恋 ― 零 ―







 ある女と子どもの死を見送った。昼間には暑さが残り、夕暮れに草むらで虫が鳴く秋のはじめの頃だった。
 裏稼業を持つ錺職人となんでも屋が隣り合って暮らす長屋に先ごろ移ってきた、若い母親と五つにも満たない男の子。 住み始めてまだひと月と経っていなかった。 昼近くになっても出てこないのを気にして声をかけた隣の女房が、部屋の布団の中で冷たくなっている親子を見つけ、 大騒ぎになった。
 遺体はどちらも無残な刀傷を負っていたが、なぜか二人がきちんと布団に寝かされているのも異様だった。 染み出た血痕がなければ、まるで生きている時と同じく、母と子は寄り添って眠っているように見えた。いったい誰がこんな事をしたのか。
 差配人が泡を喰って番屋へすっ飛んでいったが、人殺しなんぞ珍しくもないといった態でやって来た馬面の同心が言うには、 悲鳴をあげたくとも声が出なけりゃ仕方ねぇだろ、と。殺されたお絹は喉元に古い傷跡があり、そのせいで声が出せない女だったのだ。
 喉を切られて声を奪われるまでどんな事情があったのか、もちろん誰も話を聞いたこともなければ聞き出すことも出来ない。 さりとて貧乏長屋の一軒だけをわざわざ狙った物盗りのしわざとは、到底考えられない。 そういう見解は町方の仕事だから、余計なことをよそで言いふらすんじゃねぇぞ、と脅しをかけて、馬面は遺体を引き上げていった。
 やっぱりあの女(ひと)は何か訳アリだったんだろう、しかも刀傷だって、そんなふうに殺されるだけの理由があったんだろうかね、 人は見かけによらないもんだ、くわばらくわばら・・・
 はじめこそ、無辜の幼子まで容赦なく斬り捨てられた事に同情していた住人たちも、 この得体の知れない事件の後味の悪さを、やがて勝手な憶測をつけお絹のせいにしてひそひそ内輪で噂しあった。死人に口なし。 生きていても自分の声で弁明出来なかっただろうが。
 長屋での風向きの変化を、裏稼業の二人はただ口をつぐみ遠巻きにして見ていた。 秀と加代だけはもちろん、真相を知っている。深手を負ったお絹と清太郎を長屋に連れ帰ったのも、看取って安置したのも自分たちだ。 その時に手を貸したもう一人の裏の仲間が、今わの際の女から秀が仕事の頼み料を受け取るところを、背を向けたまま聞いていた。
 遺体が発見された時から、秀は一貫して無表情と無言のままだった。 騒ぎを人々の後方から突っ立って見ているだけで、その場に根が生えたように微動だにしなかった。 役人の検分が終わり遺体が再び長屋に戻されると、秀がどこからか新しい棺桶を調達して来た。 淡々と体を動かすだけの凍り付いた横顔を、何人もから不気味そうに盗み見られもしたが、 あまりにも突然のことに心が追いつかないのだろうと、声をかける者はなかった。
 長屋内で簡素な葬式は出してやったが、寺に運ぶ役目にまで手をあげる者はいない。 下手人がいまだ見つからない以上、自分たちに因縁が及ぶのが怖いのだろう。 加代が、秀さんとふたりで引き受けると言い出すと、みんなあからさまにホッとした顔をした。 「お絹さんだから、秀さんが行くのが一番だよ」という小さな声まで聞こえてきた。
 生前のお絹と秀がいい雰囲気だと、長屋では周知の噂になっていた。ふだんぶっきらぼう不愛想で通っている若い錺職人が、 お絹には何くれとなく世話を焼いてやる。その息子の清太郎にいたっては、自分の仕事をほっぽり出してまで竹トンボなど玩具を作ってやったり、 川辺や原っぱに遊びに連れ出してはお絹の内職仕事の邪魔にならないようにしたりと、 年の離れた兄弟かはたまた我が子かというほどに面倒をみてやっている。 他人の子にそこまで出来るのはお絹さんに惚れているせいだ、と遠回しな秀の恋を微笑ましく見守っていたのだ。
 母子を一緒に収めた座棺を大八車に括りつけ、加代に後ろから押させながら秀が引いてゆく。その足取りは重く、 加代が心配そうにその背中を見つめている。
 盗賊の一味だった過去をつぐない生き直そうとあがくお絹を、古巣に引き戻そうとするヤクザの手から救い出してやりたかった。 貧しくても親子ふたりで穏やかな暮らしがしたい。ささやかな彼女の夢を、ことにお絹に心からの笑顔が戻ることを芯から願っていた。 たとえ自分が犠牲になっても、その夢を叶えたいと思った。 彼女に惹かれてはいたが、周りが噂するような、自分が一緒にいて笑っている未来は思い描けなかった。 己のそれは、すでに失くした夢だ。だがお絹ならば生き直せる。俺とは違い、過去を捨てられる。そう信じたかった。
「あ、勇さん」
 先に気づいた加代がホッとした声を漏らした。いつ先回りしていたのか、三味線屋が脇道から姿を現す。 切れ長の目ははじめから秀を捉えている。秀は物思いから我に返り、とっさに顔を逸らした。
 お絹の死から裏の仕事を終えた後もずっと、足元の見えない靄の中を漠然と進んでいるような感覚だった。 ただ無意識に体を動かし、思考も感情もすべてを停止させたままでいた。そうしないと息が出来ない。 勇次の視線とかち合った瞬間、閉じていた世界が破られた。
 声をかけることなく勇次は後方に回った。加代と押し役を代わったようだ。急に荷の重さが軽減し、車輪の回転が緩やかになる。 ぼんやりと秀の思考が動き出す。
 こいつにぜんぶ俺の悪あがきを見られていた。 頼んだわけでもないのに、陰ながら伴走されていた。お絹に肩入れする理由を問われたこともないから、 勇次が自分の行動を監視していると知らずにいた。
 八丁堀がお絹を犯して声を奪った主犯だと思い込み、一度は本気で殺しに行ったことをあらためて謝る気はない。 だがあの夜、勇次が身を挺して秀の暴走を食い止めなかったら、仕事人同士の無意味な殺し合いに終わっていた。
 八丁堀への誤解を解き、お絹の真の仇をこの手で始末出来たのは、勇次の働きあってのことだ。 今度ばかりは三味線屋のおせっかいに助けられたと、肚のなかでだけでも認めるしかない。
 終わったんだ、と車を引きながら秀は小さく呟いていた。鼻の奥がヅンと熱くなり、目の前の情景がぼやける。
 ごめんよ、お絹さん。俺がついていながら助けられなかった。清太郎、また竹トンボで遊ぶ夢・・・叶えてやれずにごめんな。



