恋 ― 零 ―







 結局、その晩は泊まることになった。厠を出たら、鼻先に粉雪が舞っていた。どおりで呑んだ先から酔いが醒めてしまうわけだ。
 勧められるままに廊下の反対側の襖を開けると、三畳間にたたんだ布団一式と行燈のみが端然と置いてあった。 隅に寄せた何もかかっていない衣桁がどこか虚ろに見える。勇次が行燈を点けようとするのを、すぐ寝るからと秀は断った。
「じゃ、遠慮なく使わせて貰うぜ」
「ああ。明日の朝は」
「寝てろよ。早く目が覚めたら勝手に出てくから」
 手早く布団を敷き始めた秀の背後で、勇次は立ち去ろうとせず、開いた戸口に背を預け無言でそれを眺めている。
「?もういいよ」
 暗がりで振り返り、不思議に思って秀が促すと、
「秀。さっきの話だがな」
 出し抜けに勇次が口をきいた。見上げるがどっちにしてもこちらからは暗すぎて表情が見えない。 だがその声からは一滴の酒の余韻さえ感じられず、秀の胸がトクンと不穏な音を立てた。
「さっきの話?・・・どの話だ?」
「オレの相手がどうとかいう」
「―――あぁ。おめぇの片恋の相手か。それがどうかしたのか?」
 声の調子で身構えた秀がまじめに返すと、少しの沈黙をおいて低い声が問いかけた。
「それが誰なのか、おめぇ知りたくねぇか」
 秀は再び面食らって暗がりで目を見開いてしまう。今夜は何度かこの勇次の不意打ちの言動に驚かされたが、 こんな事を自ら言い出すなんて初耳だ。ただ事じゃないと、秀は困惑を隠せず曖昧な返答をする。
「え・・・。えーと、そりゃまぁ」
 これまで勇次の恋の相手は数えきれないほどいただろう。ふたりが知り合ってからも、 女と一緒のところを見かけたり出くわしたりした事は何度となくある。 が、その相手について勇次が秀になにか言うことは一度もなかった。 秀もまた、勇次の恋路なぞ裏の仕事に障りがないならどうでもいいと、完全無視を決め込んでいた。 そもそも毎回相手が違うじゃねぇかと、ちょっとやっかみ交じりの軽蔑もしていただけに、 自分からその手の話題に触れようとも思っていなかったのだ。
 あの煩い加代が聞き出そうと躍起になっても、冷たく笑われるか鼻先であしらわれるだけだったのに、 今日という今日はどういう風の吹きまわしなのか。
「でもよ。俺のまったく知らねぇ女なら名を聞いても―――」
 口ごもる秀の言葉を脇からさらうように、勇次が答えた。
「女じゃねぇんだ」
 聞きなれたはずの男の声が、まるで別人のものに聞こえる。空耳か?秀は首を捻った。
「・・・へ?」
「おめぇもよく知ってる奴さ。秀―――おめぇのことだから」



