女郎蜘蛛【四】









 秀は話を聞く途中から気づいていた。シミだらけの黒ずんだ壁に映った男の影が、 端座する人間の半身の形でなく、長い足を整然と折りたたんだ蜘蛛の姿をしていることに―――。


 話を終えると、女郎蜘蛛は疲れ果てたようにため息を吐き、白い瞼を伏せた。 秀は何と答えていいのか分からず、ただただ外の嵐の音を聞きながら男を見つめていた。
 懐かしいと思ったのは、そのせいだったのか。初対面の相手なのに話すほどに、 目を見交わすほどに慕わしく感じていたのは、ずっと一緒に旅空を過ごして来たからだったのだ。
 晴れの日も雨の日も―――。そして、仕事に出張った夜も―――。 このあやかしは自分と共に居て、あるいは戻ってくるのを荷物のなかでジッと待ち続けてきた。
「あやかしと言ったところで、オレにはあんたの身を守ってやることもましてや救うことも出来ねぇ・・・。 もどかしいし悔しいが―――、ただただあんたの傍にくっついてること以外、虫けらのオレには何も」
「虫けらなんて言うもんじゃねぇよ。おめぇが俺といつでも一緒に居てくれたから――、 俺は生き延びられたのかもしれねぇ・・・。だろ?」
 男の言葉を遮り秀の言ったことに、女郎蜘蛛がハッと顔を上げこっちを見た。
「まさかそんなこと・・」
「無ぇと言い切る証拠はないだろ、女郎蜘蛛さんよ。俺の言霊であんたに呪(まじな)いが掛かるんだったから、 あんたのその―――、なんだ、おっ・・・俺に向けたきっ・・気持ちってのが・・・、 もしかすると俺を守ってくれてたのかもしれねぇ・・・」
 なんで牡蜘蛛の告白にこんなに熱心に答えてやっているのか。自分でもよく分からなかったが、 言い募りながら秀はだんだん、体の奥底から熱くなってきた。 男だろうが女だろうが、こんなにも一途な想いを直にぶつけられたのは本当に久しいことだったからだ。
 目の前の美貌の男に姿を変えたあやかしは、切ない目をして秀を見つめている。 どうして、自分たちは人間と虫なんだろう。こんなにも、心は通じ合っているのに―――。
 じっと見つめ合っていると、ついぞ流したこともない熱いものが鼻の奥からこみ上げて来そうになり、 秀は慌ててまばたきを何度か繰り返すと、想いを振り切るようにわざと話を変えた。
「と・・・、ところでなぁ、あんた。その脇に置いた三味線は飾り物かい?それとも弾けるのか?」
 蜘蛛もまた物思いからようやく我に返ったように頷き、背後に立て掛けていた包みを引き寄せた。 上掛けを外すと慣れた手つきで三味線を扱い、糸巻で音を合わせる。 かび臭くじめついたあずまやに一音の音色が響くだけで、空気そのものが入れ替わったようだ。
「あんた、初めて人になったにしちゃ、上出来すぎるじゃねぇか」
 秀らしい言い方でぶっきらぼうに口にすると、切れ長の目元を細めた男が嫣然として低く囁いた。
「あんたのためさ、秀さん。この姿と三味線の音―――、いつまでもずっと、忘れずにいてくれよな」
 その口ぶりがどこか今生の別れでも告げているようで気になった。 が、秀が何かを言う前に男は弾き始めた。これまで聴いたこともないほどの典雅な音が、長い指から繰り出される。 容貌に見合ったこれまた美しい声の唄を聴きながら、昼間の疲れと今までの緊張が解けた故か、 次第に瞼が重たくなってきた。
「―――なぁ・・・。おめぇが蜘蛛でも――・・・俺・・は―――…」
 最後まで自分の声が届いたかどうかを確かめることも出来ず、秀は導かれるように眠りの底に落ちて行った。



 奏しながら、ウトウトと船をこいでいる秀の様子を見守っていたが、 痩せた肩を揺らしていた体がついに支えきれずに傾くと、そっと三味線を置き素早く近くへ寄った。 ミシリとも音もせず風すら動かさない動作だった。
 腕の中にふわりと秀を受け止めると、床に横たえる。
「・・・」
 しばらくの間ぴくりとも動かず屈み込み、食い入るようにその寝顔を見つめていた。愛しい者に向けるにしては、 その蒼褪めた面を徐々に禍々しい気配が覆い始める。そうしながらも、胸のうちで秀に語り掛けていた。
(・・・すまねぇ。秀さん―――。人間ではないことを見透かされ、正体を明かしてしまったからには、 オレたちはもう一緒にいられねぇ―――。これが掟なんだ・・・)
 秀は何も知らずにスヤスヤと熟睡している。三味線と声の持つ魔力のおかげで、夢も見ずに寝入っていた。 蜘蛛の糸で首をじわじわと絞めつけても、まるで気が付かないまま安らかに息絶えることだろう。
(あんたにずっとくっついて旅するだけで幸せだった―――。 なのに・・・。欲が出ちまったのかな。ただ一度だけで良いから、 人間になってあんたと顔を合わせて話がしてみてぇと―――)
 凄艶な美貌のあやかしが、切れ長の目をやや見開くようにして眠る生贄のうえに片手をかざした。 ふわりとその指先から白く煙が現れ出たが、煙と見えたのは細い蜘蛛の糸だった。 人間の使う絹糸よりもずっと細くしなやかで針の先でも掬い上げることの出来ない繊細な蜘蛛の糸。 無数に生まれ出る銀糸が真綿のように秀の首元に巻き付いてゆく。
(ごめんよ――、ごめんよ秀さん。赦してくれ―――。悪い相手に情けをかけた・・・。あんた、優しすぎたんだよ秀さん・・・)
 白い頬にいつしか滂沱の涙が流れていたが、まるで帯のごとく首に巻き付いた糸の束をゆっくりと自分に引き寄せ、 男は最後のひと締めを加えんとした。


