傷 (きず) 痕  - 勇次 - 5









 なんでもいい、とあの頃は思っていた。
 偶然が次の偶然を招き、因縁があらたな因縁を結んだ。 母に脅迫状を送り付けている張本人だと勇次が睨んでいた加代は、南町奉行所同心・中村主水と、 その元仕事人一味に属する情報屋だったことが後に判明する。
 母の過去に目をつけて脅してきたのは、中村がちょうど裏の仕事に掛けようと目論んでいたある小間物屋の主だった。 その男、升屋太兵衛は本当の名を松造といい、 昔から裏稼業や人に言えぬ過去を持つ人間相手の強請りを本業とする、根っからの外道である。 中村の知り合いの料亭のご新造が、かつて春を売る飯盛り女だった過去を太兵衛に脅された挙句、投身自殺を図った。 この事件を機に、秀と同様に裏の仕事から身を引いていた中村は、末期の女の恨みを晴らすべく重い腰を上げたのだ。
 それぞれの事情は違えど、標的(まと)は同じ。 互いの利害の一致から、ただ一度きり今回の仕事に加えてくれるよう、母は勇次を従えて中村に直談判に赴いた。 場には加代と、例の職人姿の男も一緒にいた。 そのときには互いに暗がりで一瞬視線をかち合わせたのみで、言葉を交わすことはおろかそれきり顔を見ることもなかった。
 母の背後に影のように付き従いながら、勇次の心は江戸の仕事人たちと会っている間も虚ろに別のところを彷徨っていた。 先日明かされたばかりの秘密。川風に吹かれながらの母の懺悔を聞いたときから、勇次の内側では時間の流れがそこで止まっている。 それを知ったあとでは、これまでのどんな出会いや因縁をも取るに足らないものにしか思えなくなった。
 ただ一度きりのはずが、その後も勇次は母と共に、江戸の仕事人たちと縁が切れずに幾つかの仕事を組んで手掛けた。 とはいえ、勇次が八丁堀、秀、お加代の三人組を信用したのではない。流れに身を任せ、 仕事をする・しないの意思決定でさえも母の決断に委ねていたところがある。いま自分で何かを考えることすら億劫だった。 黙って仕事をしていれば、誰にも、母にすらその空白には気づかないだろうと思っていたのだ。母も何も言わなかった。
 勇次が母の本心を知ったのは、ある訳ありの女を三味線屋にしばらくの間匿ったところからだ。 生まれたばかりの赤子を抱いた逃亡者と自分の若い時を重ねたのか、母は危険と知りつつ女と赤ん坊を守ろうと動いた。 その一連の経緯のなか、女を巡る意見の対立から母と息子は少しずつ溝を深めていった。これまでにはなかった異変が、 ふたりの間には起こっていた。
 結局は女を救えなかったが、遺された赤ん坊を母は「自分で育ててみる」と言い残し、単身江戸を去る道を選ぶ。 そしてどうした成りゆきでか気が付けば勇次は、八丁堀をこれと見込んだ母から一方的に託される格好で、 彼らの仲間に加えられることになっていた。

 なんでもいい、とそのときの勇次の感慨も変わらず空虚なものだった。母がこっちの意志もたしかめず勝手に決めたことだが、 怒りや反発はもう湧かなかった。それよりも、裏の人間にしか頼む場所を持たない母の愛が哀しかった。
 三味線屋を続けながらここで母を待つつもりかと自問するには、しばらく時間が必要だ。 自分を育て上げいっぱしの仕事人にまで仕立てた女。血の繋がりはなくとも心では完全に母と慕ってやまない女。 息子にすら自分の抱える問題を打ち明けようとしない母の水臭さはとうに諦めていたのに、 今回の母の憂いが空気の重さとして勇次には敏感に伝わっていた。 なぜ何も言ってくれないのかと珍しく声に出して問うた息子に、迷いながらついに母は重い口を開いたのだ。
 お前の実の父を殺したのは、わたしだと。
 ただ一度きりの仕事をする前に、因縁の男を闇に葬る直前に、 ずっと隠しておくつもりだった親子の秘密を母が打ち明けたのは、 他の人間の口から真実を勇次が知ることになるのを恐れたためだろうか。
