傷 (きず) 痕  - 勇次 - 9









 勇次は秀の見ている前で表戸を内側から締めてしまった。
 なにか言い逃れしかけたが、振り返った勇次の目を見て口を噤んだ。 そのまま無言でかたわらに腰を下ろした家の主を横目で睨んだものの、やがて秀は小さくため息を吐く。 ほんの一押しでふたりのあいだにある最後の壁が崩れ落ちそうなあやうさを孕んだ沈黙に、 外の雑踏の音までがやけに遠くなった。
「・・・恩人に乞われちゃ仕方ねぇが―――。三味線屋、おめぇはかなり悪趣味だぜ」
 上がりかまちに片膝のみ上げた秀は、何もない畳の上に視線を落としたまま、 勇次の見ているまえで半纏に手をかけると、開き直った様子でグイと大きく右肩をはだけてみせた。 中に着込んだ腹掛けの下で、細いが固く締まった胸が一度大きく隆起した。
 傷痕は縫合の跡もくっきりと残り、痛々しく周辺から盛り上がりいまだに赤らんでいたが、 肉同士はうまいこと繋がっている。大きく動かせば引き攣れたような勝手の悪さがあるが痛みはもう殆ど感じないと、 秀はぶっきらぼうに説明を添えた。
「ふぅん。あの酔いどれ医者の腕はそこそこ確かだったらしいな。 おめぇがあんまり暴れるから、あいつの手元がいつ狂うかと何度もヒヤッとさせられたぜ」
「いつだって手加減無しなんだよ、あの野郎。今度こそ殺られるかと思った・・・」
 すさまじい苦痛をいままた思い出したのか、秀が顔をしかめて呟く。それに軽く笑ったあとで囁く。
「触ってもいいか?」
 秀が答えないので、勇次は指でそっとその傷痕に触れた。
 目で見る以上にでこぼこした感触がある。傷の上に盛り上がった肉はこのままの形で遺るのだろうと思わせた。 痛みはなくなっても、この体についた痕は一生消えない。 今回のさまざまな出来事は、肉体を通して秀のなかに忘れがたく刻まれているに違いなかった。
「綺麗だ」
 秀の二の腕をやんわりと手の内に収めたまま顔を上げると、 想像したとおり、勇次のことを不安げな目つきで見ている硬質に整った貌がすぐ近くにあった。 何か思う間もなく空いた右手があがり、勇次はその頬に爪先で触れていた。
「・・っ・・・!」
 反射的に肩をびくつかせて身を引きそうになった秀だった。 何度か激しくまばたきを繰り返したあと、―――しかし少しの間をおいてこれまでにない行動に出た。 じっと黒目がちの瞳を据えたまま、勇次の手に自分のそれを重ねてきたのだ。 いま勇次から目を逸らせば自分の決心が崩れてしまうと思っているかのように。
 掴んだ手を薄く開いた唇に持ってゆく。紅をささない唇はそのものの形が美しく官能的だった。 そろそろと慎重に触れてくる乾いた唇の感触がくすぐったい。勇次の指や手の甲に秀の温い熱が伝わった。
 大胆にしてぎこちない行為の意味を図りかねたが、そのうちふと思い当たる。 あの晩、血濡れた秀の手をとって自分がしたことをし返しているのだ、と。秀の目はジッとこちらを捉えていた。 それに気がつくと、臍の下あたりにさっきからもやもやと湧き出していた熱がはっきりとした重たい疼きの形をとり、 みぞおちをずきりと突き上げた。
 背筋から首の後ろにかけて怖気のような細かい震えが駆け上がる。 右手を秀に預けたまま、勇次は剥きだしの骨ばった肩口に顔を寄せた。 くっきりと浮き出た鎖骨あたりに唇で軽く触れると、乾いた日向の匂い、嗅いだ覚えのある肌の匂いが鼻孔をくすぐる。 もう抑えのきかないところまで情欲は高まっていた。
 やんわりと、しかし押し返せないほどに重みをかけると、痩せた上体は勇次と重なって、さして抵抗なく畳のうえに倒れた。
 がちがちに強張ったままの秀の肩を抑えつけ、傷痕に今度は唇で触れる。 そこは赤い血の色を薄い皮膚越しにまだのぞかせているだけあって、やや熱を持っていた。 それに何度か唇を押し当て、肌にあらたに刻まれた業の痕跡を確かめる。 ほんの少し舌先を出してなぞってみた。血は滲んでいないのに、ほのかに金気の味がした。
 ぴくっと神鳴りにでも打たれたように敏感に背をしならせた秀が、 圧し掛かる男の着物の肩を強く掴み、いまさら押し返そうとする。勇次は顔をあげ低い声で宣言した。
「もう遅いぜ、秀。ここまできたらオレは最後までおめぇを抱く・・・。おめぇはどうなんだ・・・?」
 薄く水の膜が張ったような光る目を瞠って秀が勇次を見たが、そのまま横に顔を背け視線を外した。 揺れ動く感情を隠せないでいる横顔を真上から見下ろす。
 勇次の言葉に応えて傷痕を見せたこともそのあととった行動も、 すべてがいまのこの一言を引き出させるまでの誘惑と受け取れるのに、秀はあきらかに恐れ混乱していた。 それでいて勇次と同じく激しく血を沸き立たせているのは、 着物ごしにも互いの熱で汗ばむほどの息苦しさからもよく伝わった。
 勇次は秀の乱れかかる髪を額から掻き上げてやる。
「っ・・・・・」
 秀は息を殺してされるがままだ。癖のある黒髪を長い指が繰り返し梳いては、 顔の輪郭を、喉元をなぞりまた戻ることを繰り返す。
 耐え切れず唇を薄くあけて隆起の激しくなった胸から息を吐いた秀は、ついに瞼を下ろしてしまった。 今度は顎にかかった勇次の手が少し顔を上向きにさせると、頭を抱込む格好で唇を合わせた。
 水を与えるための口移しではない、熱の共有。はじめはやさしく触れるのみ。 そのうち緊張が解けてきたら少しずつ角度を変え、自然に唇を開かせたあとでそっと舌を忍ばせる。 追わせるようにするりと身をかわすような巧みな口づけの誘導に、秀の体からしだいに力が抜け翻弄されてゆく。
 細かく震えるその手がこれから起きる未知のことに恐れつつも、 それから逃れ出るつもりのない意志を示すように、自分の背中に回されたのに気が付くと、 勇次は待ちかねていた情動に総てを委ねた。

