恋 ― 零 ―







 ある晩、秀は暗くなってから家を出て、途中酒屋に寄って入れて貰った徳利をぶら下げ三味線屋の裏口に立った。
 裏の仕事の用以外でここを訪ねるのは今夜が二度目だ。 今まで適当な居酒屋に入っていたのだが、あるとき勇次が次はうちに来いよと言い出したのだ。 そして秀の顔を見て笑いながら付け足した。酔い潰れた時ゃおふくろの部屋が空いてるよ、と。
 かなり前にフッとかき消すように江戸からいなくなった勇次の母は、 現在ふたりがこんな風な繋がりを持っていることを知らない。秀の表情に迷いを見てとった勇次のさりげない一言に、 いつ戻るかも知れない漂泊の母への信頼がにじんでいる。秀は妙に納得した。 そうだ、おりくさんはこんな事を気にする女(ひと)ではなかった。
「よう」
「急に冷え込んだな」
 短い挨拶をして土間に足を踏み入れると、温かい空気が冷えた体を包み込んだ。 こんな日は湯豆腐に限ると、勇次が支度しておいてくれたようだ。
 昆布を敷いて大ぶりに切った豆腐が並んでいる土鍋の中央に湯呑が沈めてあり、出汁で割った醤油が入っていた。 切り胡麻入りの温まったタレがいかにも豆腐に合いそうだ。 別皿に大根おろしも用意してあったが、赤い色は唐辛子を一緒におろしているからだとか。
 こういう心憎い手際を見せられると、勇次を粋に仕立てている確固とした土台というものがあるのだと、 男の秀でも感じ入らずにはいられない。おりくの育て方だろうか、 子どもの頃から花柳界に身を浸してきた経験知が磨き上げたものなのか。 いずれにしても勇次は、ただ一緒に酒を呑むだけの男客に対してさえ、気の利いたふるまいが自然に出来る男なのだろう。
「・・・伊達にもててるわけじゃねぇんだな」
 秀が思わず口に出すと、色男が振り向いてにやりと笑った。
「誉めてもこれ以上出ねぇよ」



