傷 (きず) 痕  - 勇次 - 7









 医者が口にした安くはない額の謝礼を、自分の巾着から渋々出したのは加代だった。 もちろんあっさりと出したわけではない。
「酒代も手伝いの手間賃もこっちはかかってんだからね」
「あぁ!?この守銭奴のアマが!寝てるとこ叩き起こされて引きずられて来たってのに、 どっちがあべこべに強請られなきゃならねぇんだ!」
 酒の酔いにあかせて激昂する真っ赤な顔の医者相手に、堂々値切り交渉をふっかけている。 がめつく調子のいいことをまくし立てるいつもの加代のせいで、 血と汗の格闘に重く澱んでいた部屋の空気までもが入れ替わった。
 二度とてめぇらとは関わらねぇ、とぶつぶつ言いながら医者が出てゆくと、 勇次が何か言う前に本人が、
「あとはあたしが面倒看るよ」
と振り向きざま、頼もしく請け合った。
「おめぇ、いま仕事は」
 とりあえずは気にしてやると、その日暮らしのなんでも屋を営むこの女は、
「ちょうどヒマになったとこなの」
すまし顔でしゃあしゃあと答えた。
「これまでかかった手間代とあのヤブ医者に払った礼金、それから当座のお世話代ってことで、 まとめてあとから秀さんに頂きます」
 一度食らいついた獲物は逃さないしまり屋らしい即答に、勇次も笑ってしまう。 加代はすっかり秀を当面の金づるの一つにすることに決めたようだ。 どれだけたかられるかと気の毒な気もするが、 職人の利き腕一本が使い物にならずに済んだ代金と思えば安いものだろう。
 秀の意固地な性格上、裏の仕事仲間が情で看病などして来られたほうが、かえって険悪になりそうだ。 その点この女は、さっきは我が身を切られるような表情で秀を抑えつけていたくせに、いまはケロリと胸算用を口にする。 仲間の難儀すら自分の金儲けになるものならば利用するほどに、 完全に情を切り離して考えられる加代になら、ここぞという時には秀も手を借りやすいのかも知れない。
 なんだかんだと、こいつらなりの距離と呼吸をもって持ちつ持たれつの関係を築いているということか。 しかしそう思いながらも勇次の記憶は同時に、加代を助けに駆け付けた秀との初対面の日のことを蘇らせている。 一瞬の隙をついて飛びかからんとする獣めいた秀の目の中に、 指一本でも仲間を傷つければお前を殺すという意志がはっきりと浮かんで見えた。
(秀・・・。あんときのおめぇは情で動いてたな)

 自然に目が覚めるまでこのまま寝かせておこうということになった。起きればまた痛みが戻って本人も辛いだけだ。 加代が持ってきた枕を自分の膝の代わりに首の後ろにあてがうと、 勇次は疲労困憊しきって深い寝息を立てている秀の妙に穏やかな寝顔にしばし目を留め、腰をあげた。
「見直しちゃったよ。まさか勇さんがここまで手を貸してくれるなんてね」
「・・・・・。仕方ねぇだろ。あの場に居たのはこいつとオレだけだ。 あとからオレがおめぇや八丁堀に責められることになっちゃ困るんでね」
 素っ気なく言いながらも、やや早口になっている自分の口調がどこか言い訳がましく聞こえた。 かわいそうにとさっき自分が口走ったことをも含めて、加代が言っているのだろうと思うと、 女の擦り寄るような猫なで声にかすかな殺意を覚えた。
「あとは知らねぇ。せいぜいおめぇが世話焼いて駄賃を稼ぐんだな」
「そう言わないでたまには覗いてやってよ、勇さん」
 戸口を跨ぐ背中に掛けられた親し気な声を無視して、長屋を後にした。



