恋 ― 零 ―
なんてこった。 居間に戻り背中で障子を閉めると、勇次はしばし放心したまま立ち尽くした。 時間にしてほんのひと時しか経っていないはずだが、空の銚子が並んでいる眺めが別の場所にいるようだ。 今夜の自分はまったくどうかしてる。 自宅に誘ったのは仕事外で会うのは久しぶりだから、くつろいだ雰囲気がいいと思ったのだ。 それがまるで、二人きりの機会(とき)を待っていたかのように口説いてしまうとは。 いきなりこんな突飛な話を受け止められるわけがない。その場の思いつきや酔狂で言っているのではないと、 動揺する秀に出来る限り静かにしかし食い下がりつつ、頭ではその結果を見通している自分がいる。 まさか懐の簪で襲い掛かられるまではないにせよ、殴られるくらいはあるかも。 腹の中ではそんな覚悟もしていたから、結局は機会を狙っていたと思われたって仕方あるまい。 寝耳に水、青天の霹靂もかくやの告白に頭も感情も追いつかなかったせいか、 秀が憮然としながらも意外に騒ぎ立てず話を聞いてくれたのは幸いだった。 これまでも差し向かいで酒を挟んで過ごしてきたが、今夜ほどふたりが胸の内を見せ合うのははじめてだ。 都合よく利用してもいいから、いまのままでオレと恋をしようと重ねて言う勇次に対し、秀は遠回しな答えを口にした。 『・・・たしかにおめぇとだったら、その、色々と訳ありでもお互い様だし余計な心配もいらねぇ―――とは思うぜ』 今後も共に仕事をすることを思えば、そこが秀の示したギリギリの線引きだった。 また律儀者の秀にとっては、相手の気持ちを汲んだ精一杯の誠意でもあったろう。 なのに自分はその意を汲んでうなずく代わりに、ふだんより近い距離にある唇に誘われるように触れてしまったのだ。 つい今しがた手を置いていた膝よりも、ずっと頼りない弾力と淡い温み。 一瞬だけ感じたその無防備さに、我に返って自ら身を引き離した。 「すまねぇ」と口走ったと思うが、後も見ずにどうやって部屋を出てきたのか覚えていない。 いい年して十代のガキみたいな小便くさい真似をしたことに、今さら猛烈に恥ずかしさがこみ上げる。 女との色恋で狼狽えたりまして赤面したことなど、ついぞ記憶にもないのに・・・。 (―――いや。男だからってのは言い訳にならねぇよな) 肩で大きくため息を吐き出し、勇次は己に向けて言った。本気になったということだ―――自分が思っていた以上に。 こっちの気持ちなど、今の今まで何も知らずにいた秀はさぞ恐ろしかっただろう。気色悪くもあったろう。 二重三重の衝撃が大きすぎたあまりか、へたり込んで声ひとつ立てなかったあいつは、今どうしているのやら。 よもや出ていくかと耳を澄ませたが、廊下の向こうは静まり返ったままだ。 印象的な最初の出会いから、少しずつ積み上げられた秀に対する尽きない関心が、 れっきとした一人前の男に対する『恋』だという自覚は、薄々あった。 だがそれをはっきりと認めた上で、己の胸ひとつに納めておくつもりでいた想いを口にする気になったのは、 秀の口からもう二度と恋をしないと聞いたからだった。 八丁堀の涙ぐましくも他人の目には滑稽な恋の顛末から水を引いて、秀自身の恋について尋ねたが、そこに深い意図はなかった。 どのみち叶うはずのない心には蓋をして、秀が例のお絹の一件をそろそろ過去のものに出来たかを、軽く探ってみただけだ。 どこで落ちるか分からないのが恋だ。あらたな恋にはほど遠くても、 秀の心が別のほうに向いていれば、いずれ自然に機会はやってくるだろう。 たまに酒のつき合いをするようになった秀は、 会っている時はすっかり元の日常を取り戻した様子に見えていた。 だが予想に反して、秀は自分自身に話を振られたことに過敏に反応した。 そして二度と恋をしないと勇次の前で言い切っただけでなく、 自分の事を語りたがらないあの男にしては珍しく、そう決めた理由を打ち明けてきたのだ。 『ただ俺は・・・つくづく嫌になっちまったんだ。 誰かを失くすのもてめぇを責めるのも、もう沢山だって』 『俺には誰かを幸せにしてやることは出来ねぇ。今度こそそれが分かった。 だから―――俺はもう恋なんかしねぇと決めたんだ』 それを聞いて、これまでの妙に明るく吹っ切れたような秀の態度の変化が腑に落ちた。 明るく見えたのは絶望していたからだ。吹っ切れて見えていたのは、すべてに心を閉ざしてしまったからだ。 何も感じないように己を閉じてしまえば、生きるのは嘘みたいに楽になる。 そう、心を虚ろにしてただ目の前にやって来る現実を右から左に受け流してゆくだけならば、確かに楽になるかもしれない。 表面上は。しかしそれは、ほんとに生きていると言えるのか。 望むまいと思っても、自然に何かを望んでしまうのが人の心だ。 望みがどうあがいても自分の力では叶えられないことに失望し、 その失望の繰り返しが今の秀の極論に繋がったとしても。 秀は自分の話をそこで無理やり終わらせ、勇次の恋に話題をすり替えてしまったが、その時に勇次の胸は決まったのだ。 (惚れた相手にそうまで言われちゃ、黙って引き下がれねぇ) 心を自ら殺すという選択はかなしすぎる。 不愛想で自らすすんで周囲と交わることはしないが、表向きの秀はごく物静かな職人だ。 対して仲間内では、屈折した態度や怒りの激しさ、気難しさなど本人の抱える生きづらさがあらわになる。 この簪屋は、手がける細工とたがわず研ぎ澄まされた心の持ち主のようだと、数度の仕事を経て勇次は理解した。 仕事人でなく錺師としてだけならば、その繊細な性格はさらなる領域へと技を磨かせてゆくだろう。 しかし秀は裏の世界にこだわり続ける。その理由は誰にも分からない。 弱者への共鳴のみならず、世の不条理や悪に対する感じやすさは時として秀自身を迷い悩ませ、 仕事人として危なっかしい行動に走らせることもある。 あげく自ら深く傷つき引き受けなくても良い痛みまで受けてしまう。八丁堀はそんな秀を苦々しく思っているようだ。 俺たちは他人を救うにゃ汚れすぎてる、と。 だが勇次は思う。己の致命的な脆さを自覚しながらその苦しさと向き合うには、真の強さが要る。孤独に耐える強さが。 たしかに誰も救えないかもしれない。たとえ救えなくとも、秀はそのために駆け出すことを躊躇しないだろう。 こうと決めた思いを一途に貫ける、そんな愚直でひたむきな人間は堅気にも仕事人にもそうはいない。 例の声の出ないお絹に秀が岡惚れしていると知って、 八丁堀を物陰から狙っていた女の素性を知らずに秀がお絹と関わることに危険を感じたものの、 あくまでそれは仲間の身バレを懸念したに過ぎなかった。 しかしその後、お絹が囚われている生き地獄から救い出そうと秀のとった言動には、 何かに憑りつかれたような鬼気迫るものがあった。 刺し違えても八丁堀と対峙するために奔走する秀の心を、そこまで追い詰めたもの。それは恋なのだろうか。 己を犠牲にすることで、恋がかなうわけではないのに。 監視目的で秀の動向を探っていたはずが、いつしか勇次は気づいていた。 失くしたくない大切な存在を見守るような気持ちが先に立つ。お絹への秀の想いとは違っていたとしても、 オレはこうなる前からあいつに―――。 ――――――カタリ すっかり物思いに没入していて、小さな物音を耳で捉えながら、それが何かを判断するまでにやや間が空いた。 ハッとした時には、もう居間の障子に誰かが手をかけている。 さっきのは廊下越しの戸を引く音だったのだ。 「―――秀?」 鋭く呼びかけると、躊躇するようにいったん動きが止まった。勇次は固唾をのんで顔を上げている。 少しして音もなく障子が引かれ、わずかな隙間に秀の立ち姿が現れた。 行燈から離れているため、薄暗さのなかで見上げたその顔に表情らしきものは伺えない。 伏し目になってこっちを見ようともせず、立ち尽くしている。口を開く気配もなかった。 「・・・どう…したんだ、秀。何かあったのか?」 黙って立ち去らず秀がまだここに居たことが、喜ばしいのか空恐ろしいのか自分でも分からなくなりながら、 そっと呼びかける。自分からやって来たということは、何かしら言いたいことがあるからだろう。 ふたりの距離はほんの数歩しか離れていないのに、 その間に横たわる沈黙が作り出した隔たりは、大川の両岸から向かい合っているようだ。 息詰まる雰囲気のあまりか勇次の頭の端っこで妙な想像が浮かんだ。 「…なよ」 出し抜けに秀がボソッと口を利いた。 「・・・え?」 「―――だ―――だから。あ…謝るな」 「―――・・・」 「謝るくれぇならなっ、最初っから言うなってんだよ!!」 思考停止から立ち直ったか、感情を爆発させ大声を出した秀はしかし、ようやく勇次の顔を正面から見据えていた。 あらん限りのいまいましさを込めた目つきで睨みつけられても、 逃げも隠れもせずましてや問題を逸らすことなく、真っ向から怒りをぶつけてくる秀の心が嬉しい。 いや、もはや愛しいとまで感じてしまう。秀には悪いが。 「すまん。―――あ、そうか。また言っちまった」 素直な気持ちで口をついて出た言葉に、また謝りそうになって戸惑う。 だったらなんと言えばいい。そもそも秀は何に対して怒っているのか。 謝ったことに?それとも恋を口にしたことに? 「・・・秀。オレがおめぇに言ったことは、ホントの事だ」 「・・・」 「おめぇが嫌がることをするつもりはこれっぽちもなかったが―――、つい調子に乗った。だからそこは謝る」 あらためて神妙に言うと恥ずかしさが増す。 勇次がらしくもなく項垂れた首の後ろに片手をやりつつ言葉を次ぐと、 「だから、ぜんぶ謝るな」 打ち消すようにきっぱりと秀が言った。 「俺は。い…嫌だなんて、ただの一度も言ってねぇ」 聞き違いかと顔を上げると、秀はそそくさと障子を閉めるところだった。 「おい、秀!それって」 「あしたにしろもう寝る俺は疲れた」 棒読みで遮った秀は、来た時とは真逆にことさら大きな物音を立てて自室に戻っていった。 続
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