秀の謝罪を受けた男は、ゆっくりと横に首を振った。そうして膝に置いた白い手にしばらくの間、 視線を落として黙していたかと思うと、伏し目のままで驚くようなことを口にした。 「・・・・・さすが秀さんだね。まさかそこまで見抜かれてしまうとは―――」 「・・・え・・・」 男が何のことを言っているのか、一瞬分からなくなった。 胡坐をかいた足の間に戻ってきた竹筒を置いたまま固まっている秀を、顔を上げた男が思いつめた目つきで見つめてくる。 底まで見えてしまいそうに澄み切っていて、それでいて何ひとつ思惑の見抜けない瞳・・・。 視野が急激に狭まり、心臓が見えない手で締め上げられる。逃げ場を失くしていることに今ごろ気づくとは。 「・・・おれの・・・、名を―――どうして」 カラカラに渇いた喉の奥からかろうじて声を絞り出すが、謎めいたその眼光を受けて金縛りにあったように動けない。 男は恐怖に強張った表情を見てふっと寂しい微笑を浮かべると、静かな声で語り始めた。 「知らないわけがないさ。オレはあんたにずっとくっついて、旅して来たんだ。旅籠にも一緒に泊まったんだからね」 「・・・くっついて―――?は、旅籠・・・??」 「そう。あんたの背負った荷物のなかに紛れ込んで、運ばれてた。―――秀さんの見立てどおり、オレは人じゃない。 女郎蜘蛛が、オレのほんとの正体さ」 じょ・・・ろう・・・ぐ・・・も・・・・・・・?・・・・・・・・・? 淡々と種明かしをされて、ふたり?の男の間には奇妙な間が生まれた。 悲鳴が上がるでもなく、何かが起きるわけでもない。ただ、長い静けさがあった。 風雨はこの小さなあずまやを外から揺るがしているが、 雨漏りのする室内に居るひとりの人間と自称あやかしにとっては、耳にも入らない様子だった。 あやかしが人間を襲う前に自ら正体をばらすというのも、 秀にしてみれば奇異に過ぎる事態だ。しかもその事態を招いたのは、自分の余計なお喋りである。 いま思えば、いつもならば絶対にそんな事はしないのに、下らないお喋りでツルツルと口を滑らせてしまったのも、 このあやかしの持つ何らかの魔力のせいなのだろうか。 それにしても、目の前に端然と座した女郎蜘蛛の化身は、 最初にここで声を掛けてきた時と変わらず水も滴る美丈夫のままで、秀の様子をさっきから物静かに見守っているだけだ。 どう見ても色男の旅の芸人にしか思えない。いっそ秀の与太話を受けて、悪ノリが過ぎるただの戯言じゃないかと思ったが、 「あんたが驚くのもムリはねぇ。―――が、安心してくれ。オレはあんたに害を為そうとして付いて来たんじゃねぇから」 こちらの考えを見透かしたように、先回りして答えられた。かくん、とそこで体から金縛りが解ける。 秀はやや仰向けによろめきかけ、とっさに後ろに手を回して上体を支えた。 感情面では、こいつの話をまるでデタラメの大嘘だと断じてしまいたい。 が、娘の窮状を助けたことをどこかで見ていたのだと決めつけたとしても。旅籠で宿帳に偽の名を記しているのに、 自分の名を言い当てられたことについてはどう説明を付けると、理性が秀に問うている。 そしてそんな整合性よりも何よりも。秀自身の感じてきた、この男に対する懐かしさ、 慕わしさに、いったいどんな納得ゆく理由が見つけられるというのだろう。 混乱を極めながらも、秀は口走る。 「〜〜〜〜〜。だっ・・・・・、だったら・・・。だったらな、・・・なんで・・・俺に付いて来るっっ!?」 「ふふ・・・。それを尋ねて貰えたら、オレもこうして―――化けて出て来た甲斐があるってものさ」 寂しい笑い方と共に、男は謎の言葉を発した。最初の恐怖と衝撃が過ぎたあとには、 むしろそんな男の態度や言葉の方が気にかかる。腹を決めた秀は身を起こすと、 気持ちもう少し男から遠くに身を引いて座り直した。黒目がちの目を上目遣いにやや睨み付けるようにしながら、 どこか沈んだ表情になった男に探りを入れた。 「じょ・・・女郎蜘蛛さんよ。・・・あんたが――ほんとに俺に害を為さないって言(げん)をどう信じたらいい? そのうえで、あんたのその・・・わけってやつを尋ねるが、いいか」 「最初からあんたをとって喰らうつもりなら、ここまで時を稼ぐ必要もねぇだろう・・・これでどうだい? オレを信じてくれるか、秀さん」 同じように考えていた秀は頷いた。