傷 (きず) 痕  - 勇次 - 6









 情報屋ならこういう時の為に、もぐりの医者の一人や二人知ってるだろと勇次に言われ、 加代が血相変えて長屋を飛び出して行った後。
 勇次は秀の傍らに腰を下ろし、様子を見守っている。秀は最初ほとんど反応を返さなかったが、 高熱と汗の量を察して「水が要るか」と耳元で訊ねたとき、しばらくして苦しい吐息を漏らした。
 勇次は粗末な椀に水瓶から直接水を汲んで横倒しの体の脇に膝をつく。 医者が来るまで下手に動かさずこのままにしておいた方がいいだろう。
「いま飲ませてやるからな」
 わざわざ断る必要もないが口に出したのは、秀に確認する為というよりは自分の行動への言い訳のようだと思った。
 乱れて落ちかかる汗に湿った蓬髪を掻き分けると、熱はあるくせに蒼ざめた横顔がくったりと露わになった。 首の下側にそっと手を入れて少しだけ頭のみを上向きにさせると、椀の水を自らの口に含んでその上に屈み込んだ。
 押し当てた唇にどんな予想もしていなかったが、その頼りないほどのやわらかさが勇次を内心たじろがせる。 秀が反応せずにいるので、もう少し強く唇を押し付けてみた。 薄い皮一枚通して密着した秀のそれが緊張でやや硬くなったのを感じると、 勇次はまず脇から零れるのも構わずに与えてみた。口内の水がなくなってから顔を離して秀を見ると、 ほとんど口には入らなかったものの、濡れた唇は軽く開いていた。
 また椀の水を口にして、今度は頬に手を添えてふたたび唇を重ねる。今度はほとんどの水が秀の口の中に入った。 よほど飢えていたのだろう。震える唇を開き必死に飲み込もうとして喉を鳴らす音が生々しい。 勇次の背を軽い官能の波が覆う。
「・・・」
 目は閉じていたがもっと欲しいと訴えるように開きっぱなしの口元から、浮いた赤い舌先がのぞいていた。
 結局なみなみと汲んだ椀が空になるまで与えたあとも、勇次は離れがたく唇を合わせたままでいた。 数度の口移しのあいだに、この唇がようやっと生気を取り戻しつつある喘ぎもろとも、すっかり自分のもののように感じていた。 昨晩よりもさらに近く、これ以上にないほどに密着して。
 時間をかけてうっすらと半眼開けられた瞼の下で、ほとんど黒目だけにしか見えない瞳が勇次の目を捉える。 移し替える媒体がなくなっても、互いに唇は薄く開いていた。勇次は舌先を秀のなかに滑り込ませる。 水のおかげで秀の舌はまだひんやりとしている。 何が起きているのか、しばらく考えているような気配があった。
 やがて、触れていたその舌がのろのろと動いて自分の舌を弱弱しく押し返してきたとき、 それが秀の抵抗なのか、それとも応えようとしたのか、勇次にはどちらとも分からなかった。