 するりと耳から入った自分の名前が、からっぽの頭の内側で何度ぶつかりながら反響しても、 一向に言葉の意味として己の中に落ちてこなかったのは、断じて俺が鈍いせいじゃない。
 言い寄る女が引きも切らない色男が、男である自分に真摯な声音で "恋" を打ち明けた・・・?
 今の状況のあり得なさは、秀にとって非現実的すぎた。たとえ八丁堀の恋が成就したと聞かされたとしても、 これほど茫然自失しない自信がある。気が遠のくあまり怒ることも笑うことも忘れて、逆に冷静に訊き返していた。
「話が見えねぇ。いまのはどういう意味だ?」
「驚かして悪かったな。言った通り、そのままの意味だ」
「・・・。つまり・・・?」
「つまり―――っと、・・・恋をしてみねぇか?オレはしたいんだが」
「・・・。誰と?」
「おめぇと」
「俺が・・・。誰と?」
「オレ」
「おめぇと?」
「そうだ」
「―――なんだそれ?ついさっき思いついたばかりとかじゃねぇのか」
 声に早速疑いが混じったのを聞き取り、勇次が苦笑まじりに否定する。
「なりゆき上そう疑いたい気持ちも分かるが、おめぇに惹かれてたのはホントだ」
 惹かれるなんてセリフを吐かれて、意図せずして秀の脈が上がった。暗くて幸いだが、頭に血が昇って顔がもやもやと上気してくる。
「そ、そんなの知らなかったぞ!いつからだよ」
「おめぇがオレにむやみに突っかかってた頃だったな。そんなにオレが気になるのかと思ってみてたらだんだんと・・・」
「う…うそだっ。なんでそういう解釈になるんだよ。おめぇの頭がおかしいんだろ!」
 ガキ同士の掛け合いじゃあるまいし。いい大人がばかばかしすぎてタガの外れた問答をしてやがる。 頭の中では夢でも見てるのかと盛大にあざけり嗤っている己がいる。 しかしなぜか声に出して笑えない。ふざけるのもたいがいにしろ、もう帰ると言い捨てて立ち上がれない。
 こんな品のない悪ふざけを仕掛ける奴じゃない。大それた事を軽々しく口にする人間でもないはずだ。 秀なりに認めた男だからこそ、問答無用で無理やり終わらせたのではこっちの気も収まらない。
 ごちゃごちゃとひとり問答しているうちに、いつの間にか勇次が目の前に来て膝をついていた。 廊下の向こうからかろうじて洩れる光源を背にすると、 陰になった表情ははっきりしない。だが布団の上であぐらをかく己の膝に軽く片手を置かれて、秀は我に返った。
 今まで近くに座っていてもされたことがない行為だ。しかし不思議と、嫌悪感や振り払いたい衝動は湧かなかった。 むしろ手の温もりを通して、正直に語ろうという勇次の意志が伝わった。まずは話を聞いてみてからだ。
「おめぇがもう恋はしねぇと決めたって話をしたよな?」
「―――ああ」
「誰も幸せに出来ねぇからと」
「―――そうだな」
「おめぇはほんとにそれでいいのかい?オレにはそうは聞こえなかったんだが」
 どこまで余計な世話だよ、と秀は肚の中で舌打ちした。こいつにだけは本心を語ったつもりでいたのに、 その裏までも探られるとは思わなかった。
「いいも悪いもねぇ。俺はとっくに諦めたんだ。だからもうほっといてくれ」
 投げやりになる秀を引き留めるように、勇次が膝を軽く掴んで言った。
「なあ秀。諦めるくらいなら、せめてオレと試してからってのはどうだろうな?」
「・・・待て。なんでそこにおめぇが出てくるんだ?」
 声の感じから真顔で言われていると分かってはいても、あまりに突拍子もない提案で秀の頭は混乱する。 いったいこいつは何を言わんとしているのか。他の恋を諦めても自分となら試せるだろうという理屈はどこから出てきた? 意味不明すぎて向かい合う男のほの白い顔を睨みつけていると、勇次がさらりと答えた。
「オレはおめぇに守って貰わなくてもいいって事だよ、秀」
 想像していなかった答えに思わず身じろいだ。勇次は続ける。低く睦言を囁くように。
「仕事人同士なら、失くすことを今さら恐れやしねぇよな。てめぇを責めるような後悔も無用―――」
「・・・」
「オレとだったら、おめぇも恋が出来るんじゃねぇか?」
 勇次の説得自体には矛盾はなかった。秀も思わず納得しそうになり、慌ててそんな自分の気を引き締める。 その理屈は秀自身、勇次との交友が日々の楽しみになっていることに気づいて悩んだ時、 後ろめたさを誤魔化すため用いていた方便に近かった。
「ちょっ…ちょっと待ってくれ。理屈はたしかに通るが、そんなの恋って言えるのか?」
 勇次を恋の対象として見られる、見られないという感覚以前に、そんな都合のいいことが許されるのかと秀は疑問に思うのだ。 勇次と過ごす時間は楽しい。それに一緒にいてなぜか心が安らぐ。好きかと訊かれれば、 恋という意味でなくとも勇次のことを『好きだ』と答えられるだろう。もちろん口には出さないが、心の中で。
「うまく言えねえが・・・、それは単におめぇを都合よく利用してるってことにならねぇか? いいところ取りのいまの関わり合いが恋に代わったところで、結局は同じことだ・・・」
 むしろ恋の方が厄介だ。勇次をより多く自分と向き合わせることになるから。そこまではさすがに言い出せなかった。
「同じじゃねぇよ」
 秀の述懐を聞き、しばし考えた後でぽつりと勇次が答えた。
「都合よく利用してる間だけでも、互いを一番に想い合うことは出来るだろ。こんなのも恋だよ」
「でも―――」
 勇次の手がまた秀の膝を掴んだ。
「いいんだ、秀。相手の何もかもをおめぇが背負わなくたって、恋は出来る」



 その言葉は、秀の心の奥底までも透過した。
 これまで通り過ぎていった恋、指のあいだからこぼれ落ちてしまった恋。 恋の記憶そのものが薄れてしまっても、それらが遺した悲しみ、悔恨だけは秀のなかに雪のごとく降り積もっていた。 心の根雪は容易には解けなかった。あらたな恋の情熱をもってしても。
 これ以上、自分に何が出来るのか。秀が他人にはけっして見せることのなかった苦しみを、 勇次の一言が月あかりのように照らし出した。
 ・・・敵わない。どうしてこいつはこんな事が言えるんだろう。こんな優しさを俺は知らない。知らなかった。 勇次に出会うまでは。ただひたすらに誰かの幸せを思い守ることだけが真の優しさ、本物の強さだと思っていた。
「・・・たしかにおめぇとだったら、その、色々と訳ありでもお互い様だし余計な心配もいらねぇ―――とは思うぜ」
 言わずにはいられなかった。心の裏側に隠されたものまでも深く感じ取り、 孤独に手を差し伸べてくれた勇次だからこそ、自分とこれ以上の関わりを持たせていいものか。
 勇次が沈黙し、膝に置いた手を引いた。すっかりそこだけ熱くなっていた人肌の心地よい重みが取り払われると、 置いていかれるような不安を感じた。たったいま遠ざけたのは自分なのに。
 暗さに慣れてきた目でそっと上目遣いに確かめる。思いがけず、勇次の視線と間近にぶつかった。
「ゆ――」
 まばたきする間もなかった。秀の唇に一瞬、鳥の羽でも触れたような風が掠め、そのあと淡い温もりが残された。
 完全に止まっていた息を吸う前に、目の前から男が音もなく立ち上がる。いま起きたことが飲み込めずにぼんやりしている秀をおいて、 勇次は部屋を出た。
 襖が閉まる直前、短く何か言ったようだ。




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