 自らの死をもって償う覚悟を決めてそのことを倅に告げ、静かに首を差し出そうとした母を、勇次は許した。 息も止まるほどに驚きはしたが、驚くとほとんど同時に、どこかで納得している自分もいたからだ。 母のこれまでの慈しみ。子供には理解できないほどの強い想いに突き動かされて、 自分に向き合ってくれているのを恐いと感じたことさえある。厳しいほどの愛。それらの謎がすべて氷解したようだ。
 母を憎むことはおろか、なぜ今さらと恨み、詰ることさえ思いつかなかった。 うっすらと記憶しているてておやのことを思ってみても、心からの同情は湧いてこない。 仕事人としてしてはいけない道に堕ち、粛清された父。仕方ないとも思う自分はやはり冷酷な人間なのだろう。 が、それが自分としてはごく自然な反応だと、ことさら振り返って後悔するようなこともない。 ひとりになった今も、その気持ちに変わりはない。
 しかし長年抱え続けた秘密を懺悔した母の心境としては、 いかに勇次が聞いたことはもう忘れたと言い、あんたはオレのおっかさんだと諭してくれたとはいえ、 このまま何もなかったようなフリをして暮らしてゆくことに、むしろ堪えがたさを感じていたようだ。 どこでどうするともいつ頃戻るとも言わず「元気で」とただ一言、ひっそり旅立った母の背を見送り、 勇次はこれから先の見通せない江戸での日々を思った。
 少なくともいまの虚ろな心を抱えた勇次に、江戸を出てまた危険な旅暮らしを始める気力はなかった。 いっそ自堕落に生きようと思えば、この大都会に残ることこそ相応しい。 表の稼業の稼ぎもそこそこにはあるが、遊ぶ金を増やすにはやはり裏の仕事があるに越したことはない。
 主水に促され、ようやく秀とぶっきらぼうに名乗った自分よりも若いあの男は、 勇次に対する敵意を最初から隠そうともしていなかった。不信ではなく、敵意。 秀の切り付けるような、そしてこちらのまなざしをどこまでも撥ね付けようとする烈しさのなかに、 勇次は手負いの獣が他者を近づけまいとする、威嚇に似た恐れを感じ取った。
 あれほど、自らの死を恐れもせずに自分と対峙した男が。 疑心暗鬼の渦巻くなかで、心ならずも組んで仕事をする経験値を重ねるほどに、 少しずつ勇次は秀に対する興味で空っぽの胸の洞を埋めようとし、 秀のほうではそんな三味線屋をいっそう警戒するがゆえに、過剰な拒否反応を隠さなかった。
 そして昨晩。
 なんでもいい、と思って手を貸した。 秀になんと思われようが構わない。が、どうでもいいわけではない。 勇次は己の意志でこの選択をした。流れに任せてきたこれまでと違い、進んで面倒事に手を伸ばしてみる気になったのだ。
 手当を受けているあいだ秀の脂汗を滲ませた顔のうえに浮かんでは消えた、初めて見る表情。 睨んでいながら内心の怖れと戸惑いを完全には隠せない様子に、かわいそうに、とふと浮かんだこと。 外面的な硬さと相反する、意外なほど柔らかく無防備な心。
 それを目の当たりにして、勇次ははじめて己自身の孤独を深く感じたのだ。母と切り離されて以来、はじめて。



「居るかい?」
 低く呼びかけたが思ったとおりなんの応(いら)えもなかった。戸口の桟を軽く叩いて声をかけても、 すすけた長屋の障子戸の向こうからは、人の動く物音すら伝わってこない。
 しかし勇次はそれがかえって、ここに来るあいだ懸念していたことの裏付けのように感じた。 医者に診せにいく以外の用事で、あの怪我で家を留守にするはずがない。 指をすき間にひっかけると、戸口はがたぴし言いながらもふつうに開いた。
「・・・入ぇるぜ」
 とりあえず声をかけ草履の足を土間に踏み入れた途端、錆びの匂いが鼻先をすぐに捉える。 勇次は後ろ手に障子戸を閉じると、想像に近い光景のうえにしばし無感動な視線をとどめた。
 昨晩秀に貸してやった自分の羽織が、 セミの抜け殻のようにふわりと黒い板間のうえにわだかまっているのが真っ先に目に入る。 その少し離れた場所で、昨日のままの仕事着に身を包んだ秀らしき人物が身を縮めるようにして横倒しになっていた。
 勇次は何を考えるまもなく草履を脱ぎ捨てると、その傍らに素早く膝をついてこちらに向けた背後から、 顔を覗き込んだ。血臭はむせ返るほどに周囲に立ち込めている。
