峠を男がひとり歩いていた。 年の頃はまだ二十を三つ四つ超えたくらい。すらりと背は高いが細身の体に長旅用の裾長合羽を着けている。 背中には袈裟懸けにした風呂敷包みがひとつだけ。 護身用の短刀らしきものも、腰の周りには携帯していない。旅に出る者なら武士でなくとも、 いつ出没するか分からない山賊や獣を威嚇する為に、借りてでも身を守る武器の一つは大抵身に着けている。 日ごろ使った試しもないそんな武器が、いざという時に使いこなせるかと訊かれれば誰もが首を捻り、 護符の代わりだとしか言い返せないとしても。 しかし丸腰に見える男の表情には、暗くなりかけた峠を上がって行くことに何ら不安を感じている様子もない。 相当に旅慣れているのか、時おり道を逸れてわざと沢の方に下ってみたりしながら、 危なげない足取りでこの峠を超え始めたのだった。 昼間よく照っていたお天道様は西の向こうに傾いた。こんな山奥ともなればもう日ざしの名残りも届かない。 木々の上に広がる空は、まだ明るいうちから山の湿気を集めた薄い雲がかかって来ていた。 (そのうちひと雨来るかな・・・) 男は口に出さず、胸の中で独りごちる。こうして単身行動することが日常になると、 知らず自分に対して話しかけていることが多くなる。 そのくせその言葉に、自分自身が応えてやることなど殆どないのだが。 しかし実のところ、男は独りきりで旅をしているのではなかった。 もう一年以上も前から男に寄り添うように旅をしている者が居たのである。 背中に括りつけている最低限の着替えと錺職に使う道具のみを入れた風呂敷包みに、 あるとき一匹の女郎蜘蛛(ジョロウグモ)が紛れ込んだ。 女郎蜘蛛は男が荷を下ろすときにもそこから離れようとせず、包みの陰にそっと身を潜めていた。 解いた荷がまたくくり直されると、女郎蜘蛛はまたどこからともなく出て来て、その包みを男が背負う前に急いでそこに潜り込む。 そうして片時も離れず、まるで己のあずかり知らないところで、男と蜘蛛は奇妙なふたり旅を続けていたのだった。 何かが鼻先に落ちてきて、男がフッと目だけを上に向けると、 すっかり雲に覆われた空からポツリポツリと銀の糸のような真っすぐな雨が落ちてきた。 来た、と思う間もなく、数秒後にはザアッという音ともにいきなり激しい雨となって男に襲い掛かる。 「ちっ」 秀は予想したよりも早く雨が降り出したことに軽く舌打ちして、そのまま走り出した。 濡れるよりも、濡れた後に体が冷えて体力を消耗する方を避けねばならない。 この峠は以前にも超えたことがある。たしかこの道を上りきった辺りに小さな御堂があったはず、 と閃くように思い出していた。 果たして記憶の底のその場所は雨でけぶる道の先に見つかった。 完全に打ち捨てられた風情の、杉の皮で葺いた屋根が見える。 秀は派手に足音を立てながら坂道を上りきると、入口の段に片足をかけ、細かな格子状の戸口を手で押してみた。 ガタガタっと建て付けの悪い音がしていたが、力を込めて揺すりながら手前に引くと、 何とか引っかかりが外れたのか、唐突に開いた。 外よりも暗い空間が目の前に広がり、籠っていたかび臭さが鼻を突く。粗末な仏像のようなものも暗がりに見えた。 それでも秀は土足のままそこに上がり込み、後ろ手に戸を閉めた。 屋根を叩く雨音がようやく耳に入ってきた。 薄暗がりに目が慣れると、秀は狭い御堂の中を見回し燭台を見つけた。胸の前できっちり結んでいた荷の結び目を解いて、 背中から滑り落とす。半分濡れかけた風呂敷からは、例の女郎蜘蛛が這い出してきてひっそりと部屋の闇に消えていった。 外套の内側から火打石と蝋燭との入った袋を取り出し、慣れた手つきで火を点ける。 燭台は一本しかなかったが、頼りない灯りがぼんやりとほんの膝元辺りまでを照らすと、いつもながらホッとした。 旅の行程次第ではときに野宿することもあるから、 とりあえず屋根があって戸で外と仕切られた場所に飛び込めただけ、今夜はマシである。 思ったよりも中は広いと感じるのは、ほとんど物が置かれていないからだろう。 正面の壁際に仏像があると見えたのは、実際にはそれがすでに持ち出された後の空間のシミだった。 そのすぐ手前に小さな浄財入れが転がっていたが、 もちろん中が空っぽなのは確かめてみるまでもない。 唯一、その昔にはここで誰かが経をあげた日々もあったことを示すように、曇った鈴(りん)と撥とが、 足が折れかけて傾いた経机の上に乗っていた。仏像を持ち去った泥棒はこの期に及んで仏罰を恐れたのか、 それまでも根こそぎには持ち去らなかったらしい。 