 時間の感覚がずっとないままだったが、外を歩いてみれば太陽は天の中空をやや西側に傾き、 昼をとうに過ぎていることが分かった。勇次は通りを北に行きかけてそこでふと踵を返すと、 ここから一番近い湯屋へと逆方向に足先を向けた。
 長屋に居るあいだに肌に染みついた血と汗の匂いを、家に帰るまえに落としたかった。 道ですれ違う人々に気づかれるようなものではないが。 気分的にも、仕事の夜から尾を引いている秀にまつわる己のもやもやとした感情が全身に纏いつき、 どうにも切り替えがきかないままだったのだ。
 昼下がりの湯屋は、仕事終わりの刻限にはまだ間があるせいか客は少なかった。いるのも暇そうな隠居が大半だったが、 こういう時間帯に来られた特権とばかりに、長々と浸かって世間話に花を咲かせている壮年の二人連れもいた。
 手足をぬるめの湯の中でグッと伸ばせば、今まで何も感じていなかった体全体がかなり強張っていたことに気づく。 暴れる男の体を力づくで抑え込むのは、息の根を止めるよりも存外骨が折れた。 もがき跳ねあがる熱い体の振動と激しい息遣いが、腕や耳の奥によみがえった。
 手負いの秀が、もう仲間の監視下に置かれたことで、 これで大丈夫だと自分のほうがホッとしているのは、どう考えてもおかしな話だった。 おとといまでは、つまり仕事の夜の前日までは、秀の身辺を気にすることもなかった。 母の失踪以来、秀そのものからは興味が離れない勇次だったが、 かと言って秀が過敏に警戒するような態度をあからさまにする以上、こちらからは近づきようがないと思っていた。
 最初の対峙で美しいと感じた印象のまま、自分のなかに居座ってしまった秀という仕事人。 近くて遠い。近づくほどに遠くなる。 勇次にとってそんなもどかしくも心を捉えて離さない存在として、常に意識の射程圏内には置いていた。 しかし秀はまるで接触を恐れるかのように、仕事上の隠れ屋での会合時にも勇次とは顔すら合わせようとせず、 もっぱら会話は八丁堀を中継にして遠回しに交わされるという有り様だった。
 昨夜もしも八丁堀もその場に居たとしたら、自分はどうしていただろう。 向かいの二人連れがさっきから、ここにはいない友達の噂話をしている。 脈のない後家の女を相手にあれこれと世話を焼いている男のようだ。 人が少ないのをいいことに声高なその会話を聞き流しつつ、ぼんやりと考える。
 あの男が居たら身を引いていただろうか。
 口には出さずとも秀が八丁堀とはややひねくれた信頼関係を築いていることは、 共に仕事を重ねてゆくなかで徐々に分かってきた。 歳の差でいえば叔父ほどに離れた二本差しへの態度は、勇次に対するそれとはまた違った面当てのキツさがある。 一筋縄ではいかない二人の感情的な相克は、勇次が見たところでは秀の側にやや分が悪そうだ。 あんたは臆病者だ侍は信用出来ねぇと事あるごとに攻撃しながら、 その実誰よりも拠り所にしているらしい秀の、ガキっぽいと思える態度を垣間見る場面もあった。
 何だかんだいって自分が加わるより以前からの腐れ縁を断ち切れない二人の、出会いから現在に至る経緯は知る由もない。 しかし同業者にはことさら懐疑的に振る舞っても看過できない存在が、秀にとっては八丁堀なのだろう。 ひょっとすると、勇次に母の存在があるように。
 その複雑な心に気づいたからと、第三者である自分がどうこう言うつもりも割って入る気もないが、あの夜。 八丁堀という隔たりが自分たちの間を阻んでいなかったあの夜に、 あたかも三の糸を放つように言葉と目で秀をこの手に捉えたことは、ただ怪我の危機を救うためだけだったとは言えない。
 いま振り返ってみれば、たまさかの偶然を装っただけで、いつか訪れる機会を自分はひそかに狙っていた。 対面を避け逃げるばかりの秀を捉えて、自分に真っ向から向き合わせたい、と。
 この好機を逃しては、秀が何を考え何を感じているのか肉薄するのは、この先にも来ないかも知れない。 ましてや、互いの鼓動を直に感じ、皮膚を通じて熱のやり取りをすることなど。 傷に、血に、腕に、指に触れてはじめて、勇次は秀に対する己の執心が単なる興味を超えたところにあることを自覚した。
 秀の苦痛に、差し出された手にさえ恐れを抱く秀の孤独に直接触れたからこそ、 昏い胸裏の深淵のどこからか「かわいそうに」という言葉が泡のように浮かび上がってきたのだ。