「おい。・・・秀」
 応えはない。一瞬まさか死んでいるのではと思ったが、 死体ならばムッと温まった血の匂いを立ち上らせるはずがない。 そして怪我をした腕を庇うような、いささか無理のある体勢。
「秀。分かるか?」
 体に触れていいものか少し迷い、乱れた髪の近くに顔を寄せ耳元に囁きかける。わずかに反応があった。
「秀。オレが分かるか?聞こえるか?」
 声を掛けながらそっと無傷のほうの肩に軽く手を触れる。とたん、思わず手を引きそうになった。 黒衣ごしに物凄い熱が伝わったからだ。同時に汗に濡れて張り付く布の感触も指先にはっきりと残った。
 舌打ちして勇次は身を起こす。あの後、秀は勇次が脱いで肩に着せかけてやった羽織で怪我を隠し、 なんとか長屋まで戻ったまではいいが、そのまま力尽きてしまったらしい。止血はしたとは言え応急処置に過ぎず、 医者に診せる必要があると思ったが、あの場でそこまでの余計なおせっかいは言いたくなかった。
 何とかしただろう、隣人に加代もいることだし・・・と自分に言い聞かせてみたものの、 昨晩はなかなか目が冴えて寝付けなかった。翌朝、結局寝不足のまま諦めて起きだし、 いつまでも気にするくらいならいっそ、様子を見に行ってやれと早々に家を出て来たのだ。
 出血は床に広がってはいないところから、辛うじて血は止まっているようだが、 この高熱、ぐったりとしてほとんど虫の息の様子から、かなり状態は悪いとみた。
「―――・・・」
 突如として、胃の腑から熱い大きな塊りがせり上がる。思わず漏れた喘ぎを奥歯で噛みしめたそのとき。 背後で能天気に秀さんと呼びかける女の声がした。
「おはよー。起きてる〜?ねぇねぇちょっと聞・・・」
 自分も大あくびを漏らしながら無遠慮に戸口を引き開けた加代が、片足踏み込んだ状態でその場に固まっている。 いるはずのない人間がここに居ることにギョッとしたのに加え、 振り向いた勇次の目付きにさながら射すくめられた格好だ。
「・・・あ―――、あんた・・・?」
 やや間をおいてようやっと声が出たものの、殺し屋の家に殺し屋が忍び込んでいる状況の異常さは、 早くも呑み込んでいるような胡乱な声音だった。 加代は視線だけを動かして、なにかに屈み込むような三味線屋と、 その片膝立ちになった足元辺りに倒れ伏すこの屋の住人の両方を捉えるなり、 素早く踏み込んだ足を元に戻して全力で戸口を閉めようとする。
「待ちな。行くんじゃねぇ!」
 立て付けの悪い障子戸を半分閉じたところで、鋭くまっすぐに届いた勇次の声に、 ビクッと加代が飛び上がり動きを止めた。見えない糸に捕えられたように硬直しているのは、 一度指を切り落とされかけた恐怖がまだ記憶に鮮明すぎるせいか。勇次にとっては好都合だ。
「おい加代。黙って聞くんだ。―――秀がまずいことになってる」
 押し殺した声で囁くと、加代の見開いたままの大きな瞳が二、三度瞬きをしてゆっくりとこっちを見た。
「・・・え・・・?」
「いいから中に入って戸を閉めろ」
 ほぼ口を動かさずに勇次が命じると、ハッと我に返ったらしい加代は言われたとおりに動き、 ご丁寧にも内側から心張り棒をかった。そのうえで、恐る恐る勇次を遠巻きにして訊き返す。
「秀さんが、なに?どうかしたの・・・?」
 初めて見るような目つきで、女がまじまじと自分を凝視していることに勇次は気づく。 そして思う。そのくらい、いまの自分の表情は変容しているのだろうと。余裕はどこにもなかった。
「昨夜の仕事で、秀が利き腕を斬られた」
 加代の大きな目が倍くらいに見開かれた。思わず口元に手をやり、次の瞬間草履を履いたまま上がりかまちに転げ込んで来た。
「・・・まさか―――ウソ・・・ッッ!?」
 強く立ち込めた血の臭いに、顔を上げた加代は蒼白になって息を呑んだ。
「落ち着け。騒ぐんじゃねぇ。まだ死んだわけじゃねぇぜ」





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