傷 (きず) 痕  - 勇次 - 4









 かわいそう、はいったい自分のなかのどこから湧いて出た言葉なのか。
 自宅に戻ったあと、ひとり土間で乾いた血を洗い落としながら、ふとそんな疑問が頭をよぎる。 済んだ物事をあとから思い返すような益もないことは、とうの昔にやめてしまっていたのに。
 秀に対して二度までもはっきりとそんな感想を抱いた自分と、とった行動。 そして何よりも、こうしてあった出来事を顧みたくなった理由(わけ)は、 手を放そうとしない勇次を睨みつけていたはずの秀が、こちらに釘付けになったままで徐々に見せた目の色の変化だった。
 身の裡にふいに頭をもたげた官能の気配に気づき、自分で驚いたように瞳孔を開かせた。 呆然と見つめてくる黒い瞳に、信じられないという動揺がありありと浮かんでいる。 互いの心音さえ聞こえそうな沈黙と距離のなか、やがてそのまなざしは抗いがたい欲求を息づかせ何度かまばたきを繰り返した。
 最初の動機は、手当を拒む秀に突き付けたとおり、逃げる際落ちた血によって足がつくことを恐れたためだ。 実際、ふたりがここまで身を触れ合わせたのは、組んで仕事をするようになって初めてのことだ。 まともに視線を交わすのでさえ、初対面の橋の下での対峙以来だった。
 標的はすべて片付けたとはいえ、まだ敵地に居るという危険な状況下、 手当を進める勇次はどこか自分のなかで妙な昂ぶりを感じ始めていた。 自分が歯で裂いた布の音、痛みをこらえるべく短く繰り返される秀のかすかな喘ぎ。闇の中でむせかえる血の匂いと。 だらりと下ろした腕をとって勇次が添え木代わりの撥をあてがい、巻いた包帯をきつく締めあげると、 秀はビクンと一瞬身を硬直させた。のけ反った瞬間、くっきりと浮いた喉仏の隆起が夜目にもよく見えた。
 勇次が手を動かすたび、肩を揺らしつつも秀は懸命に苦しい声を押し込めようと堪えている。 その押し殺した切れ切れの呼気が、まるで性交時の余裕をなくしてゆく断末魔の声にも聴こえた。 それを聴きながら、勇次は薄く開けた唇から静かに細く息を送り出している。 秀の喘ぎが自分の動きに合わせて激しくなるにつれ、自分の胸の隆起も早まるのを意識しながら呼吸で制御した。
 包帯まで巻いてしまった後で、手の甲に垂れた他人の血を舐めとるという行為も、あの場では異様に感じなかった。 誰かに対してしたこともなければ、しようと思ったこともない。 にも関わらず、考えることなくただ直感のままに動いていたのだ。 己の肚の底でいま頭をもたげている本能的な欲望、目の前の獲物に食らいつきたいという渇望を、見せつけたい。 それを引き出させたこの男に。この男からも何かを引き出したいという訳の分からない欲求に、 内心では目もくらむほどに駆り立てられていた。
 なんでそこまで性急に、応急手当を施しただけの仕事仲間に欲情したのかは分からない。しかも相手は男だ。 同性に対してこれまでそんな欲を抱いたことはなかった。それなのに気の迷いだと打ち消す余裕もないほど、 秀が欲しいと思ったのは何故なのか。
 ただ手当てを終えた直後、疲れ果てたように思わず深いため息を秀が漏らしたとき、『かわいそうに』という言葉が、 勇次の深度のない闇色の胸のなかにぽつんと咲いた。 それが先刻から水面下でざわめいていた情欲を、実際の行動に移させたことはたしかだ。
 初めて口にする血の味は、ほのかに苦くそして温い。 勇次に痛む手を掴まれ逃げられずに立ち尽す秀と、ごく間近で見つめ合ったとき。 戸惑いながらも目を逸らさない黒目がちの瞳のなかに、 自分と同じく激しい情欲に突き上げられている一匹の獣の渇望を、勇次はみとめた。

 かわいそう、とは云っても胸が痛むような感傷的なものでもなく、淡々とした呟きに近かった。 まんざら身に覚えのない感情でもない。 秀と出会う以前の歳月のなかにも、勇次は何度か似たような感情が、 抑制された心の下で動くのを意識することがあった。