「なあ兄ィ。一度カンジの野郎に会ってガツンとやっちゃってくんねぇか。 あの女はやめとけって、おれが何度言ってやってもあのバカ、かわいそうだ、の一点張りでよ」
 とりとめなく巡り続けていた思考を、その一声が破った。 勇次はふと気が付いて、 斜め向かいに並んで浸かってさっきからずっと、何やかにやと煩く語らっていた二人連れの会話に意識を向けた。
「フーン・・・。かわいそうだって、ヤツが言ったのかい」
「うん。だからそんな理屈は通らねぇと言ったんだ。 放っておけねぇだのどうしても気になるだのとそんな理由で夫婦約束を交わすなんざ、 後でぜったい悔やむことになるって、おれァ散々―――」
 どうやら話題の主は、左側の若い方の男の友人のようだ。 大事な友の意思決定を覆したいと言い募るその男を、 連れの男は濡れた手で遮ると、ああそいつぁだめだな、とその手で顔を撫で下ろしながら呟いた。
「な、だめだろ?やっぱそうだよな!おれがいくら言っても聞きゃしねぇからここは兄ィが」
「そうじゃねぇ、何を言っても無駄だってことさ。かわいそうだ、たぁ、カンジが女に惚れたってことよ」
「―――えっ・・・」
 同意と真逆の返答をされた若い方が絶句したが、意外な盲点を突かれたようにしばらくそれについて何か考え込んだ。 反論しないで喉の奥で唸ったところをみると、そう断じられてもムリはない根拠をどこかに見出しているらしい。 それを横目にとらえた連れの男は、兄貴分らしく鷹揚に弟分の肩を叩くと、自信ありげに請け合った。
「心底惚れてんだよ。そいつは間違ぇねぇ。ほっとけねぇのは惚れちまってるからだ。 男がそう言う時にはもう心は決まったも同然よ。だからおめぇが何言っても、もうだめさ」
 少しの間をおいて、ふたりの男は湯気の向こうから視線を感じ、揃って頭を向けてたじろいだ。 男しかいない風呂のなかでも、うっかり二度見してしまうほどの男前が、 なんとも奇妙な表情を浮かべて自分たちを見ている。 文字通り水も滴る色男のはずが、なぜか虚を突かれたような目でぼんやりとこっちを見つめているのだ。
「な、なんでぇ、兄さん?」
 我にかえった年上のほうが、先に声をあげる。
「おれっちたちがそんなに煩かったかい?」
「・・・いや。あんたがいま言った通りだと思って感心したのさ」
 今度はふたりの客がきょとんとする番だった。 勇次は水滴のおちる白い頬に面映ゆい微苦笑を浮かべ、ざばりと勢いよく湯から上がる。 なにか言いかけた男の声も無視して、そのまま後もみずにそそくさと浴場を出た。
 湯屋を出る頃には、心身ともに生まれ変わったようにさっぱりしていた。 心の根っこを覆い隠してきたもやもやした霧が、やっと晴れた気がした。



 かわいそうじゃないか、と言って勇次の求愛を蹴ったあの女は、それから長いときを置かずして死んだ。
 あるとき、おりくが集めた裏の仲間内の情報が外に漏れ、 ふたりの仕事人が公儀に捕えられた末に獄門死する事態が起きた。 裏切ったのははぐれの元仏師の男だった。男はついに賭場で首が回らなくなり、仕事人仲間にまで無心した。 それをすげなく断られたことを逆恨みし、奉行所に密告したのだ。
 おりく親子に関しては、さすがに拾って貰った恩義がなけなしの良心の欠片を疼かせたのか暴露しなかった。 勇次と女のことは、最後まで気づかず仕舞いだったがゆえに勇次は命拾いしたようなものだが、 それも一端には女が男にとことん尽くしていた所以もあっただろう。
 結局、ここから一味は解散するに至ったが、 当然ながらはぐれの男は仕事人の掟によって粛清される運命(さだめ)にあった。 女は、男の裏切りが知れたあとにも、逃亡する男と最後まで行動を共にした。勇次には一言の挨拶も何も残さなかった。
 怒りに燃えふたりの行方を追って粛清に加わろうとする勇次を、 そのときばかりは「おやめ」と母はきっぱりと制止した。 勇次の怒りが、裏切りそのものにあるのではなく嫉妬という私怨に比重があることも、聡い母は見抜いていたようだ。
 元締めの命令として不承不承踏みとどまったものの、同時に勇次は密かに恐れてもいた。仮に自分がふたりを追い詰めたとき、 自分たちと同じく男に騙されていた女に命乞いをさせたとして、果たして女は男を捨てられるだろうか、と。
 女は先に殺された男の名を狂ったように叫びながら、みずから粛清の刃の前に身を投げ出したという。 瀕死の力を振り絞って男の側に這ってゆき、何かからまだ男を守るように折り重なって動かなくなった。
 追っ手に加わらなかった勇次は、のちに粛清した仕事人から女の最期を聞いた。 女と勇次の仲を知っていた追っ手のひとりが、形見の品のつもりか女の髪から抜き取って来た簪を、 おりくへの報告時に隠れてそっと勇次に渡して行った。
 勇次はそれを橋の上から投げ捨て、すべてを忘れた。






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