで何してたかなんて野暮なこと訊きたかないですよ。 けど、いまちょうど例のところから仕事を引いてきたとこでね・・・」 おりくがちらと目を転じると、少し離れたところでいつものように三味線の直しをしていた勇次も、 こちらに鋭い視線を向けたところだった。 気易く茶飲み話に立ち寄る加代には日頃からたいてい相手にならない。 今日も秀が失踪した話を加代がはじめたとき、ちょっと手がとまっただけで、 あとは長々と愚痴を言っているあいだ黙々と手を動かし続けていたのだ。 「わかったから加代ちゃん、ちょぃと声を小さくおし。あんたの地声は大きすぎる」 他の客がいないとはいえ、世間話で聞かせる内容ではない。苦笑しておりくが加代に釘をさし、 ぺろりと舌を出した加代もようやくあたりをはばかる声になった。 「―――例のところからのってことは、それなりの仕事だね」 おりくの言葉に加代も黙ってうなづいた。 公儀による仕事人狩りの動きが活発化した昨今とはいえ、 少人数ごとの仲間に分かれて活動する個々の仕事人たちに仕事を仲介、 斡旋する総元締めともいうべき秘密結社は、江戸の町に幾つか存在している。 加代たちが「例のところ」と隠語で呼んでいるのは闇の会といって、 いまのところ摘発をまぬがれ存続している結社のひとつだった。 その差配人の素性も素顔も仕事人たちには何一つ知らされてはいない。 加代のような情報屋が結社からの招集に応じてあつまり、その場で仕事の依頼を引き受けるか断るかを決める。 複数の候補が上がった場合は抽選となる。加代は先だっての招集で、今回の仕事を引き当てたのだ。 仕事人は結社の依頼以外でも仕事を引き受けるが、 この闇の会のような結社から依頼される仕事の標的(まと)というのは、 組織ぐるみであったり徒党を組む一味であることがほとんどである。 報酬は高いが仕事の難易度もそれに見合うものだ。 おりくが例のところから引いてきたと聞いて思案顔になったのは、そのせいだった。 「首謀は松蔵って金貸し、そいつがケチな目明かしと手を組んで、 娘を売り飛ばしたり病人を見殺しにしてまでもあこぎな取り立てを繰り返してるって話なんだけどね、 それだけじゃないって・・・」 松蔵は金貸しになる前身がよく分かっていない。 さほど名が知られたわけでもない紙問屋で手代を勤めていたということだが、 その程度のお店の手代風情が数年で高利の金貸しにのし上がるというのは、いささか不自然である。 しかし目明かしの長五郎がいつだって松蔵と結託しているため、 松蔵の素性は途中がうやむやなまま、取りざたされることはなかった。 「例のところが松蔵について独自に掴んだ過去っていうのがね、 松蔵は手代の時分から裏では掏摸(すり)一家の組員だったらしいのよ」 おりくと勇次の視線が加代の紅い口元に集中する。 「どうやら松蔵は金貸しの裏で、昔の仲間に声をかけて掏摸の元締め稼業にも精を出してるようなのさ」 「・・・なるほどねぇ。貸す金にも不自由してないとくれば御用商人にだって大名にだってすぐ用立てられる。 取り立てがあこぎでも繁盛するわけだ」 おりくの呟きに、加代が目顔で同意する。 「そういうこと。長五郎が元々使われてたのは南町で与力をしてた小平兵右衛門ってやつなんだけど、 いまじゃ出世して勘定組頭になってる。長五郎のつてを頼ってそいつにたっぷり鼻薬を嗅がせてるから、 酷い取り立てで心中に追い込まれた一家がいるって訴えが奉行所に持ち込まれても、 町方じゃ小平に抑え込まれて、松蔵になかなか手が出せないのよ」 「それじゃ標的(まと)は松蔵と目明かしの長五郎に小平ってお侍、 そして一味の掏摸仲間ってことになるのかい」 「そうなるね。掏摸仲間がどのくらいいるのかまだはっきりしないけど、 八丁堀と相談して秀さんに松蔵んとこに潜ってもらうことになると思う」 そこで再び、足取りの読めない秀に対する怒りが込み上げてきたらしい。 