傷 (きず) 痕  - 勇次 - 8









 のれんの隙間から異質な視線を片頬に感じて目を向けると、 見慣れた長い顔の胡散臭げな目つきとかち当った。 客が帰ったところを狙いすますように出没したわりには、入口でぐずぐずしている。
「―――用があるんなら入ってくれねぇか。そこで睨まれてちゃ客が寄り付かねぇ」
 勇次は取り繕う気遣いもなしに無造作に声をかけた。 すぐに作業中の手元に目を戻した三味線屋を斜に眺めて、
「邪魔するぜ」
八丁堀がいつになく礼儀にかなった断りを入れながら、草履の足をのっそり踏み入れた。 後ろ手に、半分開け放してあった表戸を閉める。
 訪ねてきた用のおおよその見当はついている。 むしろそのこと以外に奉行所詰めの同心が表だってここを訪れる機会などありはしない。 あれから数日経ったが、そのあいだに加代は秀の怪我のことを八丁堀に知らせているはずだ。
 思う先から、男は懐手をして三和土に立ったままぼそりと呟いた。
「あいつのこと、加代に話は聞いた。まさかそんなことになってたとはな・・・。ちっとも知らなかったぜ」
 勇次が特に反応しないので、男は自分からまた口を利いた。
「・・・あいつがおめぇにいろいろと手間かけさせたらしいな。ま、ご苦労なこった―――」
 まるで秀に代わって礼を言っているように聞こえた空々しい科白を途中でふと止めると、ぼそりと訊いてくる。
「秀の野郎が、おめぇに頼んできたのか?」
 質問の意味を図りかねて、勇次は手を止めた。
「頼むって、何を」
「―――ン。いやその、なんだ。手を貸してくれとか何とかってことをよ」
 しかつめらしい面つきで言いながら、懐から出した片手で顎をしきりに撫でている。 勇次は歯切れの悪い男をうんざりした目つきで見た。
「妙なことを訊くもんだ。あいつがオレに頼るのがそんなに変かい?」
「そんなことは・・・」
 眉間の皺が深くなったところに、クスリと口の端を歪ませた勇次が畳み掛ける。
「それとも・・・。秀がオレの手を素直に借りたってのが、あんたには引っかかってるみてぇに聞こえたぜ」
「バカ云え!おめぇ、オレぁそんなつもりで言ったんじゃねぇよっ。 あいつにしちゃ珍しいから、そんなに酷ぇ傷だったのかと思っただけだ」
 ふだんならこの手の揶揄にまともに返す男ではないのに、ムキになるあたりがざわつく胸の内を映している。 仲間であろうとそうそう弱みを見せたりはせず、そんなときほど逆に他人を寄せ付けない強情な秀のことは、 自分が誰よりもよく知っていると言わんばかりの。
 加代から逐一、長屋での経緯(いきさつ)は聞いているだろうから、わざわざここに顔を出す必要はないはずだ。 そのくせ勇次しか知らない、どういう状況下で秀が負傷したかさえ問いただすこともせず。 訪ねてきた男が何を気にしているのかが何となく伝わった。
「・・・長屋のほうには?」
「おう、これから覗いてやるとこよ」
 急に話を切り替えられて、ホッとした声で八丁堀は答えた。 勇次は長屋を出る際、最後に見た怪我人の蒼褪めた顔を思い出す。 少し眉根を寄せて眠るその彫像めいた貌はどこか、 一度だけ大きな寺で見たことのある少年を模した三面神の、何かを耐え忍ぶ面(おもて)を彷彿とさせた。
「・・・医者に診せてからはオレも覗いちゃいねぇが、しばらく腕は使いものにはならねぇだろう」
 暮らし回りのことは遠からず加代の手を借りなくとも自力でなんとかなるだろう。 が、あの深い斬り傷が無事に繋がるまでは、表の簪造りはもちろん裏の仕事も当面出来る状態にない。 たとえ傷が完治した後にも、秀がまだ仕事人を続ける気なのかどうかは、いまの時点では不明として。
 しかし八丁堀は聞くまでもないといった気のない声で勇次の言葉を遮った。
「加代が焦れて何を言って来ようが、おれはもうそっちの話からは外れるぜ。 こんなことがあった後じゃ、どうにも気が乗らねえ」
 この男の語らずの願いがいま、はっきりと見えた気がした。 表だって庇う覚悟も自ら引き受ける意気地もないくせに、秀に関してはどんな場合にも己の存在を介在させたがる。 その言動の意図するところ。
「・・・秀が仕事をやれねぇうちは、ってことかい?日ごろのあんたらしくもねぇ」
 男が顎を触る手を止めて、端然と座してこちらに顔を向けている三味線屋をはじめてまともに見据えた。 店のなかに不穏な沈黙が落ちる。
「―――そういうそっちは・・・どうなんだ、三味線屋」
「関係ないね。オレは仕事の中身次第だ。秀抜きでもやるときゃやるさ」
 実のところ今後の裏の仕事については何も考えていなかったが、不自然な八丁堀の態度が勇次に逆の立場を取らせた。
「八丁堀。さっきのあんたの問いに答えてやるが、あの晩はオレが秀を引き留めてむりに手当てをしたのさ」
「・・・・・」
「オレが秀に構うのが気に喰わねぇんなら、―――あんたが力づくであいつをこの世界から引き離せばいい」
 店のなかの空気がさらに重くなり、徐々に緊張を孕んだ。いつも一歩引いた場所にいて、 第三者的に仲間内でのやりとりを眺めているだけの勇次のあからさまな意見には、 さしもの八丁堀も動揺を隠せない様子だった。
「・・・三味線屋。てめぇ、さっきから何が言いてぇ」
 噛みしめた奥歯のあいだから漏らした今しも食いつきそうな声。 昼行燈の仮面を自ら引き下ろし、ぎらぎらした情念渦巻く本性を露わにした男と、 互いの懐を探る刃のような視線が軋り合う。
「他の誰の手にも触れさせたくねぇ。てめぇが触れられねぇのならなおさら。 ・・・オレにはあんたの顔には・・・そう書いてあるように見えるぜ」
 ほとんど抜刀する寸前まで高まった男の殺意は全身に突き刺さってきた。 しかしここで一歩も引かずにいることこそ、秀とのあいだを隔てる見えない壁を壊すように思ったのだ。 求めていたものをついに見出したいまの自分にとって。 勇次は両手を膝の上に乗せたまま動かずにいた。
「・・・―――糞ったれが。その言葉・・・、そっくりそのままおめぇに返ぇしてやら」
 やがて漲る肩の力を抜いた男がどす黒い衝動を何とか抑え込んだ声で言い捨て、 殺意を手放したあとの白けた空気を切り離すように、そのまま背を向けた。 来た時よりも項垂れ丸まって見える黒い羽織の背中を、無言で見送る。
 開けっ放しの表戸から男の重苦しい気配が消えたとき、 ゆっくりと静かに息を吐いた勇次は、掌にも背中にも冷たい汗をかいていることに気づいた。