が――――――




「――――――――・・・ダメだ、オレには出来ねぇ」
 女郎蜘蛛が手の力を抜くと、あれだけ分厚く巻いていた輝く銀糸はフゥッ・・・と跡形もなく消えてしまう。 先ほどと変わらず、安らかに寝息を立てる秀が横たわっているだけだ。男にしては細いその首には何の跡もついていない。
「・・・。お別れだよ、秀さん」
 しばし瞑目して何事か思い巡らせていた男が、固く閉じていた白い瞼を開くと吐息で囁いた。 秀の顔と言わず全身に視線を走らせる。凶相は消え失せ、憑き物が落ちたように優しくそして哀しみに充ちた眼差しで。 やがてどこか納得した微笑を浮かべたまま屈み込むと、薄く開いた秀の唇に静かに口づけた。
 男が遺した最期の言葉は蜘蛛の糸と同じく頼りなく宙に浮き、わずかの時間その場に漂っただけでどこかに消えていった。
「次に会う時には―――。人間に生まれ変わって、またあんたと・・・」



 翌朝、鳥の声で目が覚めた秀はハッとして起き上がる。 雨はすっかり上がり、格子戸のすき間から明るい光がみすぼらしい堂の奥深くにまで入り込んでいた。
「!おいっ、女郎蜘蛛、どこだっっ!?」
 起きた瞬間、どこかでそんな直感がしたのだ。 楽器もろとも跡形もなく、あの色男の姿は忽然と消えていた。建て付けの悪い入口がきしみながら開く音も、 聞いた覚えがないのに。
 外にも飛び出し水びたしの道をやや行ったり来たりしてみて、どこかに姿が見えないか探し回る。 が、そうしながらも心のどこかでは、そんなことをしても無駄だと自分で分かっていた。
「・・・・・・」
 のろのろと堂の中に戻り、ペタンと腰を下ろす。荷物の中身も包んだ風呂敷の裏表までひっくり返して詳細に探したが、 蜘蛛は見つからなかった。気の抜けた目を、床に転がっていた竹筒に向け手に取ってみた。 すっかり中身は空だ。ということは、やっぱり。
「ゆうべのことは・・・・・、ホントにあったこと、なんだよな・・・・」
 いつもの癖で膝を抱いて、昨日のやりとりを最初っから思い返してみるほどに、 秀は自らの言動に悔やまれることが多いと今さら気づいた。
 あのあやかしにも話したが、あちこち年中旅をしていれば、説明のつかない不気味で不思議な体験をすることもある。 だが、そういうとき、あえてその謎や秘密を追求しないでおくこと。 これも旅慣れた者たちの間では言われていることであった。
 それをゆうべの秀は忘れていた―――。その自戒を思い出すこともなく、いつのまにやら部屋の隅に座っていたあの男に、 本当の正体を暴こうとするかのような謎をかけて・・・。
「正体―――」
 アッと声を上げて秀は飛び上がると、一足飛びに部屋の隅に駆け寄った。 ゆうべあやかしが座して三味線を奏した場所だ。開け放した入口のおかげで荒れた床の上もすべてが明るく見渡せた。 そこにつま先立ちになり慎重に辺りを見回した秀は、探していたものを発見して息を呑む。
「―――・・・」
 声にならない声を漏らして、ゆっくりとその場に膝をついた。食い入るように見つめている床の一点には、 褐色と黒の縞柄の腹を仰向けにして、一匹の女郎蜘蛛の死骸が落ちていたのだ。


「・・・・・・・・・・。ごめん―――、ごめんな――――。俺の、俺のせいで・・・おめぇをこんな―――」
 固く閉じた目尻から、涙がぽたぽたと溢れてきて止まらなくなった。 手のひらに乗せた蜘蛛の死骸に向かって、秀は何度も何度も謝り、自分でもおかしくなるくらいに泣き続けた。
 夢かと思っていた。遠くにあの低く艶のある声で、何度も名を呼ばれた。 そしていまの自分と同じように、秀に対して謝っていた。 最後に次第に遠くなる声が言ったことも―――、脳裏に静かに響いて甦る。

『次に会う時には―――。人間に生まれ変わって、またあんたと・・・』



 小さな牡蜘蛛の亡き骸を、秀は水で流されない高い場所の地中深くに埋めた。手首に着けていた手製の銀の輪と共に。 立ち上る前に少し盛り上がった土に向かって、もう一度秀は言霊をかけた。
「次に会う時には―――。人間に生まれてきて・・・、今度こそふたりで旅しような・・・」




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