 同性と肌を合わせたのは、例の女が死んでからのち無軌道な荒れた日々をしばらく送っていた頃、 無頼な勇次に惚れた陰間に懇願されて、気まぐれに抱いてやって以来だ。
 そのときの相手は、可憐な少女めいた顔立ちと可愛らしい声をした華奢な体つきの美少年だったが、 勇次には何の感慨も浮かばなかった。 客に呼ばれて出た座敷の茶屋で見かけて以来、 夢にまで見るほどにずっと慕っていたという口説きの言葉すら、いじらしいとも感じなかった。
 しかしいま。自立した男の肉体と精神を持つ秀に、本能を刺激され感情を奥底から揺さぶられている。 体が、心が燃えたつように、腕の中で激しく身を捩るこの男のすべてを欲している。
 己のすべてでこの存在の重みをたしかめ愛しみ一つに溶けあいたいという情熱が、欲望が、勇次を支配していた。
 この男はオレのものだ。この傷だらけの美しさは、オレのものだ。
 したたかで剣呑、そのくせ明日の命より刹那の真実に身も心も投げ出してしまう儚さ。 闇に射し込む一条の月あかりにも似た―――。がらんどうではない実体の美しさを持つ者。
 やっと見つけた。自我を自覚した或る少年の時分から、体のどこか奥底から聴こえてくる声が探し求めていた、孤独の片割れを。