 気にはなっているものの、自分の気持ちを認めたあとにはかえって訪ねて行きづらくなった。 牽制してくる八丁堀にまで、秀に今後も構うつもりでいる意志をはっきりと見せつけ、宣言したようなものだ。
 加代が報告がてら時おり店に顔を出すから、その後の秀の様子は会わなくとも知ることが出来た。 現在の秀は片手は包帯と板切れで固定したままで、ほぼ普通の生活に戻っている。 酔って帰る途中、暗闇でいきなり白刃が斬りかかってきたんだって、という加代の盛大なる吹聴のおかげで、 長屋の住人は秀の怪我を辻斬りの仕業と納得したようだ。 しかし、さすがにまだ鑿を手にするまでには当面の安静期間が要る。用があるとき以外には引きこもり、 細工の音の聞こえてこない秀の部屋は、日中でもひっそりと静まり返っているとのことだ。
 閑居して黙した秀がいま何を考えているのだろうかと、日常のすき間にふと思いを馳せる。 勇次自身は、自分の周りで時は巡り淡々と日々は過ぎてゆくのに、 心はあの時からどこにも動いていない気がする。 心のもっと内奥から囁きかける声がある。もう見つけてしまった、と。
 いまごろ秀は後悔しているだろうか。 勇次を拒絶出来なかった自分を。予期せずして己のなかで目を覚ました情動を、言葉を使わずに交わした互いの熱量を、 時間が忘れさせてくれるはずだとひたすら念じ続けているのかも知れない。
(悪いな、秀。オレはおめぇに会えばきっと確かめずにはいられねぇ。おめぇがずっと目を逸らしてきたものを―――)
 一見してそれぞれが抱えるこじらせた思いの先は、どこかで二本の糸のように絡み合っているのではないか。 そんなかすかな予感が勇次の胸から消えることはなかった。