―――だってあんた。

 母が旅で家を空けているのをいいことに、煙り出しの窓からわずかに差し込む星影だけを頼りに、 台所で立ったまま冷や酒をあおる。

―――だってあんた。かわいそうじゃないか。

 出し抜けに、かなり昔に聞いた女の呟きが記憶の底から甦る。ああ、と思わず小さな声が漏れた。
 そうだった。思い出した。かわいそう、と最初に聞いたのはあの女からだ。 そのときは勇次のほうが、女のその回答に違和感というか不可解な情念を感じたのだったが。 別れられない理由にそんな屁理屈があるのかと。
 もうやめた方がいいんじゃねぇのか、と再三言って女を口説いていたのは、十代終わりの生意気な勇次だった。 同じ仕事人仲間の少なくみても七、八歳は年上の女に、当時の勇次は執心していた。
 元締めでもある母おりくは、それに対していい顔はしていない。しかし面と向かって倅に口出しすることはない。 母はいつでもそうだ。勇次の動向はそれとなく全貌を捉えておきながら、一切は本人の裁量と判断にゆだねる。
 自分で蒔いた種はかならず自分で刈り取ることになってるんだから、というのが母の口癖だった。 若い勇次にとって放任してくれる母は有難い反面で、 いきがった挙句に痛い目を見るのも大事、と結果を織り込み済みで見届けられている気がする。
 この世で唯ひとり、心から信頼する母。どんなに裏の仕事に慣れようとも縮まらない、仕事人としての格の差。 むしろこの世界を知れば知るほどに、母の背中は大きくも遠くも感じられる。 だからこその幼稚な反抗心が働き、勇次はむしろあてつけのように、その女と愛人関係を続けていた。
 どこの一味にも属していない、いわゆる「はぐれ」と呼ばれる仕事人のひとりだった。 その女には常に行動を同じくしている、やはりはぐれの男がいる。 夫婦ではなく、しかし男女の倦んだ関係をずるずると何年も引きずったまま、 裏稼業から足を洗うでもなければどこかに腰を据えて仕事するわけでもなく、 根無し草のような暮らしを続けているふたりだった。 おりくがとある旧知の闇の差配人の依頼で、大がかりな仕事を引き受けざるを得なくなった際、 偶然再会したふたりに急遽加勢を頼んだ。それを機に、おりくの仕事に何度か加わることになったのだ。
 二十(はたち)にもならない勇次の目には、ふたりは年齢以上に老け込んで見えた。 男に隠れて女と情を交わす仲になったが、すっぽりと腕の中におさまってしまう細い体にも色白で整ったうりざね顔にも、 哀しみとも疲れともつかないある種の空虚さがまといついていた。 あと数年も経てば、見る影もなく衰えてゆく未来が透けて見えそうなときもある。
 しかしそれでも女は美しい。いや、それだからこそ美しいのかも知れない。 まるでピンと張った糸のうえに蝶がやっとのことで留まり、しずかに羽を休めるような。 移ろいやすく壊れそうなものを美しいと感じ、惹かれ執着する自身の性情に、勇次はあるときから気づいている。
 神経質に笑ったあと虚ろに遠くを見やる癖、 情事の際に背中や腕や頬を許すように撫でる優しい手つきは、背伸びしたい若者にとって大人の色香でもあり、 どこか独占欲、庇護欲を掻き立てられるものでもあった。
 いつまであんなのとくっついてるつもりなんだよ、とある日の出会い茶屋での逢瀬の後、またも勇次は持ち出した。 男は昼近くになって起き出してくると、ゆうべの燗冷ましを銚子から直接喉に流し込み、すぐに賭場に出かけてゆく。 負けが込んでいようが関係ない。男はぎりぎりまで賭け事に己をそしてあるだけの金を注ぎこむ。 いよいよまずいとなると、裏の仕事に手を出す。元々は堅気の仏師だったと女から聞いたが、 そんな技を持つなどとその鱗片さえ日ごろの姿からは伺えない。
 でもね、と女はさんざん勇次に男に対する愚痴を零した挙句、最後にはかならず男を庇う一言を付け加えるのも忘れない。 鑿を持たせればそこはやっぱり違うんだよ。いまでもそこそこ玩具みたいなのは作るんだよ。あんまり売れやしないけど。
 女は今は裏の仕事はせず、料理屋で働き長屋に戻れば繕い物も手掛けている。表向きでも苦労人の女房を装っていながら、 その内情もヒモを抱えた渡世人では、この女を救う世界はどこにも存在しないと勇次は憤る。 女さえ承諾するならば、あの冴えない男に代わって自分が守ってやるのにと。

―――潮時だぜ。あいつもあんたをろくに可愛がりもしねぇじゃねぇか。とんだ金魚の糞だ。

 勇次が重ねて言うと、なにを言っても笑うばかりだった女が、フッと一瞬だけ真顔に戻った。

―――だってあんた。かわいそうじゃないか。

―――かわいそう?あいつのどこがかわいそうなんだ。かわいそうなのはあんただろ。

 紅い夜具のうえに身を起こして鏡台に向かおうとする白い背中に向けて勇次が訊く。 何をやってもうまくいかない男のことをそれでも女は見限るつもりはないらしい。

―――かわいそう。ごめんね。

 ぽつりと繰り返して、焦れる若い愛人のそれ以上の追及を打ち切ってしまう。 鏡に映った貌が口元のほくろに小指をあてて勇次に微笑む。





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