どのみち、あやかし相手に自分の懐の獲物が役に立つとは思えない。 元より男は秀を狙ってつきまとっているのだから、逃げ道はない。 喰われるときは喰われる。もう、そう腹をくくるしかない。 「分かった、その言を信じよう。―――で?なんだってあんた・・・、この俺の荷に紛れてずっと付いて来てたんだい? いったいいつから?」 「・・・あんたは覚えてるはずもねぇだろうが―――。前の年の春頃だ・・・。 山道で休んでたあんたは、足元の土の上で藻掻いてた一匹の蜘蛛に気づいた―――」 「・・・。土・・・?蜘蛛――――」 口の中で何度か男の言葉を反芻した秀は、そのうちフッと記憶の底から、あの時の出来事がよみがえるのを感じた。 初夏にさしかかる頃の、雨上がり後のとある峠で。 昼飯にしようと古い切り株に腰かけた秀は、ふと地面に目を落とした際、もぞもぞと動く昆虫を見つけた。 それは一匹の女郎蜘蛛で、褐色と黒の縞柄の腹に細くて長い八本の足をのろのろと泥の中で藻掻かせているのだった。 何か強い風でも受けて、弾みで巣から落ちてしまったのだろうか。 しかも落ちた場所が悪かった。濡れた土くれに足をとられた蜘蛛は、風を掴んで宙に糸を放ち舞い上がることはおろか、 そこから這い出ることも出来ずにいた。 このままでは、天敵の大型の蜂や鳥に見つけられて捕食されてしまう運命(さだめ)だろう。 脱け出せない泥の中で虚しく蠢くその姿が、まるで自分自身の映写のように、その時の秀には見えた。 折しも片付けたばかりの裏の仕事が後味の悪い結末に終わり、 秀はおのれの手掛けた殺しの意味を、ここ数日ずっと考え苦悩を抱え込んでいたのだった。 秀は一度摘んでいた握り飯を膝に戻すと、屈み込んで蜘蛛をそっと掬い上げた。 そうして、近くの生い茂る幅広の葉の上に近づけてみる。女郎蜘蛛は手のひらの上でしばらくの間死んだように なっていたが、やがてもぞもぞと細い足が動き出した。秀の見ている前でゆっくりと葉の上に移動していった。 また落ちないかと気になって見守っていたが、蜘蛛は無事、そこから張り出した木の枝の方に移ることが出来た。 秀はなんとなくホッとして、「もう落ちるなよ。・・・達者でな」と口に出して呟いていた。 「・・・オレはあんたに命を救われた、あん時の牡蜘蛛だ」 「―――――――」 「人間は虫けらなんかに心なんかあるもんかって思ってるヤツが殆どだろうが。あんたはオレに言葉までかけてくれた・・・。 それがオレを・・・あやかしに変えてくれた」 「っ・・・、なに・・・っ?」 虫をあやかしにしたのは、この俺だと?言葉が出ずに目を剥いた秀に、男が頷く。 「言霊(ことだま)は分かるだろう?オレを助けてくれた時のあんたの心が、オレに呪い(まじない)をかけたのさ」 「・・・・・・・。そんな・・・」 たしかに秀は、蜘蛛に情を抱いた。そして思わずかけた言葉が、虫をあやかしにするほどの言霊の力を持ってしまったとは。 「――――ま、待てよ。じゃぁ、女郎蜘蛛。お、おめぇが俺に付きまとうのは、やっぱり俺のことを呪うつもりで・・・」 「違う!お―――オレ。オレは・・・。あんたのことがその、、、す――好きになっちまったんだよ」 今まで秀の方を圧するくらい落ち着いて話をしていた男が、秀の疑問を激しく打ち消すと同時に、 その一言を打ち明ける時だけはパッと俯き加減になった。 薄ぼんやりとした揺れる灯りの元ですら、その白い頬がほんのりと染まっているのが秀にも見えた。 「―――――――えっ・・・す・・・?好き・・・?好・・・って―――、えええええっ」 「仕方ねぇんだ。勘弁してくれよ、秀さん。あやかしになったのも、このオレにはどうにもならないことさ。 けど、虫けらの分際であんたに惚れちまったからには、 どうしてもあんたから離れたくなくって―――。このままじゃいつまた会えるかも分からねえ。だから・・・、 あんたが飯を食ってるうちに糸を使って、どうにか荷物の上に飛び乗った」 「〜〜〜〜〜」 「それからずっと―――、一緒だ。でも、こうして人間の姿になったのは、ほんとに今夜が初めてなんだ・・・」 小説部屋topに戻る
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