 そのまま時が過ぎて季節をまたぎ、空気がだんだんと透き通って感じられてきた初秋のある昼下がり。 半纏姿の秀が前触れもなく三味線屋の店先に姿を見せた。
 借りた羽織と撥を返しに来たと開口一番、それだけを告げて立ち尽くしている。 いかにも秀らしい登場が懐かしいと思いながら、不意の再会に自然に顔がほころびかけるのを勇次はすんででこらえた。
「世話になったな。恩に着るぜ」
 照れ隠しのせいか怒ったように口にする秀の黒目がちの大きな瞳は、 落ち着きなく泳いでやたらとまばたきを繰り返している。
「律儀なんだな」
 気づいていないふりして何気ない口調で言うと、 ちょうど沸かしてあった鉄瓶をとって何も言わずに茶を入れ始める。 それを見た秀も、いつになく黙って上がりかまちに腰を下ろした。
 洗いざらしの風呂敷の結び目をほどき、茶を出した勇次の膝元近くに、畳んだ羽織と上に乗せた撥を押しやる。 顔を見ると、
「すまねぇ・・・。あんたの羽織、シミになっちまった」
俯いたままの秀に謝られた。
 あの日の朝、勇次が長屋に踏み込んだときには、羽織は離れた場所にふわりと置いてあった。 怪我を隠すために勇次が羽織らせたそれを極力汚さぬようにという、 苦しいさなかの秀の精一杯の律儀さは分かっていたが黙っていた。 灰汁など使ってみてもどうしても完全には落ちなかった血痕が、右袖に残っているという。 その時ばかりは悲しそうな表情すら浮かべて謝罪する秀が、いま手を伸ばせば触れられるところにいる。
「そんなの気にしなくていい。役に立ったならそれでいいんだ」
 夢には一度も出てこなかった癖のある無造作な前髪の下で、ちらと初めて秀が目を合わせてきた。 同時に勇次の胸が熱く疼いた。それに気づくことなく、秀はまだ羽織にこだわっている。
「・・・以前、・・・おりくさんが」
 ためらいがちに口にしたその名があまりにも唐突であまりにも久しぶり過ぎて、 勇次はエ?と間の抜けた声を発してしまった。
「おふくろ?―――が、どうかしたか?」
「・・・おりくさんが言ったんだ。その羽織、おめぇの仕事のためにあの女(ひと)が仕立てたんだろ?」
「―――」
 いつの間に、母とこの無口で不愛想な錺職人がそんな個人的な会話を交わしていたのだろう。 たしかに勇次は当初、 一時的に手を組むことになった江戸の連中とはすすんで交わらない態度を決め込んでいたから、知らなかったのは無理もない。
 しかし母おりくは、誰にでもそうしたよもやま話をやすやすと口にするような女ではないことは、 長年共に生きてきた自分が一番よく知っている。 ということは、母はこの孤独な目をした若い仕事人をどこかで信頼に足ると見さだめ、 非情の世界で出会った他人の秀に、自らの情にまつわる気持ちをふと漏らしたのだろうか。
 ほんの一瞬だが別の世界に意識が飛んでいた勇次は、目の前の秀に視線を戻す。
「・・・そうさ。だからおめぇが気にしなくても、おふくろが戻ればまた仕立て直してくれるさ」
 秀を宥めるためではなく、ごく思ったままの言葉が自然に口をついていた。 仕事人の背負う業のために分断された自分たち母子のことを本気で案じているのが分かる、 この生真面目な表情と口調のおかげだったかもしれない。
 あのひとがいつか戻ることを、どこかで信じていた。自分を見限ることなど、あのひとに出来はしないと。 結局は意識せずしてあのひとを赦していたのだ。 自分の声が屈託なく母を語ったのを、自分の耳で聞くことでそんなふうに勇次は感じた。
 母の失踪以来、自分はやはり育ての母を憎んでいるのではないか、 このさだめを負わせたあの人に復讐したいと思っているのではないかという疑念に独り苦しんできた。 もしいま目の前に母が立てば、そのとき自分はどうするのか。寒い夜に胸に抱いて温めてくれた女の首に向けて、 思わず糸を放ってしまうのではないか。
 問いかけることをやめても、己への不信が体の奥深く澱のように澱み、絶望が心を蝕んでいた。 秀に理由もわからぬまま惹きつけられ執心してゆくなかで、 誰とも相容れない孤独こそが互いを引き合わせているとも感じていた。
 己の存在の寄る辺なさが、いまようやく霧のなかで固い地面の感触を探り当てたという気がしている。 母の自分に対する愛情を疑いもしない自分は、最初から親子のさだめを恨むこともなかったのだ。 そして、これから先もずっと。
「・・・おりくさんから便りは?」
 秀が控えめに勇次に訊ねた。そんな踏み込んだことを話し合うのは初めてだった。 が、それはいまの二人にとってはそう不自然なものではなかった。 一度首を横に振った勇次はしかし、秀に静かに笑いかけて答える。
「おふくろはへそ曲がりだからな。こっちが忘れた頃にひょっこり戻ってくるさ」

 二人のあいだに沈黙がおち、訪ねてきた名目の用が済んでしまったことに気づくと、秀はまたそわそわし始めた。
「それじゃ」
 中身を一息に飲み干した湯のみを畳に置き、腰を浮かせてもう体を戸口のほうへと向けようとする。 そんな秀に手をのばし、すかさず半纏の袖を捉えた勇次は言う。
「それだけ律儀なおめぇがあとひとつ、大事なことを忘れてるぜ、秀」
 面と向かってははじめて簪屋でなく名前で呼ばれたことに今になって気づいた秀は、 捕えられた袖に一瞬肩を揺らすほどにたじろぎ、放そうとしない勇次の手に視線を落とした。
「・・・―――大事なこと?・・・なんだよ・・・・・」
 小さく唾を呑みこみ、掠れてほとんど吐息のように零れたその呟きが、 勇次にももう後戻りできない空恐ろしい誘惑に聴こえた。
 あきらかにこれから起きることを恐れ、それでも先に進むしかないところに自らを追い込んでいる。 療養中考えた末に決心してここにやって来たのだろう。そんな秀を見てさえ、かわいそうにと思ったのだ。 その感情のもたらす昂ぶりを、勇次はもう隠すつもりはなかった。
「おめぇの傷痕(きず)・・・。オレに見せてくれねぇか」






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