 以来、ふたりは裏の仕事を抜きにして、時おり秘かに会うようになった。
 人目に隠れた関係をひっそりと重ねることに関して秀は口を閉ざしたまま、それでも勇次に誘われれば拒むことはない。 秀が自分から誘うことはなかった。
 秀の右腕の傷痕は、いまでは完全に体の一部となっている。 だがそれ以外の傷痕の存在を、こうなるまでは勇次は勿論知る由もなかった。 呆れるほどに刻まれた過去の傷痕たちも、勇次は目にすることになった。
 あたかも知らない記憶を辿るように、勇次がそれらに唇や指で触れるのを秀ははじめは戸惑い、 そして居心地悪そうに身を捩り、最終的にはいやがった。
 勇次にとって、傷痕は秀の生をもっとも己の魂に近く鮮烈に感じさせてくれるものであり、 まただからこそ美しいと感じるものでもある。 傷口はふさがったもののいびつに盛り上がった痕や、 光っているように白っぽく乾いた裂傷の痕跡がついた男の体を、 美しいと思うなどと聞いたら、秀はまた勇次を悪趣味だと白い目で見るだろうが。
 それでも、こうして秀と逢瀬を交わすたびにそれらに触れずにはいられない。 その傷痕のひとつひとつは、自分が出会う以前の秀の人生を物語っている。 どれほどの裏切りに遭い、身を引き裂きたいほどの怒りや絶望的な虚しさを繰り返し味わってきたのか。 それでも己の贖罪の意識を捨てることの出来ない苦しさに、人知れず叫び流した涙の歴史を経て、いまここに居るのだろうか。
 これまで生き抜いてきた自身の歳月をどこか重ね合わせながら、思う。
 勇次の望みは、秀の隠された真実を知ることだ。
(悪いな、秀。オレはおめぇに会えばきっと確かめずにはいられねぇ。おめぇがずっと目を逸らしてきたものを―――)
 自ら見ないようにして、さらに容易に他人に見せない秀の内面の傷みをあらわすかのようなそれらの傷痕とじかに触れ合うことで、 肉体ほどには開こうとはしない臆病で頑なな心のなかに、少しずつでも分け入りたいと願う。
 傷痕への執心を性的な悪戯だと思っているのか、秀は無意識に悲しい目をして瞼を伏せる。 胸のうちに隠した声に耐えているような切ない表情が、なおさら勇次を駆り立てることに気づきもしないで。
 秀は口では決して何も言おうとはしない。声に出しては何も望もうとしない。 何かを願えば最後、いまのこの関係さえもが失われてしまうと言わんばかりに、 ただ熱く燃えたつ体でもって訴えるばかりだ。愛されたい、と。