 秋もすっかり深まった。秀はすべてを忘れたように生活している。
 事件のことはうやむやなまま、たまに巡回に来る例の馬面の同心にものらりくらりと回答をかわされるばかり。 そのうちあらたな店子が入ってくると、長屋ではその話を蒸し返す者はいなくなっていた。
 その間、いくつかの裏の仕事を手がけた。不思議とあの件以来、三味線屋との連携は以前より上手くゆくようになった。 「次にひとりで突っ走りやがったら容赦しねぇぞ」との八丁堀からの真顔の脅しが効いたところも大きいが。 加代からも「前より勇さんとぶつからなくなったわね、いいことだわ」などと上から目線で言われて、癪に障るが実は少々面映ゆい。
 たしかにあれから秀の勇次に対する見方が多少変わったことで、意味もない敵視は自然となりを潜めた。 それどころか、ある日市中でばったり会った勇次に誘われて一杯つき合ったのを機に、 その後もたまにさしで酒を呑むという、これまでになかった関係が始まってしまったことは、 八丁堀にも加代にも絶対伏せておかねばなるまい。
 なにより、秀自身がもっとも己の変化に困惑している。 数年前、唯一心を許していた友を裏の仕事絡みで失くして以来、こうした対等なつき合いを年近い男としてこなかった。 それだけにこの他愛ない時間で久々に味わう気休めは、秀の日常にわずかながら新鮮味と明るさをもたらしていた。
 相手が裏の仲間である事実を差し引いても、だ。 むしろ同じだからこそ、互いの領域に踏み込みすぎない。 後ろ暗い表情を隠して付き合う気苦労がなくていい、とさえ秀は自らに理屈をつけた。
 実際、賑わう居酒屋で向かい合っている時のふたりは、どこにでもいる友人同士にしか見えなかった。




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