 加代に急かされてやって来た、見るからにまともな医者の範疇からはみ出た酒臭い初老の男は、 充満する血の臭いを一嗅ぎするなり、短く吐き捨てた。
「加代。酒買って来い。おれとこのバカの消毒用だ」
 ぶつぶつ言いながらも加代がまた長屋を出てゆくと、もぐりの医者は初めて相まみえる裏の仕事人を土間に立ったまま見上げた。
「へーぇ。こりゃまたどこの役者かと思うじゃねぇか」
「・・・」
 勇次は男をじっと見たまま、秀の傍らの空間を空けた。 板間に上がり込んだ医師は、やる気もなさそうに怪我人の肩に手をかけると無造作にこっちを向かせる。 いきなり手荒に動かされ、はじめて秀が獣めいた声と共に烈しく身を跳ねあがらせた。
「死にぞこないのガキが!まぁだ懲りずに生きてやがったか。おめぇの気の強ぇツラはもう見飽きたぜ。えぇ?」
 酒臭い息を吐きかけられてももちろんうんともすんとも言えない秀が、 このもぐりの医者の世話になるのが一度や二度ではないらしいのは、男のうんざりした声からも知れた。 罵声を浴びせられるのも乱暴に扱われることにも慣れているのか、最初の不意打ちで声を上げた後は、 歯を食い縛って肩で息をしながら触診に堪えている。
「・・・この手当したのはあんたかい、色男?」
 邪魔にならぬよう少し離れた場所に立ってその様子を見ている勇次に、医者が背中で問う。
「昨夜・・・手持ちのもので血止めをしただけだ」
「撥を使うなんざ、おつだねぇ」
 言葉の奥底に皮肉はなかった。 これまで母やその他の仕事人から教わってきた急場の際の手際が、ここでも功を奏したことに内心安堵しつつ、 勇次はその医者にしては大工のように頑強そうな背に向けて尋ねた。
「縫うのかい?」
 低い問いかけに、男は振り返り奇妙な笑いを浮かべて見上げた。
「あんたどう思う?こいつの腕がこのまま役立たずになっちまったほうが、いっそ親切かもしれねぇぜ」
 勇次の青みがかった切れ長の双眸が、酒で黄色く濁った医者の目の中を見据える。しばし見合った後でポツリと言った。
「・・・そいつはあとから秀が決めればいいことだ」
 勇次の返答は医師にとってはさほど意外なものでもなかったとみえ、 男はわざとらしく肩をすくめてハッと酒臭い息を吐くと、短く吠えるように嗤った。
「おめぇらのような連中はまったく救いようがねぇ」
 そして秀に向かい脅しつける声音で確認する。
「オイ、いまの色男の声が聞こえたか?てめぇの腕を縫い繋いでくれろとさ。それで文句はねぇかい、秀よ?」
 秀は答えなかったが、屈み込む背の向こうで血と汗を吸った黒衣の肩が揺れ、黒い頭が少し動いたのを勇次の目は認めた。 その瞬間、秀の意識が自分に向けられていることをなんとなく感じた。 もぐりの医者がフンと鼻を鳴らして付け加える。
「また遣いものになったと後からおれを恨むんじゃねぇぜ。 それからな、相当痛ぇ思いをするってのは先に教えといてやるよ。 せいぜい後悔しやがれってんだ」

 酒が来るまでに、医者は勇次に湯を沸かせと命じた。火を熾しているところに加代が戻り、 勇次が井戸端に行くのは目立ちすぎるという理由から、加代が手桶に水を汲んであるだけの容器に満たした。
「男手があって助かったぜ」
 にやりと嗤った男の言う意味は、実際手術が始まってからすぐ判明した。 医者は勇次に秀の頭を膝の上に抱え上げさせ、口には布で猿ぐつわを噛ませた。舌を噛まないためだ。 そのうえで何が始まるかと土間の隅で遠巻きにしていた加代を呼びつけ、秀の足を押さえておくように言う。
「暴れりゃ跳ね飛ばされる。加代、おめぇはこいつの足の上にケツ乗っけてしっかり押さえてな」
 加代と勇次は互いに向き合う格好で秀の体を押さえている。 勇次の施した応急処置の包帯ごと切り裂いた衣服の下の肌を露わにし、ごわついた血痕を大まかに拭き取った。 切り口からの出血がまた小止みなく始まったのが見て取れる。
 医者は傍らにおいた栓を抜いた徳利から直接酒を煽る。ごくりと旨そうに喉を鳴らし、 さらにもう一口含むと、それをブアッと傷口にむけて吹き付けた。途端秀の体がエビのように弓なりに反り返り、 勇次は慌てて浮き上がる肩を沈めるようにして頭を抱え込んだ。
「よし」
 どことなく舌なめずりでもしていそうな声で一言呟くと、医師は縫合に取り掛かった。