『俺はもう降りる、俺にかまうなの一点張りだったのにね』
 一体どの口が云うのかと、この女に問いかけるだけでも今となっては時間の無駄だ。 いけしゃあしゃあと笑う加代から聞いた話によると、 秀は例の大店(おおだな)の婿養子の話などあれから一度も口にしたことがないとのことだ。
『だいたいさ、いくら腕っこきの職人が旦那の気にいったからって、 どこの馬の骨とも分からないようなのを婿にするなんて、他に示しがつかないよ。 娘のほうじゃ良くっても使用人たちが納得しないさね。入ったところであいつが今までと違う苦労をするだけよ』
 おおかた、裏稼業に再び引き込もうとする自分の猛攻を逸らそうとする、 秀の出まかせだったのだろうと加代は笑ったが、勇次は必ずしもまったくの嘘だとは思わなかった。
 話を多少大きくして語ったとしても、それだけ秀がただの錺職人として平凡だがささやかな安逸の人生を夢見て、 堅気になる道を切望していたことは、仕事仲間としてかかわる中でも想像に難くなかった。
 秀の寝顔を眺めてつらつらと述懐にふけるうち、勇次はその話を思い出していた。 秀のいまの心はどうなのだろう。
 裏の仕事は秀の完治を見計らうように、 加代がつい先だって気になる事件があると匂わせてきた。 八丁堀はといえばたいして乗り気でなさそうに体面を取り繕いつつも、結局は話に馬面を突っ込んできた。 そして秀もまた、裏から足を洗うともなんとも言い出さず、いつもの無表情で黙って加代の話を聞いていたのだった。
 勇次が紫煙の先を追っていると、ごそごそと隣で寝返る気配がした。 見ると秀が行燈の柔かな灯りのしたで目をぱちりと開いている。 黒飴みたいな濡れた艶を光らせた瞳が、猫のように傍らの男に動いた。
「どうした?恐い夢でも見たか?」
「・・・・・あめ―――」
 強まる雨音に起こされたようだ。しばらく外の音に耳を済ませたあと、
「・・・おめぇまだ寝てねぇのかよ」
 起きたそばから疲れの残った不明瞭な呟きには、ちらりとトゲがある。 あれだけ絡み合っておきながら、勇次が平然と起きていられるのが癪に障るらしい。勇次は笑って吸い口を唇から離した。
「ちょうどいい時に起きたな。いま、あることを思い出して訊きたいと思ってたとこさ」
「・・・あること?」
 ようやく思考が動きだしたか、頭を巡らしてぼんやりと訊き返した秀に、勇次は率直に持ち出した。
「でぇぶ前ぇに加代に聞いたんだが。 おめぇが商家の婿に望まれてるって話―――、どうなったんだい?」
 一瞬、なんの話をされているのかと寝ぼけた頭で理解出来なかったとみえ、秀は怪訝な顔になる。 しばしの沈黙を経て、やがて眉間に皺を寄せたままでじわりと頬を赤くするという、器用な真似をした。
「・・・関係ねぇだろ、おめぇに。もうとっくにどっかに流れてった話だ」
「関係あるだろ」
 いつものごとく、そっけなくはぐらかせば深追いもされず終わると思っていた会話に返事を返されて、 秀が思わず勇次を見た。煙管の雁首を煙草盆の端に軽く打ち付けて灰を落とすと無造作に手放して、 勇次は秀のほうに向き直って言った。
「おめぇはいまオレのものだ」
「・・・・・なん―――」
「明日はどうであれ、いまはおめぇの髪も目も傷痕もすべてオレのだ。違うかい?」
 秀は動揺していた。さっきよりもさらに染まった顔で、眠気も一気に吹き飛んだような声を上げた。
「なに―――言ってやがる。勝手に決めんなっ。ど、どうせ俺は今んとこ予定は無ぇけどな!め・・・めいわくなんだよ、そんな!」
「迷惑だったら本気で拒めばいいさ。おめぇを苦しめてまで付きまとったりはしねえよ」
 キッと見開いた秀の目のなかに一瞬傷ついた色が浮かぶ。それを確かめたうえで、 勇次はまんざら冗談でもなさそうな笑いを含めない声で続けた。
「ただな・・・。おめぇがオレから逃げねぇ限り、身を引くつもりは一切ねぇ。それだけ覚えててくれ」
 宣言の過激さのわりには淡々と平静な男の白い貌を、秀はしばらく口を半開きにしたままで見上げていた。 そのうち唇を噛むようにつぐみ胡散臭い目つきで睨みつけると、やおら口走った。
「ひとを勝手に、もの呼ばわりすんじゃねぇ!おめぇこそっ―――お・・・俺のもんだって言われたらどうだっ」
「そりゃあ望むところだな」
「―――勇次!」
 初めて三味線屋ではなく名を呼ばれ、勇次はにやりとしながら、うろたえて絶句する秀に手を伸ばした。

 もしもおめぇがどこかの女と所帯を持つと言い出しても・・・。 オレはおめぇを求めることを止めはしねぇだろう。 どこにいても誰と添おうが、おめぇがオレの見つけた半身であることに変わりはないから。
 いずれおめぇにもそれが分かるはずだ。 おめぇの孤独が還る場所は、冷え切れない心を休ませる場所はここしかないって。 オレがおめぇの傷痕に触れて満たされるように。
 かわいそうだと思ったからには、惚れちまったたからには、 オレはこの世の一番底にいて、堕ちて来るおめぇを受け止めてやる―――。

 秀と違って、勇次自身はこの先も裏の仕事を続けるつもりでいる。 そのうち帰ってくるだろう母と同様に。
 闇の底なし淵の水で育った者は、そこに棲み続けるほうが性に合うのだ。




(黒い勇次(当社比)にリクエストを頂きありがとうございました)

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