「だからそんなこんなで肝心なときに、あいつったら何も言わないで・・・!!」 「秀さんも、言われなくたっておつとめがあるかもしれないってことは、 きっとどこかで頭にはあったはずさ。 だからこそ数日で戻ってきたんじゃないか。信用できるお人だよ、秀さんは」 「・・・・・」 公平で滅多にひいき目な発言をしないおりくが、はっきりと秀の肩をもったので、 加代は大きな目をますますまん丸く見開いて、おりくの顔をまじまじと見つめた。 「おりくさん、そんなにあいつのこと買いかぶってたの」 「やだよ、何を言い出すんだろうねぇ。べつに買いかぶってるわけじゃないよ。ただ・・・」 「ただ?」 「いままでの仕事ぶりを見せてもらったけど、・・・秀さんはほんとに真面目だと思ってさ」 勇次は黙々と手を動かしていたが、その青みがかった黒い瞳をほんの一瞬なにかを想うように宙に泳がせた。 ああそういうこと、と一方加代は、おりくの言い訳をそのまま鵜呑みにしたようだ。 「まあね。あいつとは長い付き合いだけど、たしかに律儀で約束はかならず守るよ」 「だろ?加代ちゃんが心配するほどのことはないさね」 娘に言うようにおりくから諭され、さしものお加代も気恥ずかしそうな顔になった。 「ま、おりくさんがそういうなら。それにあたしも秀さんのことばっかり心配してる暇はないんだよ。 他にも何でも屋の仕事が入ってきててねぇ」 「商売繁盛で何よりじゃねぇか」 いままで一言も口を開かなかった勇次が、秀から話題が離れたとたん、軽口で加代を揶揄った。 「そりゃそうなんだけどさ。なにしろそれが人捜しなもんで、ちょいと困ってるんだよ」 「困る?」 「だってさ、坂下町にある野の屋って小間物屋のおかみがいなくなったって、 それを探して欲しいって言われてもねぇ。 行先に全然覚えもなくって、おかみが手紙と一緒に残していったサンゴ玉の簪だけが頼りなんだよ」 ほら、これと胸元から加代が取り出してふたりに見せたのは、ごくありふれた特徴にとぼしい品だった。 「どこにでもあるような形だね。これを挿してるってことは、おかみはそんなに若い娘なのかい?」 「ちがうの。これは昔、生き別れた兄貴があつらえてくれた形見の品なんだってさ」 「ふうん。けどそれだけじゃあ雲をつかむような話だ」 「加代。なんでその依頼がおめぇに来るんだ?人捜しならまず町方に頼むのが筋だろ」 勇次がもっともな疑問を呈する。加代は会話の間隙をぬって口に押し込んだ水饅頭にむせながら、 目を白黒させてうなづいた。 「そ、そ、そうなんだけど。 おかみの手紙に"きっと戻るから届け出ないで待っていて欲しい"って書いてあったんだって」 「それで旦那は何でも屋に持ち込んだってわけか・・・。 手紙と簪を残すくらいだから、おかみが自分の考えで家を出たんだろう?なんでおとなしく待っていねぇんだ」 「でしょ。でも旦那がおかみさんにべたぼれでさ。四十まで独りもんだったところに、 女中奉公に入ったおかみさんに惚れて一緒になったらしいのよ。 無口だけど芯の強い綺麗な女(ひと)らしいよ。 旦那が言うには、過去は一切問わないって条件で夫婦(みょうと)になったからなにか子細があるんだろうって。 あれを信じたいから待とうと思うが、せめて無事でも分かるなら――ってことで、あたしに泣きついてきたのさ」 胸を張ったものの、加代も正直みつける自信はなさそうだった。 「・・・簪だから、秀さんに見てもらえばひょっとして何かわかるんじゃないのかい?」 困り顔の加代に助け船を出すつもりで、おりくがふと思いついたことを呟いた。 とたん加代の顔がぱっと輝き、手を叩いて叫んだ。 「そうか!!あいつがいたわね!さすがおりくさんだ。さっそく戻って捕まえなくちゃ・・・!」 嵐のように加代が去っていったあと、開け放したままの戸口の外を眺めて、しばし呆然と沈黙する母子だった・・・。 続
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