 沸かした湯で針から何から道具の消毒をさせたのは、 麻酔無しまともな助手もなしというやっつけ仕事ながら、 人殺しでも依頼されれば最良を尽くすという医者としての誇りを感じさせた。
 どこで道を踏み外したかは知らないが、元は名のある医師だったのではないか。 蘭学にも精通していなければとても出来ない施術だ。 一晩放置したままの傷だが、太刀筋がよく切り口が綺麗だったこと、 腱は切れたものもあるが深部や骨は無傷なこと、そして勇次の応急処置が秀にとっての幸運だった。
 酔いどれに針など持てるのかと、半ば懐疑的に眺めていたことをやや恥じ入るほど、 男の手際は門外漢の勇次の目にも頼もしく、また正確な手際に映った。 が、その腕前と引き換えのように秀の苦しみ方は、軽い調子で告げられた前置き以上の凄まじさだった。
 勇次は能面のごとく顔の筋肉をピクリとも動かさずにいたが、 暴れる両足の上に全体重をかけて抑え込んでいる加代に目をやれば、秀の苦悶を見ずに済むようにしっかと固く瞼を閉じ、 紅く塗った唇をきつく結んでいる。日ごろの陽性の落ち着きの無さは一切見られず、 どこか分かり切った物事を耐え抜く悲しみの表情に見えた。
 こうした事態は頻繁ではないものの、過去にも繰り返されてきたものなのだろう。 勇次自身、今朝なにか胸騒ぎがしてここを覗いてみる気になったのは、 予感のようなものがふと働いたからだった。あの男、よもや手負いのまま苦しむに任せているのではないかと。
 秀は殺しの現場で仲間に助けられたことさえ、許しがたく思っているらしい。 それはようやく秀の手を解放した勇次が、着ていた羽織をさらりと脱いで肩に着せ掛けたときの、 一瞬泣き顔に見えたほど歪んだ表情からもはっきりしていた。
 こいつで傷と血を隠せと囁くと、目の前の勇次を底光りする大きな瞳でジッと見据えたすえ、 今度こそ振り返らず闇に姿を消した。

 自己責任が大前提の仕事人の仲間意識というのは、 あくまでも一蓮托生の仲。誰かひとりが沈めば、他の皆も沈む危険がある場合のみ手を貸してやる。 相手はそれを恩義に思う必要など、本来ない。いつか逆の立場になったとして、 その時に下手に拘われば己の身が危ういとなった場合は、躊躇なく見捨ててゆく。
 秀はそれでも、勇次の昨夜の行動には驚いたのだろう。これまでこの新入りの仲間に対してどんな態度を取ってきたか、 自覚しているだけに。そもそもこの男の頭に、仲間の手を借りようという考えははじめからないのだろう。 ふと思った。
 隣人の加代ですら、怪我のことをまったく知らなかったのだ。八丁堀は言うまでもない。 だが、つき合いの長い二人は秀の性格をよく理解しているからこそ、 秀が自分から助けを求めて来ない限り―――あり得ないことだとしても―――、 己の身の始末は己でつけるつもりなのだと、つとめて放っておくのが常だったのかも知れない。
 加代を見ていて、そんなことをぼんやり考えているうち、 腕の中で激しくもがく振動がいつの間にか止んでいることに気づく。 覗き込んでみると、秀は気絶していた。
「運がいい野郎だ。これでやりやすくなった。あとちっとで終わる」
 額にびっしりと浮いた汗の玉をたすきがけした腕の辺りで拭い、医者が唸るように言った。 灯りの下に広げた油紙のうえは、血まみれだったが思っていたほど大量でなかったことにホッとする。
「・・・」
 血の気がなく、無残な人形みたいに妙な首の角度にねじれている頤に指をかけて、 あらためて上からその顔を眺めてみた。長いたった一人の苦闘からようやく解放されたような、疲れ果てた寝顔だった。
 ばかなヤツだ、ふと肚のなかに言葉が浮かぶ。かわいそうなヤツ。こんなふうにしか生きられないとは。
 いままで色々な仕事人にまみえてきたが、そのなかでも殺しの腕前は若さに合わぬほどの技量を持ってる。 が、これほど不器用な殺し屋にも、遭ったことはなかった。
「・・・かわいそうに」
 気づけばごく低く口について出ていた。向かいの加代が、信じられない言葉を聞いたというように、 丸い瞳をますます大きく見開いてこっちを見ているのが分かったが、抱込んだ男から勇次は顔を上げなかった。

「・・・終わりだ。金輪際、この大馬鹿の治療なんざやらねぇぞ、おれは。起きたらこいつにそう言っとけ」
 たすきを取りながら医者は宣言すると、残りの酒を汗を拭き拭き煽った。 ぷはっと濃厚な酒の香とともに太い息を吐くと、 青みがかった隙のない目で自分を見ている勇次に、にやりと笑いかけて語り掛けた。
「色男さんよ。あんたもこいつにそう構わねぇ方がいいぜ。とっつかまった日にゃ、命がいくつあっても足りやしねぇ」





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