 飲みながら大したことを話すわけでもない。外に出ればどこに耳がついているか分からないから、 裏稼業に少しでも関わる話題は避ける。職人と優男の町人同士が八丁堀をあいつと呼び捨てした日には、 どう怪しまれても仕方ない。
 その点、三味線屋の居間に落ち着くとそこまで周囲を憚らずに済む。 先ごろ手がけた裏の仕事の後日談を加代が仕入れてきたのを、秀は勇次に聞かせてやった。
 八丁堀が岡惚れしていた元上司の後家が、過日とある商家に後添えとして嫁したという話だ。 元々屋敷に出入りを許されていた呉服屋に、望まれて縁づいたそうだ。 何者かに殺された夫の仇である男が、己の罪を夫になすりつけて後家に言い寄り家までも乗っ取ろうと企んでいたところを、 仕事人の暗躍により阻止された。
 主として、八丁堀のいつになく熱心な働きぶりが功を奏した結果だったが、後家は真相を一部しか知らされていない。 元上司も結局は悪の仲間であったことまでは、ひたすら夫の無実を信じて耐えてきたその人の耳に入らないよう、八丁堀が入念に根回しした。
 かくして当主死亡ののち、夫婦の間に子がいなかったことを理由にお家は断絶の処分となったものの、 長く続いた家名に傷をつけることは避けられた。 亡夫の汚名を晴らすことが出来た美しい後家は、八丁堀の手を押し頂き涙を流して感謝したらしいが――――。
「良かったな。またどこかの武家の後妻に入って苦労するより、裕福な商家に下ったほうがあの人も幸せになれるさ」
「だろ?なのにあいつときたら何を期待してたんだか、図々しい」
 八丁堀のしおれ方は相当なものだったようだ。人妻がいくら夫の配下にいた男に手厚く尽くされたからと、 次第にそれに絆されて・・・などとまさか本気で夢見ていたわけではないだろうに。
「そのまさかを夢見られてた間が、あいつの恋だったんだなぁ」
「おっさんの失恋顔なんて見られたもんじゃなかったって、加代が気味悪がってたぞ。 ここんとこ来ねぇと思ってたら、どーせ仮病休みでふて寝決め込んでやがんだ」
 勇次が笑いながらも、ふと秀の顔を見た。
「?」
「ところでそういうおめぇはどうなんだよ、秀。まだ恋はしねぇのか?」
 口をポカンと半開きにしたまま固まった自分は、そうとう間抜けな面をしていたに違いない。 なぜ急にそんなことを訊かれたのか。面食らってただ勇次の顔を見ていた。
「ん?」
 くつろいだ表情だが、秀を促す一言は答えを待っている。からかっているのでもなさそうだ。 何も考えず気楽に過ごしていたひとときに水をさされた気になった。
「し・ね・えよ。まだじゃなくて、二度とな」
 邪険に秀は言い捨てた。こいつまであの事を気遣って言ってるのか、と鬱陶しくなる。 これまで努めて忘れようとしてきた、過ぎた痛みを今さらよみがえらせたくはない。
「二度と?なんでそうなるんだ。八丁堀でも一丁前にするんだぜ。おめぇはこれからじゃねぇか」
「余計な世話だ。あいつが年甲斐もなく恋しようが俺には関係ねぇ。どうしようと俺の勝手だろ」
「そう怒るなよ」
 苦笑すると心なしか目つきまで優しくなる。たった今むかついたばかりだというのに、秀は妙に気持ちが揺らいだ。
 本心を誰かに言うつもりなんてなかった。あの日、棺桶を載せた車を引きながら胸に溢れた後悔、そしてひとり固めた意志も。 だが、瞬く間に消えた儚い恋を最後まで見届けたこの男にだけは、聞かせてもいいかもしれない。
「怒ったんじゃねぇ。・・・ただ俺は・・・つくづく嫌になっちまったんだ。誰かを失くすのもてめぇを責めるのも、もう沢山だって」
 勇次の顔から笑みが消える。それを見ながら、秀は不思議と正直に思いを吐き出せた。
「俺には誰かを幸せにしてやることは出来ねぇ。今度こそそれが分かった。だから―――俺はもう恋なんかしねぇと決めたんだ」



 なにか言う代わりに酒を静かに含んだ男に、今度は秀が場の空気を切り替えるように冷やかす口調で訊いた。
「おい、人のことばっかり言ってよ、ほんとはおめぇがしてるんじゃねぇのか?」
「え?」
「恋だよ。気になってる誰か、さてはいるんだろ」
 そこはニヤリと笑うかはぐらかされるか、どちらかだろうと思っていた。 が、勇次は杯を煽る手を止め、一瞬真剣に考え込む素振りを見せた。
「―――いる」
 やがてきっぱりと答えたが、少し間をおいてボソッと付け加える。
「何も始まっちゃいねぇが」
「・・・」
 何やら悩んでいるらしい伏し目がちの色男の横顔に、秀はまじまじと視線を当てた。気づいた勇次が眉を寄せて怪訝そうに問う。
「何だよ、なんかおかしいか?」
「・・・いや、でもなんだか・・・」
「どうした?」
「おめぇでもそんな顔する時あるんだな、って」
「なんだそりゃ?人をなぶるんじゃねぇよ」
 今度は勇次がムッとしている。らしからぬ反応に秀はだんだん愉快になってきた。
「なぶってねぇよ。いいじゃねぇか、他でもねぇおめぇを悩ますくらいの相手だ。そのほうが落とし甲斐もある。―――だろ?」
「・・・」
 無言で秀を見た勇次は、なぜか呆れた目をしている。乙にすましたキザ野郎が、冷やかしに皮肉で切り返さないとは珍しい。 よほど照れているんだろう。勇次の案外可愛げのある一面を見つけて、秀はちょっとした優越感に浸った。
「ま、がんばれよ勇次。簪がご入用の際にはぜひうちをごひいきに」
 脱力している勇次の広い肩をぽんと叩き、芝居がかって恋する男を励ましてやった。




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