仄かな灯りのなかで浮かび上がったのは、せいぜいその侘しい光景のみだ。 振り向いたが格子戸の外もすっかり暗くなって何も見えなかった。 秀は視線をまた燭台の光に戻すと、懐を探って今度は煙管入れを取り出した。 草を詰め時おり吹き込む風にも耐えている揺れる炎に雁首を近づける。 フーッ…と最初の一服を吐き出して、ようやく人心地ついた。 ひとつ所に落ち着かず、流しの錺職人として旅から旅をまたいでは、裏では人に言えない暗殺の仕事を請け負う。 そんな刹那的な生き方を今のところ選んでいるのは秀自身でもあるから、 峠の古い御堂でひとり夜を過ごすことに、特別な感慨など抱いてもいない。 ただ、こうして荷を下ろして濡れた外套を脱ぎ仮の宿でくつろいでいると、 早々と雨音に降りこめられたこの一夜は長いだろう、とたなびく細い煙を眺めて何となく思っただけだった。 吸い終わると煙管を仕舞い、秀は雨漏りを避けてそこから遠い壁際に後退しようと腰を上げかけた。そのとき、 「・・・こんばんわ」 光りの届かない隅のほうから突然控えめにひとの声がかかり、秀は文字通り飛び上がった。 「!!?」 弾かれたように振り向くと、自分が向かおうとしていた壁の隅に黒い人影があった。 裏の仕事柄、周囲の気配には人一倍鋭敏なはずの自分が、ひとが居たことにまるで気づかないとは――――。 懐の奥に仕込んだ簪の存在が、一瞬脳裏を掠める。しかし秀は瞬時にその考えを振り払った。 これが己と同じ稼業の仕事人ではないかと疑うのは、さすがに疑心暗鬼が過ぎるというものだろう。 手配人の元で見ず知らずの仕事人同士が手を組むこともあれば、おつとめ絡みのいざこざで敵に回ることもある世界。 どこで恨みを買ったかなど、秀自身にも分かりはしない。何か起きればその場で、死闘を演じるのみだ。 しかし自分が今日、ここにこうして雨宿りに逃げ込むことは、天のたまたまの采配である。 そうした輩があらかじめ秀の行動を知って、先回りしここで待ち伏せ出来るはずがない。 身構えてから、互いに動かずに気配を探り合うほんの数秒の沈黙のあいだに、秀はそんな結論をはじき出すと、 気を落ち着けるために深いため息を吐いた。激しい雨音のなかでもそれを聞きつけた黒い影が、 自分もフッと息を吐く。淡い笑いの気配が暗がりを伝わった。 「驚かせちまってすみません、兄(あに)さん。 色々しておいでだったんで、今の今まで声を掛けそびれていたんですよ」 心地好く響く、落ち着いた男の低い声だった。 まだそう年がいった風には聴こえない。やはり旅の若い男かと秀は少し警戒を残したまま、 声音だけは何でもないように装い、自分も挨拶した。 「こいつは参った。まさかこんな山奥で先客が居たとは思いもしねぇで・・・。俺の方こそ邪魔してすいやせん」 秀の声に壁際の影がつと動き、着物の膝元をシュ、と鳴らして少し前に出て来た。思いついて燭台を移動させる。 揺れる灯火の届くところに現れたのは、年の頃秀よりかは五つほど上かという、思ったとおりまだ若い男だった。 が、秀の目が思わず吸い寄せられたのは、その男の歌舞伎役者と見まがうばかりの白い美貌だったのだ。 「やることもなく早々と寝るしか無いと、特に灯りも点けずにおりました。 雨に降られた者同士、今夜一晩の相席をお許し願いますよ」 両膝に置いた綺麗な長い指に目を留めるうち、そう断りを入れた相手に軽く頭を下げられ、 我に返った秀は慌てて首を横に振った。 「いやいや!許すも許さねぇも、この降りじゃどこにも動けねぇ。お互い楽にしましょう」 秀の言葉に、男が同意するように頷いた。脚絆を脱ぎ散らかし裸足を床に投げ出していた秀と違い、 旅装ながらもこんなつぎはぎだらけの板床に端然と正座した男は、どこか都会の大店の若旦那か何かにも見える。 でもそんな立場の人間が、ひとり寂しい峠を商用で越えるなんてことがあるだろうか・・・? が、口とは裏腹にまだ疑い深い目つきでじろじろと相手を眺めていた秀の疑問は、 その背後に置いてある男の荷物を目にするなり、あっさりと氷解した。 「―――三味線か。あにぃ。あんた、旅の芸人さんかい?」 「そうだよ。鉄砲雨には慣れっこさ」 秀の視線の先に気づいた男が、白い歯を見せて答えた。 洒脱な色男の厭味のない笑みに釣られて、秀も自然と口元をほころばせていた。 小説部屋topに戻る
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